涙の意志
(・・・くそっ)
司樹の番に背を向け、足早に歩く。いくらその場から逃れるように離れたところで心の中のもやもやは晴れることなどない。
玻璃様の気を引く人間。いくら当主の番とはいえただの人間など期待をかける価値などないはずなのに。
考え事をしながら歩いているとふわりと緑と花の香りが鼻をかすめて顔を上げた。滅多に外に出ることのないあの方の心を慰めるために造られた庭園に憧れの存在は佇んでいた。一枚の崇高な絵画のような佇まいに思わず感嘆の息がもれる。
「玻璃様、西部の当主、比売宮 涙が参りました」
跪いて礼をするとぼんやりと庭園を眺めていた赤と黒の瞳がこちらを向いた。
「やあ、涙。君と2人で話すのも久しぶりになってしまったね」
自分を見ると玻璃様はわずかに口元に笑みを浮かべているが、その笑みは喜びから来るものではない。誰かと話をするときは笑みを浮かべた方が心証が良い、この方にとっては知識として理解しているそれに則っているだけだ。
「とんでもございません。玻璃様の申しつけとあらばどこからでも駆けつける所存です」
自分がどれだけ心を込めて答えてもこの方の心に響くことなどないとわかっている。けれどそうだとしてもこの言葉に自分の思いを欠く理由になどならない。俺はできうる限り丁寧に言葉を紡いだ。
「ありがとう。さぁ掛けてくれ。今日はゆっくり話そう」
玻璃様の言葉に顔を上げて椅子に座る。玻璃様がテーブルの上にあったベルをチリンと鳴らすとどこからか傍付きの使用人がやってきてテーブルのセッティングをし直す。茶菓子を焼きたてのものに替えて、紅茶を淹れなおす。使用人がテーブルの上に置かれていた白いケーキ箱を手に取ろうとしたとき、玻璃様がその手を制した。
「これはいい。残しておいてくれ」
一声かけると使用人は一礼して去っていった。高価な茶器と茶菓子が並ぶテーブルに置かれたままの質素な箱に目がくぎ付けになる。
「・・・玻璃様、そちらは?」
自分が来る前から置かれていたもの、それに嫌な予感がしながらも尋ねると玻璃様はわずかに目を伏せた。
「あぁ、これは司樹の番・・・朝陽からの手土産だよ」
案の定、自分にとっては好ましくない相手からのものだった。その事実に心が波立つのが分かった。けれど、何よりも自分を動揺させたのは玻璃様の表情だ。笑みこそ普段のものと変わらない。けれど、その視線がいつもとは違う。
「とても興味深い品なんだ、涙も食べてみるといい。彼女の手作りだよ」
動揺して黙り込んだ自分の前にマフィンが置かれた。ぱっと見は普通のマフィンに見えなくない。抹茶にしては薄い緑色の奇妙な菓子は、人間の手作りということもあって食べることがためらわれる。けれど目の前に座る玻璃様の観察するような視線を向けられてしまえば、断るという選択肢はない。
「・・・・いただきます」
意を決して一口かじる。その瞬間に口から鼻に抜ける青臭さ、舌に感じる苦みと異様な辛みが襲い掛かる。
「ぐっ・・・!!」
思わずむせこみそうになるが、この方を前にして咳き込むわけにはいかない。気力でこらえ、まだ熱い紅茶を一気にあおった。
「・・・・今すぐあの人間を捕らえてきて処罰を下しましょう」
とても人様に渡せるような代物ではない。ましてや尊いこの方の口に入れるなどもってのほかな駄作。
一瞬毒でも盛られているのかと思ったほどだ。憤りのままに立ちあがろうとする自分を玻璃様はわずかに手を上げて制した。
「必要ない。それに、これはただの手土産じゃない。私の反応を試すためのものだったんだよ」
憤る自分とは打って変わって玻璃様はどこか機嫌が良さそうだ。
「・・・試す、ですか?」
人間が高貴なこの方を試すようなことだってあってはならないだろう。それなのにどうして目の前のこの方は自分を制するのだろう。
「ああ。手作りの手土産を渡されたときの私の反応を試したかったらしい。さすが司樹の心を芽生えさせた番だ」
何の感情ものせることがない高貴な色の瞳。それが今はわずかながらに感情がのっているように見えるのは自分の気のせいだろうか。
そしてそれが自分によってではなく、ポッと出の人間によって起こされた変化だと言うのだから余計に心が波立つ。
(・・・・どうして・・あいつが・・)
思わずギリッと奥歯を噛んだ。低俗な人間だということを抜きに考えてもその存在は認められるはずもない。
「・・・玻璃様の願いは、我々鬼と人間の共存だと存じ上げています。そしてあの人間が畏れ多くも同じ願いを抱いているということも。・・・けれど、なぜあの人間を気に掛けるのですか?」
「なぜ、とは?」
思わず口をついて出た疑問に玻璃様は怪訝そうな顔をする。
「一介の人間には過ぎた役割です。短いその生ではとても叶えられるようなものではありません。」
「もちろん。すぐに全てを望んでいるわけではないよ。けれど彼女は東部当主の番。彼女の立場とその心は多くの者に影響を与えるだろう」
どうして、あの者にそこまでの期待をかけるのだろう。この方はあの人間に何をみたのだろう。
「・・・・俺では・・・」
(俺ではあなたのお役に立てませんか?)
弱気な言葉を口にはしなかったことがせめてもの矜持だ。この方のお心を煩わせるつもりも、意味のない慰めの言葉をいただくつもりもない。
この方が認めてくれたからこそ今の俺がある。俺がこうしてここにいるのは全てこの方のおかげだ。だからこそ俺は自分の行動で結果を示してみせる。
「私は君たちに期待しているんだ。君たちの心の行方に。どうか、私の望む未来を見せてくれ」
この方はきっとわかっていないだろう。望む未来の先にご自身の姿がないことでは何の意味もないということを。だからこそ、何の心配しないでほしいと意味を込めて笑みを浮かべた。
「もちろんです。俺は尊き玻璃様の希望ですから」
俺は絶対にあなたを置いていかない。
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