番外編04 イグナシオとちびミケ
面倒で神経を使う書類をどうにか一枚書き終え、羽根ペンを置き吸い取り紙を当てようと顔を上げたイグナシオは、目の前に白黒茶3色斑の丸い尻がどーんと鎮座していることに気がついた。
「………ちびミケ。執務中は机の上は立ち入り禁止だと言っているだろう」
ここは伯爵邸、イグナシオの執務室。
彼がため息混じりに声をかけたのは、半年ほど前からレイエス家で飼い始めた三毛猫、「ちびミケ」(のお尻)である。
今日もいつの間にか執務机に上がり込んでいたこの猫は、イグナシオに咎められても全く頓着することなく、木彫りの熊に半身を預けてうっすらイビキなどかいている。
イグナシオはやれやれと首を振った。
拾ってきた時はとにかく小さくてブルブル震えていて、これでちゃんと育つのかと心配したものだが。
「………まさか、半年でここまで貫禄が出るとは思わなかったな………」
イグナシオは苦笑いしながらちびミケとの出会いを思い返した。
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それは、レイエス領の視察を終えた帰り道でのこと。
馬を休ませるために途中の河畔で馬車を停め、自身も強張った身体を伸ばそうと扉を開けたところへ、狐に追われた一匹の子猫がイグナシオの胸元目がけて飛び込んできたのだった。
そのまま四肢の爪を全出しして胸にガッシリしがみつく子猫に当惑しながらも、イグナシオは御者と二人で狐を追い払った。
しばらくして、もう大丈夫だろうとイグナシオは子猫を地面に下ろそうとしたが、子猫は怯えて目をまんまるに見開き、イグナシオのシャツに爪を立てたまま離れようとしない。
仕方がないので、馬を休ませる間イグナシオはずっと子猫を抱えていたが、その間も子猫を探して親猫が現れるようなことはなかった。
周囲には人家もないから、誰かの飼い猫ということもなさそうだ。恐らくこの猫は親元を離れ、たった一匹で生きてきたのだろう。
だとすれば、近くにまだ狐がいるかもしれない状況で、無理に引き剥がして子猫をここに置いていくのも忍びない。
イグナシオは悩んだ挙句、そのまま子猫を伯爵邸に連れ帰ることにしたのだった。
当家の主人が領地から子猫を抱いて帰宅したと聞いて、伯爵邸の使用人、主にメイドたちの間に一大センセーションが巻き起こった。
使用人たちがワクワクドキドキ遠巻きに見守る中、「元いた場所に戻していらっしゃい」と腰に手を当てるアマリアに、「ちゃんと自分で最後まで面倒見るから」と食い下がり、イグナシオはどうにかこうにか最後には「しょうがないですね……ちゃんと面倒を見るんですよ」の言質をもぎ取ることができた。
その瞬間、使用人たちからは一斉に勝ち鬨が上がったが、セバスチャンだけは「ああ……これで一層旦那様が縁遠くなってしまわれる……」と嬉しさと悲痛さが入り混じった顔をしていたのはあまり知られていない。
かくして、小さな三毛猫は伯爵家の一員となった。
イグナシオはアマリアとの約束通り、実家で何匹も猫を飼っているという猫マイスターパウラの指導のもと、おっかなびっくり子猫の世話をした。
子猫もイグナシオの側を離れようとせず、イグナシオの行くところはどこでもついて歩いた。
イグナシオは子猫に名門レイエス家に相応しい名前をつけてやろうとあれこれ思案したが、なかなか良い名が思いつかない。
あれこれ悩んでいるうちに、パウラがとりあえずのつもりで子猫を「ちびミケ(仮)」と呼び始め、やがてそれがそのまま子猫にも周囲の人間にも名前として浸透してしまった。
そのせいでイグナシオは、旅先から帰ってきたソフィアに、「ペットに別れた妻にちなんだ名前をつけるとか、どんだけ………」と、これでもかというほどドン引きされてしまい、誤解を解くのにたいそう苦労した。
そんなこんなで伯爵家の面々に見守られ、ちびミケはすくすくと健やかに成長していき……
半年経った今、こうしてすっかり身体も態度も大きくなったというわけだ。
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「ちびミケ。すまないが机から降りてくれ。今大事な仕事をしているんだ」
イグナシオが少し声を高めてもう一度呼びかけると、ちびミケは不承不承といった様子でゆっくり振り返り、返事のつもりか尻尾を大きくひと振りしてみせた。
それはインクの乾いていない重要書類の上を擦り、ついでに蓋の閉まっていないインク壺もなぎ倒していく。
「ちっ、ちびミケえええええええええ〜〜〜」
執務室にイグナシオの絶叫が響き渡った。
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夕刻時、レイエス家料理長ベルナルドは困惑していた。
そろそろ夕食の支度で忙しくなるというのに、当主イグナシオが突然厨房にやって来て、先ほどからずっと目の前でモジモジしているのだ。
正直、成人男性のモジモジは見ていて気持ちのいいものではない。
ベルナルドはとにかく話を聞き出そうと、イグナシオに椅子を勧めた。
「どうしました、旦那様。こんなところまでいらっしゃるなんて。
何かお食事に不備でもありましたか?」
イグナシオは慌てて手を振る。
「ああ、いや、そんなことではないんだ。
ただその……屋敷に私しかいない時に、食堂まで一人分をわざわざ運ばせるのは、常々申し訳ないような気がしていてだな……
私もここで使用人の皆と一緒に食事を摂った方が、面倒がなくていいのではないかと、ちょっと考えたものだから……」
きまり悪そうなイグナシオに、ベルナルドはピンと来る。
(……ははあ、我々の手間が云々と言っているが、こりゃ単純に旦那様ご自身が寂しいんだろうな……)
ベルナルドは頷いた。
「わかりました。じゃあ今日の夕食からこちらでご一緒できるよう計らいましょう。
なんならちびミケのごはん皿も持っていらっしゃるといい」
「ありがとう!」
パァッと顔を輝かせ、厨房を出ていくイグナシオに、ベルナルドは(何歳児なんだ、旦那様は……)と複雑な表情になった。
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その日の夕食、厨房の大きな使用人テーブルでセバスチャンとアマリアに挟まれて座るイグナシオに、使用人たちの視線が集中した。
厨房の隅では、ちびミケが一足先にいつものご飯の上にベルナルドがサービスで乗せてやった蒸しささみを堪能している。
イグナシオはベルナルドがサーブしたスープに神妙な顔で口をつけ、ホッと吐息を漏らした。
「………皆で食べると美味しくなるというのは本当だな………なんだ、私の家族はここにいるじゃないか………」
「「「「!!!!」」」」
イグナシオの独白に、使用人たちの多くが思わずガタンと椅子を鳴らす。
そしてある者は天を仰ぎ、ある者は慌ててハンカチを取り出し、ある者は自分のスープに山ほど胡椒を振り込んだ。
「旦那様……旦那様は当家の主ではございますが、お辛いときはいつでも私どもに甘えてよろしいのですからね?
伯爵家使用人一同、腕を広げてウェルカムでございます」
「あ、ああ。ありがとう……」
涙ぐみながら掻き口説くセバスチャンと、うんうん頷く使用人たちに、そんなことになるとは思っていなかったイグナシオは及び腰で礼を言った。
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それからというもの、ソフィアの不在時はイグナシオはいつも使用人たちと厨房で食事をとるようになった。
伯爵邸はかつてないほどアットホームな空気に包まれていたが、それが若干行き過ぎて、ベルナルドに頭を撫でられたり、アマリアがアメちゃんをくれるようになってしまい、イグナシオは何とも言えない気分を味わったのだった。




