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第9話 サビ残の森と、名もなき命

薄暗い西の森を、肺が破けそうなほど息を荒らげながら走る。

護衛兵に蹴り飛ばされて折れた肋骨が、一歩踏み出すたびに肺に突き刺さるような激痛を訴えていた。


「はぁっ……はぁっ……! クソが……っ!」


木の根に足をとられ、泥にまみれながら、俺は道なき道を進んでいた。

夜襲を裏工作で止めたことによる、歴史のしわ寄せ。

前世の言葉で言えば、自分のミスの尻拭いのための最悪なサビ残である。

だが、見捨てれば俺の中の何かが完全に壊れてしまう。

削り取られた記憶の空洞が、これ以上自分を失うなと悲鳴を上げていた。


(頼む、まだ間に合ってくれ。俺のせいで、あの名もなき子供が死ぬのだけは勘弁してくれ……!)


目を血走らせて周囲を索敵しながら進むと、前方から微かな足音と、草木を踏み折る音が聞こえてきた。

俺は反射的に巨大な倒木の陰に身を隠し、息を殺す。

敵の精鋭本隊は、すでに森を抜けてキャンプへと向かっているはずだ。

だが、数十メートル先。

王国軍の青い軍服を着た軽装の兵士が一人、本隊のルートから逸れて、草むらをかき分けている。

隠れた伏兵や、逃げ遅れた敗残兵を狩るための斥候だろう。


その斥候兵が、ある巨大な木のウロ(空洞)の前でピタリと足を止めた。


「……ん? 誰かいるのか?」


斥候兵が剣を構え、ウロの中を覗き込む。

その奥で、煤にまみれた髪の毛が微かに揺れるのが見えた。

口を両手で必死に押さえ、ガタガタと震えている小さな影。

少女の足元を見ると、泥だらけの靴の片方がなく、足首が赤く腫れ上がっていた。

暗い森の中で足を挫き、動けずに丸二日もこのウロに隠れて震えていたのだ。


「なんだ、ガキか。こんな所に隠れてるとはな……まあいい、後顧の憂いは絶っておくか」


斥候兵が冷酷に剣を振り上げる。


(――クソッ!!)


考えるより先に、俺の体は倒木の陰から飛び出していた。

真っ向から斬り合えば、訓練された王国の精鋭相手にただの雑魚モブが勝てるわけがない。

必要なのは、不意打ちと徹底的な泥臭さだ。

声を上げれば気付かれる。

俺は足音を泥で殺し、背後から全力で駆け寄った。


だが、相手は精鋭部隊の斥候だ。

背後に迫る素人の殺気に気づき、斥候兵は舌打ちと共に鋭く振り返った。


「なんだ貴様、帝国の――」


斥候兵の剣が俺を両断しようと振り下ろされた瞬間、俺は思い切り地面を蹴ってスライディングするように姿勢を低くした。

手の中にあるのは剣ではない。

走る途中で両手にすくい上げていた、腐葉土と汚水が混ざった『泥』だ。


「喰らえッ!!」


下からすくい上げるように、斥候兵の顔面に向けて力任せに泥をぶちまける。


「グアッ!? 目が……この、薄汚い雑魚がッ!」


泥が目に入り、斥候兵の姿勢が崩れる。

だが、相手は盲目の状態でも正確に俺の肩を蹴り飛ばしてきた。


「がはっ……!」


折れていた肋骨に重い一撃が入り、視界が白く点滅する。

呼吸ができず、泥水が溜まった水たまりへと無様に転がり込んだ。

ここで怯めば俺もあの子も死ぬ。

そして、死ねばまたあの『栞』が発動し、俺の記憶が焼け落ちる。


(死にたくない、忘れたくない、死にたくない……ッ!)


恐怖と生存本能が、激痛を無理やりねじ伏せた。

俺は泥水の中から這い上がり、再び斥候兵へと飛びかかった。

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