第8話 歴史のしわ寄せと、絶望の西の森
監査官ガルドが拘束され、本国への護送馬車に押し込まれていった翌日。
臨時キャンプには、これまでとは打って変わって、微かな活気と安堵の空気が戻っていた。
「聞いたか? ガルドの野郎、裏で王国の商人と繋がってやがったんだとよ」
「オズワルド少佐が自ら証拠を突きつけたらしい。さすがは少佐だ……」
配給の硬いパンをかじりながら、兵士たちのひそひそ話を聞いていた俺は、胸の奥で小さく息を吐いた。
これでオズワルドの戦死フラグは完全に折れた。
俺の「数年後の確定死」という最悪の運命も、ひとまずは回避されたことになる。
(……この調子で歴史の陰に隠れながら、俺は安全な後方勤務への異動を待つだけだ)
心の中でわずかな希望を抱きかけた、まさにその時だった。
――カンカンカンカンッ!!
突如として、キャンプの静寂を引き裂くように、けたたましい警鐘が鳴り響いた。
俺はパンを落としそうになりながら立ち上がる。
キャンプの入り口付近で、怒号が飛び交っているのが見えた。
1人の兵士が、泡を吹いて倒れ込むように陣地に飛び込んできたのだ。
「伝令ッ!! 西の森より、敵襲――ッ!!」
血まみれの斥候兵が叫んだその言葉に、キャンプ全体の空気が一瞬で凍りついた。
「西の森だと!? 馬鹿な、あそこは沼地や谷が続く難所だぞ! 大軍が通れる道ではない!」
副官が怒鳴り返すが、斥候兵は首を横に振る。
「ち、違います……! 大軍ではありません! 王国軍の精鋭部隊が、一直線にこのキャンプの側面に奇襲をかけようと……!」
その報告を聞いた瞬間、俺の脳内に冷たい電流が走った。
(待て。西の森からの奇襲? そんなイベント、原作ゲームには絶対になかったぞ!?)
ゲームの知識を必死に検索する。
本来のシナリオにおいて、王国軍はこの渓谷の「正面ルート」で待ち伏せをしているはずだ。
西の森などという悪路から奇襲をかけてくるなんて、システム上ありえない動きだった。
――いや、違う。
『本来のシナリオ』なら、昨夜の時点で『ここにいる帝国軍』は夜襲を仕掛け、正面から罠にハマって全滅していたのだ。
俺が裏工作で夜襲を中止させたことで、待ちぼうけを食らった王国軍の精鋭が痺れを切らし、「予定外のルート」から強襲をかけてきたのだとしたら?
「これが……シナリオを無理やりへし折ったことによる、歴史のしわ寄せかよ……!」
俺の背筋を凍らせたのは、それだけではなかった。
『いいか、よく聞け。西の森の方角なら、軍の行軍ルートから外れてるはずだ。日が暮れきる前に、とにかく西へ逃げろ』
一昨日の夕暮れ。
俺が、あの廃村で出会った名もなき戦争孤児の少女に指示した逃走ルート。
それはまさに今、王国軍の精鋭が進軍してきている「西の森」だった。
「…………っ、クソッ!!」
俺は硬いパンを地面に叩きつけ、腰の粗悪なショートソードをひったくるように掴んだ。
(見捨てろ。行けば確実に殺される。そしてまたあの『栞』が発動して、俺の記憶が焼け落ちるんだぞ!)
頭の中で、理性が必死に警告のサイレンを鳴らす。
あの子は、ゲームの画面外で必死に生きようとしていた、ただの小さな命だ。
俺が俺自身の保身のために夜襲を止めたせいで、安全だったはずの森が地獄に変わってしまった。
だが、助けに行けば俺が死ぬ。
俺の自我が、大切な思い出が、また一つ永遠に消え去る。
それでも。
すでに一つ記憶を失い、ぽっかりと空いた胸の奥の空洞が、不気味な寒気を放っていた。
ここで見捨てれば、俺は確実に「人間」ではなくなる。
死なずとも、心が怪物に成り果ててしまう。
「全隊、西側に防衛線を敷け! 弓兵を前へ!」
オズワルドの的確な指示が飛び交い、キャンプ全体が迎撃の準備に慌ただしく動き出す中。
俺は誰にも気づかれないように陣地の死角をすり抜け、ただ一人、単独で西の森へと向かって駆け出していた。
「マジでふざけんなよ……! 自分が一番嫌いな『偽善』じゃねえか……っ!」
折れた肋骨が悲鳴を上げる。血の味が口の中に広がる。
だが、足は止めない。
自分の尻拭いのため、そして、見過ごせない小さな命を救うため。
名もなき底辺兵士の、無謀で泥臭い死地への疾走が始まった。




