第7話 匿名の内部告発と、逆転の決裁
懐にある黒革の帳簿が、異常なほど重く感じられた。
護衛兵に蹴り飛ばされた肋骨が、呼吸をするたびに鋭く痛む。
だが、立ち止まって休む暇などない。
これをオズワルドの手に確実に、かつ俺の関与を完全に消した状態で渡さなければ、俺の命はない。
(どうやって、オズワルド自身に『偶然』これを発見させるか……)
自ら手渡すのは論外。
かといって、オズワルドのテントの机に再びコッソリ置くのもリスクが高すぎる。
昨夜の「偽造警告文」の件で、大隊長のテント周辺は現在、見張りが倍に増員され、殺気立った警戒態勢が敷かれているのだ。
あの厳重な監視網のなかに潜り込むのは、泥まみれの平兵士には不可能に近い。
(……オズワルドという男の『習性』を利用するしかない)
肋骨の痛みを堪えながら、俺はキャンプの一角――補給部隊の物資集積所へと向かった。
設定資料集の記述によれば、オズワルドという指揮官には特筆すべき癖があった。
彼は貴族出身のエリートでありながら、負傷者の数や物資の残量を記した「現場からの日報」を、副官任せにせず必ず自分自身の目で目を通す。
部下を単なる数字としてではなく、命として見ている証拠だ。
集積所の裏手に回り込むと、案の定、オズワルドの副官が物資担当の兵士と何やら言い争っていた。
「だから、傷薬の配給がこれだけでは足りんと言っているだろう!」
「そう言われましても、本国からの補給が届いておらず……」
言い争いに夢中になっている彼らのすぐ傍ら、木箱の上には、これからオズワルドのテントへ運ばれるであろう「日報と書類の束」が無造作に積まれた木のトレイが置かれていた。
(今だ……!)
俺は泥だらけの布を抱えて通り過ぎる「ただの雑用兵」を装いながら、木箱の横をすり抜ける。
そして、彼らの死角に入ったほんの一瞬の隙を突き、軍服の下から黒い帳簿を引き抜き、書類の束の一番下に滑り込ませた。
トントン、と束の端を揃えるほどの余裕はない。帳簿は少しだけ歪んだ形で日報の下に隠された。
「……っ」
心臓をバクバクさせながら、俺はそのまま歩みを止めず、何食わぬ顔で集積所を離れた。
もしあの副官が途中で書類を落としたり、中身を細かく確認したりすれば一貫の終わりだ。
帳簿から俺の泥や悪臭が伝われば、犯人探しが始まる。
だが、日報の確認はオズワルドの仕事。
副官はそのままトレイごと大隊長のテントへ持ち込むはずだ。
俺はキャンプの中央が見渡せる物陰に移動し、息を潜めて事の成り行きを見守った。
冷や汗が目に入り、視界が滲む。
肋骨の痛みが、失敗すれば殺されるという現実を絶え間なく突きつけてくる。
やがて――。
オズワルドのテントの入り口が、勢いよくバサァッ! と開かれた。
中から出てきたオズワルドの表情は、先ほどまでの疲労困憊したそれとは完全に別物だった。
その手には、俺が仕込んだあの黒革の帳簿がしっかりと握られている。
彼の瞳には、理不尽な上層部への静かで冷酷な怒りの火が灯っていた。
「副官! 監査官殿の天幕を包囲しろ!! 一兵たりとも外へ逃がすな!」
「は、はいっ!? しょ、少佐、監査官殿に刃を向ければ反逆に――」
「これは帝国軍法、ひいては国家に対する重大な反逆罪の現行犯だ! 王国軍への軍資金横流し……この動かぬ証拠がその証明だ。責任はすべて俺が取る、行けっ!!」
オズワルドの烈火の如き号令に、周囲の空気が一変した。
武装した兵士たちが一斉にガルドの豪華なテントへと雪崩れ込んでいく。
遠くから、ガルドの「貴様ら、自分が何をしているか分かっているのか!?」「離せ! 私は本国からの監査官だぞ!」という見苦しい悲鳴が聞こえてきたが、オズワルドがその帳簿を突きつけると、ガルドは糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「……やり、過ごした」
俺は物陰で小さく呟き、泥だらけの壁に背中を預けてズルズルと座り込んだ。
これで、ガルドによるオズワルドの失脚は完全に消滅した。
抗命罪の件も、「王国軍と内通していたガルドから部隊を守った」という形に書き換えることができる。
オズワルドは生き残り、この部隊の指揮権は保たれた。
レオンが絶望の底に落ちる破滅のバッドエンドへの最初の巨大なトリガーを、俺は力ずくでへし折ることに成功したのだ。
極度の緊張が解け、どっと押し寄せてきた疲労感に目を閉じる。
だが、この時の俺はまだ気づいていなかった。
シナリオの巨大な歯車を力技で歪めた代償として、この世界が、新たなる絶望を生み出し始めていることに。




