第6話 汚泥の潜入と、黒革の帳簿
本国から派遣された監査官、ガルドのテントは、血と泥と死臭が染み付いたこの最前線のキャンプの中で、そこだけ異様に浮いていた。
分厚く立派な天幕。周囲には専用の重武装の護衛が立ち並んでいる。
(あそこだけ、まるで貴族のピクニックだな……)
遠巻きに観察しながら、俺は強く唇を噛んだ。
ガルドがオズワルドを本陣の会議テントに呼び出し、抗命罪の件でねちねちと「指導」を行っている今が、唯一のチャンスだった。
だが、ただの兵士がテントに近づけば、即座に槍を突きつけられる。
俺は、陣地の端に置かれていた「汚物入れの桶」を両手で抱え上げた。
前線の兵士たちの排泄物や、血を吸った包帯の残骸が放り込まれた、誰もが鼻をつまんで避けるひどい悪臭を放つ桶だ。
俺はそれを抱え、いかにも「上官の命令で嫌な雑用を押し付けられた、哀れな下働き」というオーラを全身から放ちながら、ガルドのテントへと近づいていく。
「止まれ。誰の命令だ?」
入り口の護衛兵が、不審げに槍を交差させて道を塞いだ。
「は、はいっ! 会議が長引くので、その前に監査官殿の天幕の汚物処理と清掃をしておくようにと、小隊長殿から……!」
ペコペコと卑屈に頭を下げ、あえて目を合わせず、震える声で答える。
護衛の兵士は、俺の抱えている桶の凄まじい悪臭に顔をしかめ、「チッ、さっさと終わらせろ。私物に触ったら腕を切り落とすぞ」と顎でしゃくった。
テントの中に入ると、外の死臭とは無縁の、強い香水の匂いと高級な酒の香りが充満していた。
俺は入り口に背を向けて床を拭くふりをしながら、素早く視線を巡らせる。
ゲームの知識が正しければ、ガルドの横領の証拠は、厳重な金庫の中ではなく、偽装のためにあえて『雑務箱』の底に隠されているはずだ。
這いつくばって机の下に潜り込み、丸められた不要な書類が放り込まれた木箱をあさる。
手が震える。見つかれば拷問だ。記憶が削られる。
冷や汗が目に入り、視界が滲む。
「……あった」
一番底。
二重底になっている隙間から、一冊の黒い革張りの帳簿を引きずり出した。
中身をパラパラとめくる。
王国側の商人のサイン、横流しされた軍資金と支援物資の額。
真っ黒だ。
これをオズワルドに渡せば、ガルドの横暴を完全に封じ込めることができる。
その時。
背後のテントの入り口付近で、軍靴の足音が鳴った。
「おい、清掃はまだ終わらんのか! 監査官殿がお戻りになるぞ!」
見張りの声だ。
俺は心臓が口から飛び出そうになるのを必死に堪え、帳簿を素早く軍服の内側にねじ込んだ。
振り返りざまに、俺は意図的に足をもつれさせ、持っていた汚物桶を床に派手にぶちまけた。
「ああっ!?」
「き、貴様っ! 何をやっている!!」
悪臭を放つ汚水が、高級な絨毯に染み込んでいく。
俺はその汚水の中に自ら這いつくばり、頭を床に擦り付けて泣き叫んだ。
「も、申し訳ありません! 手が滑ってしまい……っ! どうか、どうかお許しをォォッ!!」
「この薄汚いクズが! 監査官殿の天幕を汚しおって!」
護衛兵が踏み込んできて、俺の脇腹を軍靴で容赦なく蹴り飛ばした。
「ガハッ……!」
肋骨が軋む激痛に息が止まる。
だが、痛みに顔を歪めながらも、俺は軍服の下の帳簿を必死に腕で庇い続けた。
「チッ、臭くてかなわん! つまみ出せ!」
泥と排泄物の混じった汚水にまみれた俺は、襟首を掴まれ、テントの外へとゴミのように放り出された。
泥の地面を転がり、全身が激しい痛みに苛まれる。
「さっさと消えろ! 次近づいたら斬り捨てるぞ!」
護衛兵の怒声を聞きながら、俺は咳き込み、ゆっくりと身を起こした。
誰もが顔を背けるほどの悪臭と泥にまみれた姿。
だが、俺の軍服の内側には、確かにガルドの破滅を決定づける『黒革の帳簿』が収まっていた。
(手に入れた……。これで、死なずに済む……)
血の混じった唾を吐き捨て、俺は足を引きずりながら自分の寝床へと戻り始めた。
だが、問題はここからだ。
ただの平兵士である俺が、これを直接オズワルドに「拾いました」と手渡すわけにはいかない。
そんなことをすれば、出所を怪しまれて最悪俺がガルドの息のかかった連中に消される。
(どうやって、オズワルド自身に『偶然』これを発見させるか……)
肋骨の痛みに耐えながら、俺は泥だらけの頭をフル回転させ、次なる暗躍のシナリオを組み立て始めた。




