第10話 泥まみれの殺意と、帰還
「死ねェッ!!」
視力を奪われた斥候兵が、デタラメに剣を振り回す。
その刃が俺の二の腕を浅く切り裂いたが、俺は痛みを無視して相手の腰に組み付き、そのまま泥の中へとなぎ倒した。
「離せ、クズが!」
斥候兵が馬乗りになろうとする俺を撥ね退けようと、鎧のまま強烈な頭突きを見舞ってくる。
鼻血が噴き出し、脳が揺れる。
だが、絶対に手は離さない。
俺は左手で手探りに地面を掻き回し、こぶし大の硬い『石』を掴み取った。
「ああああああっ!!」
獣のような叫びを上げながら、俺はその石を、斥候兵の兜の隙間、無防備な側頭部に向けて何度も、何度も力任せに叩きつけた。
ゴキリ、と嫌な音が鳴る。
「あ……がっ……」
斥候兵の動きがガクンと鈍った。
その一瞬の隙を見逃さず、俺は腰のポーチから粗悪なショートソードを引き抜き、相手の鎧の隙間――首筋に向かって全体重を乗せて突き立てた。
ブチブチと生々しい肉を裂く感触と、生温かい液体が手に飛び散る。
斥候兵の体が大きく痙攣し、やがてドサリと重たい肉の塊に変わった。
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ」
血と泥にまみれた手を見つめ、胃の奥から込み上げる猛烈な吐き気を必死に飲み込む。
これが、現実の殺し合い。
本物の死の感触だった。
魔法で爽快に敵を吹き飛ばすのとは違う、命をすり潰すような圧倒的な嫌悪感。
「お、おじちゃん……?」
ウロの中から、怯えきった声が聞こえた。
俺は顔についた血を泥だらけの袖で乱暴に拭い、ひきつった笑みを作って振り返った。
「……無事だったか」
少女はポロポロと大粒の涙をこぼし、コクリと頷いた。
「軍の連中が通るのはこの少し南側だ。お前はここから真っ直ぐ西へ走れ。もう振り返るなよ」
少女は泥だらけの顔で力強く頷くと、深い森の奥へと足を引きずりながら駆け出していった。
その小さな背中が見えなくなるのを見届けてから、俺は斥候兵の遺体から使えそうな荷物を手早く剥ぎ取った。
魔導書などという都合のいいものはない。
見つけたのは、止血用の清潔な包帯と、王国軍制式の鋭い短剣、そして痛み止めの丸薬が数粒だけだった。
丸薬を水筒の水で飲み込み、傷口をきつく縛ってから、俺は自分たちの臨時キャンプへと踵を返した。
キャンプに戻った頃には、すでに戦いのピークは過ぎ去っていた。
陣地のあちこちでテントが焼け焦げ、西側の柵は無残に破壊されている。だが、最悪の事態――部隊の全滅だけは免れていた。
「負傷者を後方へ運べ! 防衛線は絶対に崩すな、敵の第二陣に備えろ!」
血に塗れた軍服を纏いながらも、オズワルドの力強い号令が陣地に響き渡っている。
俺が西の森で敵の先行斥候と泥臭い殺し合いを演じ、ほんのわずかに敵の進軍スピードを遅らせたあの数分間。
そのわずかな時間差が、優秀な指揮官であるオズワルドに陣形を立て直す猶予を与えたのだ。
結果として、王国軍の精鋭による強襲は完全に勢いを殺され、撤退を余儀なくされていた。
「はぁ……っ、なんとか、首の皮一枚繋がったか……」
俺は誰にも気づかれないように陣地の死角に滑り込み、泥だらけの地面にへたり込んだ。
全身の骨が軋み、他人の血の悪臭が鼻を突く。
俺は英雄じゃない。
ただの底辺モブだ。
だが、泥水をすすり、己の人間性を削りながらでも、絶対にこの地獄を生き延びてやる。
冷たい風が吹き抜ける中、俺は奪い取った王国の短剣を、強く、強く握りしめた。




