第11話 モブ兵士の絶望と、呪いの代償
西の森に静寂が戻った。
耳を澄ませても、聞こえるのは風が木々を揺らす音と、俺自身のひどく荒い、ぜいぜいという呼吸音だけだ。
アドレナリンが切れ始め、護衛兵に蹴り折られた肋骨の痛みが、再び凶暴な牙を剥いて肺を突き刺してくる。
全身の筋肉が悲鳴を上げ、泥と他人の血を吸って重くなった安物の軍服が、鉛のように俺の体を地面へと縫い付けようとしていた。
だが、ここで目を閉じて休んでいる暇はない。戦場において、立ち止まることは死と同義だ。
呼吸がわずかに落ち着いてきたところで、俺は重い体を引きずり、つい先ほど自分が石で頭を砕き、短剣で首を裂いて殺した王国軍斥候兵の死体のそばへと這い寄った。
生温かい血の匂いと、排泄物が混ざった死臭が鼻を突く。
つい数日前まで、平和な日本でパソコンのキーボードを叩いていたただの社畜が、今では他人の死体を漁ることにすら躊躇いがなくなっている。人間の適応力というものが、ひどく恐ろしく、そしてひどく惨めに思えた。
「……何か、使えるものは」
少しでも生き残るための物資になればと、血で滑る手で敵の衣服を探る。
止血帯、品質の良い短剣、数粒の丸薬。
それらを自分のポーチへと押し込んでいく中、死体の軍服の厳重な内ポケットから、一冊の見慣れない小冊子が出てきた。
「……なんだこれ?」
革張りの表紙は血と泥で汚れ、端が擦り切れている。
パラパラとめくると、そこには複雑な幾何学模様のような図形と、帝国語とは違う、うねるような古い言語がびっしりと書き込まれていた。
前世のゲーム知識が、即座にその正体を弾き出す。
(王国軍の『魔技書』……! そうか、こいつらただの偵察部隊じゃない、王国の精鋭部隊だから、下っ端の斥候にすら基礎的な魔法教本を支給してるのか)
この世界『アビス・オブ・ソード』において、「魔法」とは一部の貴族や、生まれつき魔力回路を持つ一握りの強者だけが使える、絶対的で理不尽な力だ。
ただの平民出身、それもステータスが最低値で固定されている底辺のモブ兵士である俺には、本来なら一生縁のない、触れることすら許されない代物である。
だが、極限状態の脳裏に、一縷の甘い望みがよぎった。
この図形を一種の論理回路として捉え、前世のシステム構築の知識を当てはめれば、才能のないモブでも初歩的な魔法くらいは使えるのではないか?
ゲームの主人公のように炎を放ち、氷の壁を作るような真似は無理でも、気配を消したり、少しだけ傷を癒やしたりする程度の『小手先の技術』なら、システムをハックするように引き出せるかもしれない。
(……試しに、やってみるか。どんな無様な手段でもいい。確実に生き残るための手札が、一つでも多く欲しい)
俺は周囲の暗がりを警戒し、森の奥の倒木の陰に身を隠すと、魔技書に書かれている基礎的な術式に意識を集中させた。
ゲームでは「使う」のコマンドをボタン一つで押すだけで終わる作業。
だが、現実の肉体でそれをどう発動させるのか、チュートリアルなんて存在しない。
本に記された図形を脳裏に精密に描き出す。
体の中にあるらしい、血液とは違う未知のエネルギー……『魔力』の源を探る。
目を閉じ、自分の内側に意識を沈めていく。
(感覚でやろうとするから無理なんだ。俺にはファンタジーの才能なんてない。なら、理屈で通すしかない)
魔力を『電力』、この古代語と幾何学模様を『ソースコード』だと仮定する。
俺の肉体をハードウェアとして見立て、強引にコンパイルを通す。
「……繋げ。回路を開け……ッ」
ブツブツと呪文のように呟きながら、俺は無理やり脳内の論理回路を構築し、術式に魔力を流し込もうと試みた。
暗闇の中で、一瞬、ほんのわずかに手元の空気が揺らいだ気がした。
いける。このまま組み上げれば、魔法が――。
――だが。
『致命的なエラーが発生しました』
脳内でそんな無機質な警告音が鳴り響いたかと思った次の瞬間。
「ぐっ……がああああああああっ!?」
数分と経たないうちに、脳の血管が内側から一気に焼き切れるような、経験したことのないすさまじい激痛が走った。
「がはっ、げぇっ、おぇぇぇぇっ!!」
胃袋が痙攣し、未消化の乾パンと胃液を泥の上にぶちまける。
鼻の奥がツンと熱くなり、ツーッと生温かい液体の感覚。
泥まみれの手で拭うと、それはべっとりとした鮮血だった。
視界が激しく明滅し、耳鳴りが世界からすべての音を奪い去る。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、意識が深い闇に引きずり込まれそうになる。
魔法。
それは魔力回路という「生まれ持った才能」を持つ者だけが、息をするように自然に扱える特権だ。
そんな器官など欠片も持ち合わせていない底辺の平兵士が、前世の理屈や無理矢理なアルゴリズムだけで世界の法則をハックしようとするなど、ただの自殺行為でしかなかった。
PCのスペックがまったく足りていないのに、超高負荷の処理を無理やり実行させてCPUが焼け焦げたようなものだ。
「はぁ……はぁ……クソが……ッ、ふざけ、んな……っ」
泥と吐瀉物にまみれた手で鼻血を乱暴に拭い、俺は血に濡れた魔技書を地面に力任せに叩きつけた。
痛感した。この世界は、どこまでも残酷だ。
都合のいい奇跡なんてない。
異世界転生したからといって、隠されたチート能力が目覚めることも、魔法で無双することなど絶対にできない。俺はただの無力な泥人形だ。
俺の生存手段は、徹底して泥に潜り、死体の下敷きになって息を殺し、他人の残飯をあさり、姑息に環境を利用する。
そういう物理的で、みっともない泥臭さに限定するしかないのだ。
華麗な魔法も、英雄の剣技も、俺には一生手に入らない。
(いや……俺には、もう一つだけ「魔法」と呼べるものがあるが……)
俺は自分の魂に深く刻み込まれた、唯一の特異体質――『運命の栞』の存在を、震えるほどの絶望とともに再認識していた。
死をトリガーとして、強制的に時間を巻き戻す力。
だが、それは決して便利なコンティニュー機能などではない。
一度使うごとに、転生者としての俺の記憶、思考、感情……「俺という自我」が、脳髄をえぐり取られるような強烈な痛みとともに、永遠に削り取られていく『呪い』だ。
前線で首を刎ね飛ばされたあの時。
時間を巻き戻した代償として、俺の中から『前世で一番好きだったはずの温かい記憶』が灰になって消え去った。
母の顔だったか、友人の声だったか、それすらも思い出せない。
ただ「取り返しのつかない大切なものを失った」という空虚な喪失感だけが、今も胸にぽっかりと穴を開けている。
何度も使えば、最後には前世の記憶も、生き延びようとする意志すらも完全に失われる。
後に残るのは、この世界に初めから存在していた本来の住人――ただ上官の命令に従って突撃し、恐怖も感じないまま英雄の剣の露と消えるだけの、意志を持たない名もなき平兵士としての『ルーク』だけだ。
肉体が生き返ったところで、「俺自身」が消滅してしまえば何の意味もない。それは確実な肉体の死よりも恐ろしい、精神の完全な死だった。
(できれば、こんなもの……二度と使わずに済ませたい……)
俺は地面に叩きつけた魔技書を見捨て、血塗れの夜空を、濁った瞳で見上げた。
『運命の栞』を使えば、肉体の死はやり直せる。だが、自我が削り取られるだけでなく、俺が血反吐を吐いて、泥水をすすってここまで積み上げてきた生存へのフラグも、すべて白紙に戻ってしまうかもしれない。
「……どんな理不尽が来ても、絶対にこのまま、俺の意志のまま……泥水をすすって逃げ切ってやる」
痛む肋骨を押さえながら、俺は自分の泥だらけの頬を強く叩き、暗闇の森の中で静かに、そして狂気にも似た決意を新たにした。




