第12話 破滅の凶報と、霧の向こうの絶望
西の森での血を吐くような死闘から数日後。
オズワルド少佐の部隊が駐屯する前線の臨時キャンプには、かつてのピリついた焦燥感が嘘のように、奇妙な落ち着きが戻っていた。
朝靄に包まれた陣地では、兵士たちが焚き火を囲んで硬い携帯食料をかじり、薄い塩味しかしないスープをすすっている。
遠くで馬の嘶きが聞こえ、見張りの兵士が欠伸を噛み殺しながら槍を握り直す。
それは、最前線という地獄の入り口にあって、まるで嵐の目に入ったかのような、不気味なほどの平穏だった。
泥まみれの軍用テントの裏で、俺はひっそりと息を吐き出しながら、水筒の泥水を喉に流し込んだ。
護衛兵に蹴り飛ばされ、西の森の斥候兵との揉み合いで悪化した折れた肋骨の痛みが、呼吸をするたびに鋭く肺を突き刺してくる。
だが、その激痛すらも、今は自分が生きているという確かな証明だった。
俺が偽の命令書を仕込み、監査官の不正を暴く裏工作を行ったことで、オズワルドは無謀な夜襲を思いとどまり、生存。部隊の指揮系統は辛うじて保たれている。
あの男が生きている限り、俺たち平兵士が無意味な捨て駒として前線に放り出されることはない。
痛みに顔を歪めながらも、俺は泥だらけの拳を小さく握りしめた。
(よし、ここまでは生存への道筋を繋げている。とりあえずの死亡フラグは確実に折った)
だが、ここは『アビス・オブ・ソード』という鬱ゲーの世界だ。
システムが用意した絶望のシナリオは、俺のような名もなきモブ兵士一人の小細工で完全に書き換えられるほど、甘くはできていない。
戦場の安息は長くは続かない。
それを証明するように、張り詰めた空気を切り裂くような異音が、遠くから近づいてきた。
「――どけっ! 道を開けろォッ!!」
けたたましい馬の蹄の音と共に、陣地の入り口を警備していた兵士たちが弾かれたように道を空ける。
駆け込んできたのは、一騎の伝令兵だった。
乗っている馬は口から白い泡を吹き、全身から滝のような汗を流して限界を超えている。
だが、それ以上に異常だったのは、馬に乗っている伝令兵自身の姿だった。
彼の軍服は黒く焼け焦げ、片腕はあらぬ方向に曲がっている。
そしてその顔には、この世の終わりでも見たかのような、純粋で絶対的な「恐怖」がへばりついていた。
「おい、聞いたか!? 付近の防衛線が、王国の『最狂の姉妹』によって、たった数分で全滅させられただと……!?」
血相を変えた伝令兵の絶叫が、冷たい風に乗ってキャンプ全体に響き渡った。
その瞬間、焚き火を囲んでいた兵士たちの動きが完全に停止した。
スープの入った木の器が手から滑り落ち、地面で鈍い音を立てる。
「ぜ、全滅……? 嘘だろ、あそこら辺の防衛線には、第1連隊の重装歩兵大隊と魔道砲兵大隊が数百人規模で防衛していたはずだぞ!」
「たった数分? しかも、王国軍の本隊じゃなく、たった二人の女にだと……!?」
兵士たちがパニックに陥り、ざわめきが急速に陣地を飲み込んでいく。
俺はテントの陰で、全身の血の気が引いていくのを感じていた。
来た。ついにシナリオの巨大な歯車が、俺のいるこの戦域まで回ってきたのだ。
伝令兵の報告を聞いたオズワルド少佐が、指揮所テントから血相を変えて飛び出してきた。
常に冷静沈着な彼の顔色が、さっと青ざめている。
「隣の防衛線が抜かれただと!? なぜ防衛用の魔導砲座が火を噴かなかった!」
「こ、壊されたんです……! 彼女たちが現れたと思ったら、最初の『一振り』で、砲座ごと紙切れみたいに……っ!」
報告しながらガタガタと震える伝令兵の言葉に、オズワルドはギリッと強く歯を食いしばった。
優秀な指揮官である彼には、それが何を意味するのか一瞬で理解できたのだ。
強固な防衛線をあっさりと抜いたその理不尽な暴威が、今まさに、この無防備な臨時キャンプへと一直線に向かってきているということに。
「悠長に構えている暇はない! 敵がこの場に向かっている! 全軍、迎撃態勢に入れ……っ!あわせて後方の第3機動魔導大隊へ、陣地を死守するよう伝えろ!」
オズワルドの腹の底から絞り出された号令により、硬直していたキャンプが蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
「弓兵は防壁の上に上がれ! 歩兵、盾を構えて密集陣形を取れ!」
怒号が飛び交い、兵士たちが泥に塗れながら武器を手に取り、急ごしらえの防壁の裏へと殺到していく。誰もが必死に生き残ろうと、震える手で槍を握りしめている。
――だが、無駄だ。
俺はテントの陰からその様子を絶望的な目で見つめていた。
弓も、盾の密集陣形も、急造の木の防壁も。そんな常識的な兵法が通用する相手ではないのだ。
ついに来た。
王国軍が誇る最強最悪のネームドキャラクター。
主人公レオンの仲間にして、狂気の天才姉妹。
破壊衝動の塊であり、自身の背丈ほどもある大剣で数十人の兵士を鎧ごとミンチにする姉のロゼ。
優雅な死神であり、音速の細剣で死の舞踏を踊り、瞬きする間に部隊の首を刎ね飛ばす妹のエマ。
ゲーム内での彼女たちの強さは、もはやバグの領域だった。
ステータスは異常に高く、生半可な攻撃はすべて無効化し、広範囲攻撃を息をするように連発可能。主人公が弱いうちは、最強のお助けキャラ。ただ、性格に難がありストーリー後半では味方である王国に処刑されるのだが…
それを、こんな名もなきモブ兵士たちの集まりでどうにかできるわけがないのだ。
俺は防壁から距離を取り、陣地の片隅――最も敵の視線が集まりにくく、かつ「いざとなったら真っ先に逃げ出せる」死角を必死に探し出し、泥水の中に身を潜めた。
戦う気など1ミリもない。
俺の目的は、この絶望的な暴風雨が通り過ぎるまで、ひたすら泥と同化して『背景』になりきることだけだ。
腰のポーチを探り、斥候から奪った短剣の柄を、手が白くなるほど強く握りしめる。
呼吸を浅くし、心臓の音すら泥の中に溶け込ませるように祈る。
自分が自分でなくなっていく『運命の栞』の呪いへの恐怖が、背筋を凍りつかせていた。
やがて、陣地を包む鉛色の空の下。
風がぴたりと止み、周囲から一切の音が消えた。
虫の鳴き声も、馬の嘶きも、兵士たちの息遣いすらもが、見えない巨大な重圧に押し潰されたかのように静まり返る。
ゴゴゴゴ……と、地表を揺るがす不気味な重低音が響き始めた。
それは無数の軍勢の足音ではない。
たった二つの、しかし圧倒的な質量と魔力を持った『死』が、大地を踏みしめて近づいてくる足音だ。
前方から、異常なほど濃い、まるで血の匂いを孕んだかのような深い霧が立ち込めてくる。
防壁の上で弓を構えていた兵士の何人かが、その異常な気配に耐えきれず、武器を取り落として後ずさった。
俺は泥の中に顔を半分沈めたまま、目を見開いてその霧の奥を凝視する。
ズォォンッ!!
一陣の強風が吹き荒れ、深い霧を真っ二つに切り裂いた。
まるで地獄の釜の蓋が開いたかのように。
霧を切り裂くようにして、真紅と純白の二つの影が、悲鳴を上げる帝国軍の陣地めがけて、一直線に飛び出してきた。




