第13話 蹂躙の開幕と、死角の絶望
深い霧を切り裂くようにして、二つの影が、帝国軍の陣地めがけて一直線に飛び出してきた。
「あははははっ! さあ、極上のパーティーの時間だぜぇ! 有象無象ども、一匹残らずグシャグシャに叩っ斬ってやる!!」
真紅の軍衣を纏った姉のロゼが、狂喜の叫びと共に、自身の背丈ほどもある巨大な両手剣を力任せに振り回した。
ズガァァァァンッ!!
放たれた強烈な剣閃が、圧倒的な衝撃波の嵐となって陣地を襲う。
数十人の帝国軍兵士たちが組み上げた頑丈な丸太の防壁が、まるで乾燥した小枝か何かのように、凄まじい轟音とともにまとめて綺麗に両断された。
爆風と、吹き飛んだ大木の破片が凶器となって周囲の兵士たちの肉体を次々と貫いていく。
「ひっ……化け物め……っ!」
「弓兵、構え――がはっ!?」
「お姉様、そんなに乱暴に散らかしては、後のお掃除が大変ではありませんか」
純白のドレス軍装に身を包んだ妹のエマが、悲鳴を上げる間もなく帝国兵の懐に滑り込む。
泥濘む足場などまるで存在しないかのように、彼女の足運びは軽やかで、純白のブーツには泥の跳ね返り一つ付いていない。
優雅な舞踏会のステップを踏むように、彼女の手にある細剣が閃いた。
たったそれだけの動作で、遠巻きに矢を放とうとしていた弓兵たちの首筋が、音もなく一斉に跳ね飛ばされる。
血の一滴すら美しい軌跡を描いて宙を舞い、首を失った死体が次々と泥に沈んでいく。
そこに戦闘の駆け引きなどない。
圧倒的な暴力と、命をただの「肉」としか認識していない狂気。
ロゼの大剣が振り下ろされるたびに、重装備の歩兵が分厚い鋼の鎧ごとひしゃげ、中身の人間が熟れた果実のようにぐちゃぐちゃに潰される。
「た、助け……っ!」
這いつくばって逃げようとする兵士の背中を、ロゼは狂ったように笑いながら軍靴で踏み砕いた。
エマの細剣が突き出されるたびに、槍で反撃しようとした兵士の心臓が正確に穿たれ、声すら上げられずに絶命していく。
まさに、蹂躙。
人間が、ただの「赤いシミ」と「ただの肉塊」に変わっていく残虐なラインコンベアだ。
そこには、兵士たちの命を賭したドラマも、祖国を守るための騎士道も存在しない。
ただ絶対的な強者が、眼の前の障害物を効率的かつ娯楽として処理しているだけの、無機質で絶望的な暴力の嵐。
防壁の残骸のさらに奥、敵の視線が集まりにくい死角の泥に顔を押し付けながら、俺はガタガタと震えていた。
折れた肋骨の痛みなどとうに吹き飛んでいる。
鼻腔を突くのは、急激に戦場に充満し始めた新鮮な血の匂いと、人間の臓物がぶちまけられた凄まじい悪臭。
目の前で繰り広げられる惨劇は、あの英雄の突撃を見た時と同等、いや、彼女たちが『殺戮自体を極上のエンターテインメントとして楽しんでいる』分、さらにタチの悪い地獄絵図だった。
(あんなものまともに食らったら、一瞬で肉の塊になる!)
息を殺し、泥水を啜るようにして身を縮める。
右手に握りしめた、王国の斥候から奪った短剣が、酷く滑稽な子供のおもちゃに思えた。
飛び出して戦う? 無理だ。
あの姉妹の視界に入った瞬間、俺はコンマ数秒でミンチか細切れにされる。
背を向けて逃げ出せばどうなる?
この混乱の中なら、あるいは戦場から離脱できるかもしれない。
だが、背を向けて走れば確実に見つかって狩られるか、味方に逃亡兵として背後から斬られる。
そして、死ねばまたあの『運命の栞』が発動する。
再び脳髄を焼き切られるような激痛を味わい、自分の残された大切な記憶を削り取られる。
死の痛みと、自分が自分でなくなっていくあの得体の知れない恐怖。
胸の奥にぽっかりと空いた、かつてあったはずの「温かい記憶」の欠落が、不気味にうずく。
前世の記憶が、俺の人間性が、また一つ永遠に消え去る。
(嫌だ。もう何も忘れたくない。自分が誰か分からなくなるなんてごめんだ。俺は、生きたい……!)
気高い決意でも、シナリオを修正する英雄的な使命感でもない。
ただの底なしの生存本能だった。
俺は泥の中に顔を深く埋め、ただ嵐が通り過ぎるのを待つことしかできなかった。
だが、狂気は確実に俺の命に手を伸ばそうとしていた。
「おや、そこのあなた。そんなところで震えていらしても、私どもの目からは隠れませんよ?」
――ぞわり、と。
足の指先から脳天まで、氷の柱を突き立てられたような強烈な悪寒が走った。
お淑やかに微笑んだエマの冷酷な視線が、なぜか防壁の死角にいたはずの俺の方向へと、正確に向けられた気がしたのだ。
魔力を持たない俺の必死の隠密など、高位の感覚を持つ彼女たちには、薄いセロハンテープで身を隠そうとしているような滑稽な真似だったのかもしれない。
エマの純白のブーツが、泥を汚すことなく、ゆっくりとこちらへ向きを変える。
蛇に睨まれた蛙のように、体がピクリとも動かない。
冷や汗が全身を駆け巡り、心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴動を起こす。
(ここで死んでも時間は戻る。だが、俺の『大切な何か』がまた削り取られる……!)
飛び出して逃げるか、それともここで無様に喉を掻き切られるか。
極限の絶望的な二択に脳が焼き切れそうになった、その刹那だった。
「――これ以上、我が部隊の兵士に指一本触れさせん……っ!」
轟音と共に、軍外套を翻した一人の男が猛然と跳び出し、エマと俺の間、そして狂気の姉妹の真正面へと立ちはだかった。
大隊を指揮する将であるはずの男が。
部下たちの盾になるために、安全な後方指揮所から自ら最前線へと飛び出し、死地にその身を晒したのだ。
オズワルド少佐だった。




