第29話 極夜に散る氷華と、泥をすする生存者
時間が、凍りついていた。
視界のすべてが白と青の極低温に塗り潰された塹壕の底で、俺は、瞬きすら忘れてその光景を見上げていた。
『――砕け散れッ!!』
シルヴィアが血を吐くような咆哮と共に、自らの命そのものを軍刀の刃へと注ぎ込む。
耐えきれなくなった刀身が砕け散り、極限まで圧縮された絶対零度の魔力波が、至近距離でレオンを飲み込んだ。
極低温の衝撃波が、光の障壁を内側から食い破る。
「……ガァッ……!」
レオンの口から、かつて誰も聞いたことのない苦痛の呻きが漏れた。
咄嗟に体を逸らしたものの、彼の左腕から肩にかけての純白の鎧が粉々に砕け散り、その下の肉体が深く抉り取られて赤黒い血を噴き出している。
さらに恐るべきことに、傷口から侵入した凍気が、彼の体内の魔力回路を物理的に凍結させようと侵食を始めていた。
圧倒的な英雄に与えられた、明確な『大ダメージ』。
だが――致命的な隙を生んだはずの英雄は、痛みに身をよじることも、焦燥に顔を歪めることもなかった。
「……あと一歩、届かなかったな」
凍りつきかけた左腕を無視し、レオンは右手に握った白銀の聖剣を無造作に振り抜いた。
感情のない呟きと共に放たれた、極大の光の剣閃。
それは絶対零度の嵐を紙切れのように引き裂き、至近距離にいたシルヴィアの胴体を、右肩から左脇腹にかけて深く、無慈悲に斬り裂いた。
「あ……がっ……!」
魔力を使い果たし、防御すらできなかったシルヴィアの体が、空中に大きく跳ね上がる。
純白の軍服が大量の鮮血に染まり、彼女は糸の切れた操り人形のように、泥濘む塹壕の底へと激しく墜落した。
ドサッ、という鈍い音が響き、彼女の胸の傷口から溢れ出した血が、周囲の凍土を急速に溶かしていく。
レオンは、血の海に沈んだシルヴィアを一瞥すらしなかった。
彼は右手の聖剣を杖のように地面に突き立て、荒い息を吐きながら傷ついた左肩を押さえた。
「レオン様ッ!! 衛生兵、治癒術士を急ぎ回せ!!」
王国軍の副官が血相を変えて駆け寄り、残存していた重装騎士たちが彼を守るように分厚い盾の壁を形成する。
「思った以上に……これ以上の戦闘は、致命的な遅れを生む」
レオンは忌々しげに舌打ちをした。
彼にとってこの激痛は、復讐心を滾らせるようなドラマではない。
自らの完璧な行軍計画に生じた、ただの「不快な遅延」でしかなかった。
「全軍、後退しろ。防御線まで下がり、態勢を立て直す。……この凍気、完全な治癒には時間を要する。僕抜きでの無理な進軍は、被害を拡大させる恐れがある」
一切の感情を排した、どこまでも機械的な判断。
怒りに任せた追撃など行わない。
第一目標であった敵将の討伐を果たした今、確実に勝てる盤面を再構築するために、最強の英雄は自ら退くことを選んだのだ。
純白の軍勢は、負傷した絶対の核を包み込むようにして陣形を固めながら、吹雪の彼方、夜の暗闇の中へと撤退していった。
地響きのような行軍の音が、少しずつ遠ざかる。
やがて、戦場に再び、耳鳴りがするほどの氷点下の静寂が戻ってきた。
魔力嵐が去り、分厚い雲の隙間から、冷たい月明かりが塹壕の跡を照らし出す。
すべてを燃やし尽くしたシルヴィアは、吹き飛ばされた塹壕に仰向けに倒れていた。
レオンの剣による致命的な裂傷から流れ出した血が、周囲の凍土を黒く染めている。
呼吸はすでに浅く、肺がひゅるひゅると奇妙な音を立てていた。
彼女の美しい銀髪は泥と血にまみれ、その青い瞳の焦点は、もう夜空の星すら結べていない。
視覚が消え、聴覚が失われ、肉体の痛覚すらも麻痺していく中で。
シルヴィアの脳裏に浮かんでいたのは、帝国軍の誇りでも、レオンへの憎悪でもなかった。
(……ああ……なぜ今更……)
血を流しすぎたことによる、死の間際の走馬灯。
それは、ひどくありふれた、色褪せた記憶の断片だった。
まだ彼女が少佐に昇進したばかりのころ。
士官学校を出て数年、まだ実戦経験の少なかった彼女の元に、一人の副官が配属されてきた時のこと。
無精髭の老兵。
彼は、責任感と緊張で肩に力の入っていた若き日のシルヴィアの前に立つと、敬礼もそこそこに不敵な笑みを浮かべたのだ。
『大隊長殿。そんなに肩肘を張らずとも結構ですぞ。部下は案外、上官の背中の震えに敏感なものですからな』
『……無礼な。私は震えてなどいません』
『はっはっは。ならば、大隊長殿の得意な魔法にちなんで『氷の魔女』と、呼ばれるくらいに冷たく厳しくいきましょう。背中の泥は、このレイモンドがお守りしますゆえ』
淹れたての紅茶の匂い。
テントを叩く雨の音。
不器用だが、温かかった彼の手のひら。
あの日の言葉通り、彼は最後まで、本当に最後まで、彼女の背中を守り抜いて、無惨な肉塊となって散っていった。
(……レイモンド……。あなたの、仇はとれなかったけれど……ほめて、くれるかしら……)
シルヴィアの血の気のない唇に、微かな微笑みが浮かんだ。
彼女は、もう動かないはずの右手をゆっくりと持ち上げ、虚空に向かって何かを求めるように、そっと指先を伸ばした。
「……少し……遅く、なりました……ね……」
凍てつく大気に溶けた、最後の呟き。
伸ばされた手が、ふっと力を失い、泥の中へと崩れ落ちる。
帝国が誇った『氷の魔女』シルヴィア少佐の心臓は、大切な部下の面影を追うようにして、完全にその鼓動を停止させた。
「…………」
どれほどの時間が経ったのか。
俺は、泥水の中からゆっくりと身を起こした。
折れた肋骨が激しく痛み、全身の筋肉が凍傷で悲鳴を上げている。
手足の感覚はほとんどなく、自分が生きているのか死んでいるのかすら、ひどく曖昧に感じられた。
周囲を見渡せば、真っ二つに両断された部下の死体や、氷の破片に貫かれた肉塊が、泥の中に無数に転がっている。
俺は、泥を引きずるようにして歩き、事切れたシルヴィアの遺体へと近づいた。
安らかな顔だった。
だが、俺の心に感傷は湧かない。
彼女の遺体に敬礼を捧げる気にもなれなかった。
俺の胃の腑を満たしているのは、どろどろとした圧倒的な『絶望』と『無力感』だけだ。
帝国最強の一角である彼女が、自らの魂と命をすべて燃やし尽くし、決死の一撃を叩き込んだ。
それでも。
それでも、あの規格外の英雄の命を奪うことはできず、たかだか『数日』の足止めを強いたに過ぎないのだ。
強者である魔女の命すら、あの化け物の前ではただの遅延工作でしかない。
ならば、魔力も才能もない、底辺の泥人形である俺の命など、奴の剣の軌道を一ミリすら逸らすことはできないだろう。
(……上等だ)
俺は奥歯を噛み締め、シルヴィアの遺体の前にしゃがみ込んだ。
そして、彼女のポケットを探り魔力治癒薬を回収すると、纏っていた分厚い鉄紺の防寒マントの留め具を外し、泥だらけの自分の肩へと無言で羽織る。
死者への冒涜?
知るか。
今の俺に必要なのは、死者を弔う倫理観でも、英雄を称える言葉でもない。
この氷点下の地獄を次の瞬間まで生き延びるための、物理的な回復薬と熱源だけだ。
顔にこびりついた他人の生温かい血を乱暴に拭い去り、俺は振り返る。
はるか後方には、帝国軍の第三防衛線・黒金の砦が、暗闇の中に巨大なシルエットを浮かび上がらせている。
レオンの軍が後退したとはいえ、この最前線に長居すれば、次にやってくるのは死体処理と索敵を兼ねた別働隊だ。
俺は剥ぎ取った魔力治癒薬を一口だけ喉に流し込むと、血と泥に塗れた足を引きずりながら、砦へ向けて歩き出した。
あの『運命の栞』を使って前世の記憶を焼き切ることもなく、自我を保ったまま、俺はこの最悪の虐殺を生き延びた。
誰かが犠牲になって盾になってくれるのを、ただ息を潜めて待っていただけ。
他人の死体の上に胡座をかいてでも、俺は絶対に生き抜いてやる。
前世の大切な記憶を、俺という人間性を、これ以上奪われてたまるか。
だが、この時の俺はまだ知らなかった。
泥をすすって逃げ帰った先にある砦が、さらなる凄惨な『密室の死地』として、俺を閉じ込めるために口を開けて待っていることを。




