第28話 氷点下の墓標と、魔女の一撃
泥の壁に背を預けたまま、俺は完全に呼吸を止めていた。
肺が酸素を求めて痙攣し、折れた肋骨が内側から臓器を突き破るような鋭い激痛を訴え続けている。
だが、口を開くことはおろか、瞼を瞬かせることすら許されなかった。
塹壕の縁。
泥の底に這いつくばる俺を見下ろしているのは、純白の鎧を纏った王国軍の英雄、レオン・ハルトだった。
分厚い雲の隙間から漏れる月明かりを反射する、汚れを知らぬ銀髪。透き通るような青い瞳。
だが、その眼球の奥には、命の重さに対する葛藤など一ミリも映っていない。
道端に転がる石ころか、あるいは踏み潰した羽虫の死骸を事務的に確認するような、果てしなく無機質で虚無的な視線。
彼の指先には、すでに不可視の魔力が極限まで圧縮されている。
対象に狙いを定め、引き金を引く。ただそれだけの動作。
その指先から、空間を歪ませるほどの死の冷たさが放射状に広がってくるのが、皮膚を粟立たせる感覚で分かった。
奇跡は起きない。
都合の良い回避魔法など、俺の肉体では逆立ちしても使えない。
ここで彼の指先が弾かれれば、間違いなく俺の頭部は中身ごと吹き飛び、再びあの呪われた『運命の栞』が起動する。
また一つ、俺の自我を形成する大切な記憶が魂から削り取られ、自分が自分で無くなってしまう。
(動くな……動くな、動くな……!)
心臓の鼓動すらも止まれと全身の細胞に念じながら、俺は泥と同化することだけを祈った。
だが、俺のすぐ隣で泥水に顔を押し付けられていた少年兵は、違った。
十代半ばの彼は、歴戦の兵士ではない。
暗闇から音もなく現れ、歴戦の古参兵たちを一瞬で肉塊に変えた純白の悪魔。
その途方もないプレッシャーの前に、彼の脆弱な精神は限界をとうに超えていた。
「ひっ……ぁ、あ、あああああッ!!」
極限の恐怖が、少年の理性を完全に焼き切った。
彼は、必死に押さえつけていた俺の腕を強引に振り払い、泥まみれの塹壕の底から跳ね起きた。
武器すら持たず、ただ背中を向けて、後方の本陣へ向かって無我夢中で駆け出そうとする。
「やめ――」
俺が手を伸ばすより早く。
レオンの指先が、微かに動いた。
パンッ、という、ひどく乾いた小さな破裂音が響いた。
泥を蹴り上げ、駆け出そうとした少年兵の足がもつれ、彼の体が倒れこむ。
頭がなかった。
首から上が、見えない巨大な顎に噛み砕かれたかのように、ヘルメットごと跡形もなく吹き飛んでいたのだ。
ドサリ、と。
頭部を失った少年の肉体が、崩れ落ちるようにして俺の上に覆い被さってきた。
首の断面から間欠泉のように噴き出した大量の鮮血が、這いつくばる俺の顔面、首筋、そして軍服を真っ赤に染め上げる。
生温かく、鉄の錆びたような強烈な血の臭いが鼻腔を蹂躙する。
少年のまだ温かい臓器の重みが、折れた肋骨を容赦なく圧迫し、激痛に視界が白く明滅した。
(…………ッ!!)
絶叫を上げそうになる喉を、俺は泥水ごと強く噛み締めて封じ込めた。
口の中に泥のジャリッとした食感と、他人の血の味が広がる。
肺の中の空気をすべて吐き出し、少年の遺体の下で完全に脱力する。
レオンはまだ、塹壕の縁からこちらを見下ろしている。
彼は、震える俺の存在を、確かに視界の端に捉えている。
一秒が、一時間にも感じられる泥の中の静寂。
少年の遺体から絶え間なく流れ出る血が、冷たい泥水と混ざり合い、俺の体温を急速に奪っていく。
指先の感覚が麻痺し、意識が遠のきそうになる。
ザッ、と。レオンの軍靴が、塹壕の縁の泥を踏みしめる音がした。
俺を確認するために降りてくるのか。
それとも、上からもう一発、魔法を撃ち込んで死体を増やすつもりか。
レオンが、無慈悲な一歩を踏み出した。
その時だった。
不意に、俺の顔面にこびりついていた少年の生温かい鮮血が、ピシリと音を立てて凍りついた。
(……え?)
ただの寒気ではない。気温そのものが、一瞬にして数十度も急降下したのだ。
空から降り注いでいた霙が、空中で鋭利な氷の結晶へと変わり、塹壕の泥がカチンコチンに凍てついていく。
吐く息が白を通り越し、ダイヤモンドダストのようにキラキラと輝きながら落下する。
全身の産毛が総毛立つような、致死的な極低温。
異変に気付いたのは俺だけではない。
塹壕の縁に立っていたレオンの足が、完全に止まっていた。
無機質で、一切の感情を排していた彼の視線が、俺たち虫ケラの死体から逸れ、後方――帝国軍の『第一防衛陣地』の方角へと向けられた。
地響きが鳴った。
いや、それは大地が揺れているのではない。
大気中の水分が、あまりの極低温によって急速に凍結し、空間そのものが収縮して悲鳴を上げている音だった。
ドドォォォォォォォォォ……ッ!!!
俺たちのいる前哨観測所、後方に設営されていた帝国第一防衛陣地の天幕群。
そこから、夜の暗闇を完全に切り裂く、巨大な青白い光の柱が天に向かって吹き上がっていた。
それは、人間が放つものとは到底思えない、純粋な魔力の暴風だった。
絶対零度の嵐が、第一防衛陣地の逆茂木を瞬時に凍りつかせ、周囲の木々をガラス細工のような氷の彫刻へと変えながら、最前線の塹壕にいる俺たちの肌までビリビリと突き刺してくる。
「何事だっ!!敵の罠か!」
レオンの傍らに控えていた王国軍の副官が近くの王国兵に、顔をしかめながら短く問う。
「……いや、違う。ここに居たのか」
レオンの声音には、初めて微かな「警戒」の色が混じっていた。
俺は少年の死体の下から、凍りついた右目だけで、夜空を見上げた。
光の柱の中から、一つの影が浮かび上がってきた。
重力を無視し、猛烈な吹雪を巻き起こしながら空中に浮かんでいるのは、一人の女性だった。
純白と鉄紺の軍服。
だが、その背中には、かつての威風堂々とした指揮官の面影はない。
美しい銀色の髪は、自身の体から溢れ出る膨大な魔力の奔流に煽られて逆立ち、彼女の周囲には、数え切れないほどの巨大な氷の槍が、まるで天使の羽のように展開されている。
そして、その右手には、抜身の冷たい刃を放つ『軍刀』が、指の骨が白く浮き出るほど強く握られていた。
帝国軍、第3機動魔導大隊長。
『氷の魔女』シルヴィア少佐。
彼女は、第一防衛陣地で待機し、指揮を執っているはずだった。
なぜ、単騎で姿を現したのか。
俺の脳裏に、かつての防衛戦で、彼女の副官であったレイモンド大尉が、シルヴィアを庇って自爆し、肉塊となって死んだ光景が蘇った。
あの時、シルヴィアはレイモンドの遺体を抱きしめ、声にならない慟哭を上げていた。
だが、今の彼女の顔に、涙はない。
悲しみも、怒りも、絶望すらも通り越した、ひどく虚ろで、限界まで張り詰めたような無表情。
彼女の青い瞳は、ただ一点――眼下の最前線に展開している、純白の鎧を纏ったレオンを、真っ直ぐに射抜いていた。
大切な部下を、家族同然の存在を奪われた喪失感。
それを心の奥底に封じ込め、彼女はただ、復讐を果たす『その時』が来るのを待っていたのだ。
そして今、視界の先に王国軍の紋章を掲げたレオンの姿を捉えた瞬間。
彼女の内で、何かが完全に決壊した。
(……やめろ……!)
泥の中で、俺は声にならない叫びを上げた。
彼女の体から立ち昇る魔力は、異常だった。
大気中の魔素を集めているのではない。
彼女は、自らの肉体、自らの生命力そのものを薪にくべて、この絶対零度の嵐を発生させている。
それは、術者自身の死を意味する、禁忌の暴走状態だった。
遥か上空のシルヴィアが、小さく血の気のない唇を動かした。
距離が離れすぎていて声など聞こえるはずがないのに、凍てついた大気が振動し、彼女の冷酷な呟きが、戦場にいるすべての者の耳に直接響き渡った。
『――凍れ』
瞬間、上空に展開されていた無数の巨大な氷槍が、一斉に王国軍の先鋒部隊へと向けて降り注いだ。
ズゴゴゴゴゴゴゴォォォォォンッ!!!
隕石の落下にも似た、凄まじい質量攻撃。
家屋ほどの大きさがある数十本の氷槍が大地に突き刺さるたび、爆発的な凍気が周囲に撒き散らされ、巻き込まれた王国兵たちが一瞬にして氷の彫像へと変わっていく。
悲鳴を上げる間すらない。逃げる隙も与えない。
ただ、圧倒的な『死の吹雪』が、戦場を白く塗り潰していく。
「全軍、対魔導防壁を展開! 散開しろ!」
王国軍の副官が怒号を飛ばすが、すでに遅かった。
通常の対魔法結界など、命を燃やし尽くす魔女の特攻の前には、薄紙ほどの意味も持たなかった。
盾を構えた重装歩兵たちもろとも結界が凍りつき、パリンという乾いた音と共に、ガラスのように粉々に砕け散っていく。
だが、その地獄の中心で。
ただ一人、レオン・ハルトだけは、全く別の次元に立っていた。
「……鬱陶しい」
レオンは、降り注ぐ氷槍の雨を見上げながら、ついにその腰に佩いた『白銀の聖剣』の柄に手をかけた。
これまで、帝国兵の命を刈り取る際には抜かれることのなかった、神造兵装。
彼が剣を鞘からわずかに引き抜いた瞬間。
強烈な『光』が、絶対零度の吹雪を切り裂いて放射状に溢れ出した。
カィィィィンッ!!
レオンの頭上に落ちてきた、ひときわ巨大な氷塊が、聖剣から放たれた光の結界に触れた瞬間、運動エネルギーを完全に奪われ、空中でピタリと静止した。
そして、次の瞬間には、細かな塵となって光の中に溶けて消え去ってしまう。
圧倒的な質量と、命を燃やした狂気の魔法。
それすらも、天に愛された彼が持つ『絶対防御』の力の前には、届かないのか。
だが、シルヴィアの攻撃は、魔法の遠距離射撃だけでは終わらなかった。
彼女の真の目的は、敵兵の数を減らすことではない。
この戦場の絶対的な核であるレオン・ハルトの首ただ一つ。
上空のシルヴィアの周囲に渦巻いていた魔力が、一気に彼女の右手に握られた『軍刀』の刃へと極限まで圧縮されていく。
鋼の刀身そのものが極低温の青白い炎を纏い、周囲の光すらも凍りつくような、純粋な殺意の塊へと変貌する。
『――見ていなさい』
誰に聞こえるでもない、微かな呟き。
直後、シルヴィアの背中から凄まじい魔力の推進力が爆発し、彼女は一筋の青白い流星となって、レオンへ向けて突撃した。
音を置き去りにした、文字通りの特攻。
迎撃しようと前に出た数名の王国軍の重装騎士が、彼女が通過した際の余波だけで、鎧ごと完全に凍りついて砕け散る。
「……狂人が」
レオンは、迫り来る青い流星を前にして、初めて完全に聖剣を構えた。
彼の全身から、これまでの無機質な作業の時には見せなかった、太陽のような強烈な魔力が膨れ上がる。
最大級の障害物を、ここで排除する。
その冷徹な意思が、剣閃に極大の光を宿させた。
上段に構えられた聖剣。
そこへ向かって、すべてを捨てた氷の魔女が、一直線に突っ込んでいく。
交錯の瞬間。
キンッ――!!!
世界からすべての音が消え去るような、鼓膜を裂く超高音。
シルヴィアの軍刀が、レオンの聖剣と真正面から激突したのだ。
「……ほう」
レオンの瞳が、わずかに見開かれた。
彼の展開していた光の絶対防御。
いかなる魔法も防ぎ切るはずのその結界が、シルヴィアの極低温の刃と接触した部分から、ピキピキと音を立ててひび割れていたのだ。
『はぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!』
シルヴィアが、血を吐くような咆哮と共に軍刀を押し込む。
魔力による遠距離戦ではない。
自らの血と命を刃に纏わせ、直接敵の首を掻き切るための超近接戦闘。
氷の魔女と呼ばれた彼女は、決して後方から魔法を撃つだけの指揮官ではない。
かつては最前線で数多の血を浴びてきた、帝国軍の刃そのものだった。
ガガガガガガッ!!
二つの刃が激しく擦れ合い、火花の代わりに無数の氷の結晶と光の粒子が飛び散る。
レオンが聖剣で弾き返し、彼女の首を狙って横薙ぎの一閃を放つ。
だが、シルヴィアは空中で無理やり魔力を爆発させて強引に軌道を変え、その死の剣閃を紙一重で躱した。
銀色の髪の先数本が光に触れ、瞬時に消滅する。
だが彼女は躊躇わない。
躱した反動を利用して、軍刀による神速の三連撃をレオンへと叩き込んだ。
ズガンッ! ガンッ! ゴァァァンッ!!
レオンが聖剣でそれを受け流すが、凄まじい衝撃波によって一撃ごとに大地が爆発し、凍りついた塹壕が泥ごと吹き飛んでいく。
(……すげえ……!!)
俺は死体の下で、激痛に苛まれる呼吸すら忘れて、その死闘を見上げていた。
あらゆる敵を息をするように処理してきた絶対の英雄が、完全に「防戦」に回っている。
シルヴィアの振るう軍刀の軌跡は、まさに狂気だった。
防御を一切考えていない。
自分の体が斬られようと、腕が切り落とされようと構わない。
ただ「レオンの命を奪う」ことだけを目的とした、完全な相討ち前提の剣技。
「チッ……!」
レオンが初めて、明確に舌打ちをした。
彼は光の障壁を局所的に展開してシルヴィアの狂刃を逸らしながら、左手で至近距離から魔力弾を放とうとする。
だが、シルヴィアはそれすらも読んでいた。
彼女は軍刀から左手を離し、レオンの懐へ飛び込むようにして、その顔面スレスレで自らの魔力を暴発させた。
『氷葬』
ドバァァァァァァァンッ!!
ゼロ距離で発生した絶対零度の爆発。
レオンが咄嗟に光の障壁を前面に集中させたが、その防御壁の表面が瞬時に真っ白く凍りつき、彼の視界が完全に塞がれた。
「……!」
レオンの足が、初めて一歩だけ後退した。
その一瞬の隙。
死角からの、致命的な隙。
シルヴィアは空中で身を捻り、凍りついた障壁の横をすり抜けるようにして、渾身の力を込めた軍刀をレオンの首筋へと薙ぎ払った。
帝国兵を何百人とミンチにしてきた悪魔の首を、氷の刃が捉える。




