第27話 最前線の鳥籠と、使い捨ての命
『第三防衛線・黒金の砦』からさらに数キロ前方に構築された、最前線の塹壕陣地。
大地に深く刻み込まれたその泥の裂け目が、俺に与えられた新たな死地だった。
鉛色の空から霙が降り注ぐ中、俺は泥濘に足を取られながら塹壕の底を歩いていた。
すれ違う兵士たちの目に、生気はない。
誰もが凍死を待つような虚ろな顔で泥壁に背を預け、武器の手入れすら放棄している者もいた。
彼らは知っているのだ。
自分たちが、王国軍の圧倒的な進軍を遅らせるためだけに配置された「肉の壁」に過ぎないことを。
俺の軍服の襟元には、ヴィクトル中佐から投げ渡された銀色の階級章が鈍く光っている。
曹長。
数十人の命を預かる下士官の証。
だが、今の俺にとってそれは、死神の狙いを引くための残酷な標的でしかなかった。
「……お前が、新しい隊長か」
塹壕の最も外側、敵陣に向けて張り出した『前哨観測所』と呼ばれる吹き晒しの窪地。
そこで俺を待っていたのは、俺が率いることになった『第7遊撃小隊』の面々だった。
小隊と呼ぶにはあまりにも少ない、たったの十人。
片目を失い、汚れた布を巻いた古参兵。
絶え間なく血混じりの咳を吐き続ける男。
そして、自分の背丈よりも長い槍を抱え、ガタガタと震え続けている十代半ばの少年兵。
歴戦の精鋭などではない。
前線で使い潰され、怪我を負い、部隊の再編からあぶれた「残りカス」の寄せ集めだった。
片目の古参兵が、値踏みするように俺を見た。
魔力を持たない貧弱な肉体と、折れた肋骨を庇う不自然な姿勢。
「……当たり前だが、魔力なんてもんははなさそうだな。体格は素人以下。おまけに満身創痍。上層部も、いよいよ本格的に俺たちを見捨てたってわけだ」
古参兵が、自嘲するように泥の中へ唾を吐いた。
そこには、新たな上官に対する敬意も、反発すらない。
ただ、死を前にした絶対的な諦観だけがあった。
「俺たちの任務は、この前哨陣地で敵の接近をいち早く本隊に知らせることだ。だが、警鐘を鳴らしたところで、援軍なんざ来やしない。鳴らした数秒後に、俺たちは敵からミンチにされる。そういう『使い捨ての警報器』だ」
俺は何も答えず、黙って前方の暗闇を見据えた。
彼の言う通りだ。
ヴィクトル中佐は、俺の異常な生存への執着を「炭鉱のカナリア」として利用するためにここに配置した。
俺が逃げ出そうとした時、それが敵襲の合図となる。
もし俺が逃げるのが遅れれば、敵の刃にすり潰されて死ぬ。
もし敵が来ていないのに逃げ出せば、背後にいる督戦隊)に反逆罪で射殺される。
前後を完全な死に挟まれた、逃げ場のない鳥籠だった。
「……スコップを貸してくれ」
俺は古参兵から乱暴にスコップを奪い取ると、前哨観測所の泥壁の一部を無言で削り始めた。
都合の良い奇跡は起きない。魔法の才など欠片もない。
ならば、この貧弱な肉体で物理的に這いつくばるしかない。
俺は塹壕の構造を冷徹に計算していた。
敵が真正面から広範囲魔法を撃ち込んできた時、爆風がどのように塹壕の中を抜けるか。
どの角度の壁に身を隠せば、致死量の破片を避けられるか。
泥を掘り、自分の体がすっぽりと収まるだけの「死角」を作る。
味方を守るための陣地構築ではない。
俺一人だけが、最初の殺戮の波をやり過ごし、背後の本隊へ逃げ帰る数秒を稼ぐための、泥に塗れた生存ルートの確保だ。
「……何してる。自分の墓穴でも掘ってるのか」
不気味な作業を続ける俺を見て、古参兵が眉をひそめる。
「盲点を作っているんだ」
俺は短い言葉だけを返し、ひたすらに泥を掻き出した。
爪の間から血が滲み、疲れた体が悲鳴を上げるが、手を止めることはしなかった。
絶望している暇などない。
俺の魂はすでに二度削られている。
これ以上、自我を奪われるわけにはいかない。
やがて、太陽が完全に落ち、分厚い雲が月明かりすらも奪い去った。
絶対の闇と、凍てつくような静寂が最前線を包み込む。
焚き火は許されない。熱源は即座に敵の標的になる。
俺たちは、氷点下の泥の中で身を寄せ合い、ただ暗闇の奥を凝視していた。
少年兵の歯の根が合わず、カチカチと鳴る音だけが異様に大きく響く。
数時間が経過した。
疲労と寒さで、古参兵たちの意識が微かに微睡み始めた、その時だった。
――ふと、風が止んだ。
木々のざわめきが消えた。虫の音も聞こえない。
まるで、空間そのものが真空のガラスケースに閉じ込められたかのような、異常なほどの無音。
直後、俺の背筋を、巨大な氷の刃で撫で上げられたような悪寒が駆け抜けた。
(……来るッ!)
視覚でも、聴覚でもない。
いくつもの死線を潜り抜け培われた、理屈を超えた死の嗅覚。
カナリアが、致死性の毒ガスを感知した瞬間だった。
「伏せろッ!!」
俺は声を殺したまま絶叫し、隣で震えていた少年兵の首根っこを掴んで、力任せに泥の底へと引きずり倒した。
同時に、自らも昼間掘っておいたくぼみへと全身をねじ込む。
その直後だった。
少年兵の頭が先ほどまであった空間を、透明な「何か」が音もなく通り過ぎた。
背後の塹壕を支えていた太い丸太の支柱が、鋭利な刃物で切断されたように斜めに滑り落ち、音を立てて崩れ落ちる。
「ひっ……!?」
少年兵が息を呑む。
もし俺が引き倒すのが一秒遅れていれば、彼の首は丸太と同じように切断されていた。
無音の斬撃。
暗闇の奥から、「それ」は現れた。
汚れを知らぬ純白の鎧。月明かりすら吸い込むような冷酷な白刃。
レオン・ハルト率いる王国軍の先鋒部隊。
彼らは突撃の鬨の声を上げることもなく、松明を掲げることもなく、ただ一定の速度で歩みを進めながら、射程に入った帝国兵の首を機械的に刈り取りにきた。
「て、敵襲――ッ!!」
古参兵が血相を変えて立ち上がり、後方へ向けて警鐘を鳴らそうと魔力照明弾を空へ放った。
赤い光が、一瞬だけ最前線の闇を照らし出す。
その光の奥で、俺は見た。
横一列に等間隔で並び、こちらを見下ろす、数百人の王国兵の姿を。
そして、その中心で、剣を振り上げるレオンの姿を。
ヒュンッ、と。
空気を裂く音が鳴ったのと、古参兵の胸の中心に風の刃が突き刺さったのは、ほぼ同時だった。
「が、はっ……」
警鐘の光が空に消える前に、古参兵の体は泥の中へ力なく崩れ落ちた。
他の三人の兵士たちも、武器を構える暇すらなく、次々と見えない魔法の刃に貫かれて沈んでいく。
戦闘ではない。
これは、一方的な虐殺だ。
覚悟も、地の利すらも、圧倒的な暴力の前では何の意味も持たない。
俺は泥のくぼみに顔を押し付け、仲間の生温かい血が顔に跳ねるのを感じながら、歯を食いしばった。
(……警報は鳴らした。俺の、役目は終わった……!)
恐怖で凍りつく筋肉を意志の力で無理やり動かし、泥を這って後方の防御陣地へ逃げ出そうと身をよじった。
だが、その瞬間。
塹壕の縁に、純白のブーツが音もなく降り立った。
泥の底に這いつくばる俺を見下ろす、冷たく、虚無的な青い瞳。
レオン・ハルトが、そこに立っていた。
まるで、ゴミ箱の底で蠢くネズミを見つけるような目で、俺を静かに見下ろしている。
逃げ道はない。奇跡は起きない。
底辺の這いずり回る絶望が、再び絶対的な死の形をとって俺の目の前に立ちはだかっていた。




