第26話 炭鉱のカナリアと、冷徹なる抜擢
肺に吸い込む空気が、血と泥の味から、冷たく乾いた石の匂いへと変わった。
北の森を三日三晩、這うようにして抜け切った俺は、ついに帝国軍の要衝――『第三防衛線・黒金の砦』の城門前で泥の中に倒れ伏した。
折れた肋骨は限界を迎え、両手の爪は泥を掻き分けたせいで全て剥がれ落ちている。
喉の渇きと、記憶を削り取られたことによる空虚な虚脱感で、意識は幾度も途切れかけていた。
「おい、所属と認識番号を言え! どこから来た!」
砦を警備していた兵士たちが、槍の石突で俺の背中を容赦なく突いた。
生存者を労るような温かさは微塵もない。
彼らの目にあるのは、敗残兵や脱走兵に対する強い警戒だけだった。
「……第8……後方支援中隊……。北の関所で、土砂崩れ……敵の進軍が、止ま……っ」
掠れた声でそこまで絞り出すと、俺はついに限界を迎えて意識を手放した。
再び目を覚ました時、俺は冷たい石の床の上に転がされていた。
暖炉の火が爆ぜる音と、上質な煙草の香りが鼻を突く。
顔を上げると、そこは野戦病院のような粗末な天幕ではなく、分厚い石壁に囲まれた豪奢な作戦会議室だった。
「……目が覚めたか、兵卒」
部屋の中央、巨大なマホガニーの執務机の向こう側に、一人の男が座っていた。
一糸の乱れもなく着こなされた漆黒の軍服。
銀縁の眼鏡の奥で、感情の起伏を一切感じさせない氷のように冷たい灰色の瞳が、床に這いつくばる俺を見下ろしている。
帝国軍参謀本部・ヴィクトル中佐。
最前線の将兵たちが血反吐を吐いて死んでいく中、砦の奥で冷酷に戦況を計算し続ける、氷の頭脳。
「北の関所における大規模な崖崩れ。貴様の報告通り、威力偵察に向かわせた斥候が、完全に塞がれた谷と、足止めを食らって迂回を余儀なくされている王国軍の姿を確認した」
ヴィクトルは、机の上に置かれた数枚の羊皮紙を指先でトントンと揃えながら、淡々とした口調で告げた。
「王国軍の進軍を遅らせた功績は大きい。……だが、同時に奇妙な報告も上がってきている」
ヴィクトルの灰色の瞳が、細められた。
「斥候からの報告によると、崩落した土砂の底から、東の要塞の守備隊だった敗残兵たちの遺体の一部が見つかった。遺体に残された痕跡から、彼らが起爆符を起動させて自爆し、崖を崩したことは明白だ」
ヴィクトルは椅子から立ち上がり、コツ、コツと規則正しい足音を響かせて俺の目の前まで歩み寄ってきた。
「問題は、貴様の立ち位置だ」
軍靴の先端が、俺の鼻先で止まる。
「崖の上からあれだけの規模の土砂崩れを起こせば、起爆地点はもとより周辺にいた人間は確実に巻き込まれて死ぬ。生存者がいるとすれば、点火の遥か前から、安全圏である後方へ全速力で逃げ出していた者だけだ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
痛む肋骨を庇いながら、俺は必死に顔を取り繕った。
「あ、あの時は……彼らが自ら志願して起爆を……俺は、報告のために後方へ下がれと命令され――」
「口を閉じろ」
ヴィクトルの声音は決して荒らげられてはいなかったが、そこには逆らうことの一切を許さない絶対的な重圧があった。
「美談で着飾るな。死地に仲間を置き去りにし、自分だけが安全圏へ逃げた。それ以上でもそれ以下でもない」
見透かされている。
俺の卑小な打算も、他人の命を使い潰して自分だけが生き延びようとした醜悪な生存本能も、この冷徹なエリートの前では薄っぺらいガラス細工のように丸裸だった。
軍規に照らし合わせれば、敵前逃亡、あるいは味方を見殺しにした罪で即刻絞首刑だ。
俺は床に額を擦り付け、次に下されるであろう死刑宣告に身を強張らせた。
だが。
チャリン、と。
俺の目の前の石の床に、銀色に光る小さな金属片が投げ落とされた。
見覚えがある。それは、数十人の部下を束ねる下士官に与えられる『曹長』の階級章だった。
「……中佐、殿……?」
俺は呆然と顔を上げ、投げ落とされた階級章とヴィクトルの顔を交互に見つめた。
処刑ではないのか。なぜ、味方を見殺しにした俺に、昇進の証などが与えられる。
「勘違いするなよ、兵卒。貴様の浅知恵や、卑劣な逃走劇を評価したわけではない」
ヴィクトルは、虫ケラを見下ろすような目で俺を射抜いた。
「私が評価したのは、貴様のその『生存嗅覚』だ」
「生存、嗅覚……?」
「我が帝国の誇り高き兵や指揮官たちは、次々と王国軍、英雄と呼ばれているレオン・ハルトの前に散っている。なぜか分かるか?」
ヴィクトルは冷たく鼻を鳴らした。
「彼らに『誇り』があるからだ。強敵を前にして退かず、帝国軍人としての使命を果たそうと剣を抜く。結果、無策な突撃や相手の不可視の刃に一秒で首を刎ねられる。無駄死にだ」
ヴィクトルは俺の襟首を掴み、無理やり引き起こした。
「貴様の軍歴は見させてもらった。最前線の突撃部隊から生還、オズワルドの大隊から生還、そして壊滅したガルデニア野戦病院からの生還……、他人から見れば、そのすべてが奇跡の生還だ。しかし、その戦歴には、誇りも、忠誠心もない。あるのは自分自身の命への、執着だけだ。貴様は死の臭いを誰よりも早く嗅ぎ取り、他人の屍を盾にしてでも、絶対の安全圏へと逃げ込む」
灰色の瞳の奥に、合理的で冷酷な光が宿る。
「昔、鉱夫たちは有毒ガスを探知するために、坑道へ『カナリア』を入れた鳥籠を持ち込んだという。ガスに敏感なカナリアが死んで鳴き止んだ時、それが逃げる合図になるからだ」
俺は、ヴィクトルの言葉の意図を理解し、全身の血の気が引いていくのを感じた。
「貴様は、これより私の直轄部隊に配属し、最前線の遊撃小隊を率いてもらう。階級は曹長だ」
「な……お待ちください! 俺は後方支援の、ただの荷運びで、剣もまともに――!」
「口答えは許可していない」
ヴィクトルの冷酷な声が、俺の懇願を物理的に叩き潰した。
「前線で貴様が怯え、逃げ出そうと動いた時。それこそが、王国軍、ひいては理不尽な死の刃――レオン・ハルトが迫っている最も正確な警報になる。貴様は我が軍の『カナリア』だ。死の気配を感知する、生きた警報装置として、常に最も致死率の高い死地の最前線を歩いてもらう」
ヴィクトルは俺を乱暴に床へ突き飛ばし、背を向けて執務机へと戻っていった。
「階級章を拾え、ルーク曹長。明朝より、貴様は第一防衛陣地の最前線へ進発する。せいぜい、無様に死の臭いを嗅ぎ回り、その醜い命を長く保たせることだ」
バタン、と。
作戦会議室の重いオーク材の扉が閉じられ、俺は一人、冷たい石の床に残された。
俺の目の前には、鈍く光る銀色の階級章が転がっている。
それは栄誉などではない。死を約束された、最前線への片道切符だ。
(……ふざけんなよ……)
床を殴りつけようとして、剥がれた爪から鮮血が滲み、激痛に顔を歪める。
俺は英雄の狂った進軍を止め、絶対的な死から逃げ切ったはずだった。
記憶を失い、魂を削り、泥水をすすって、他人の命を使い潰してまで、ただ生き残るためだけに足掻いた。
だが、その異常な生存への執着こそが、皮肉にもこの冷徹な悪魔の目に留まる理由になってしまったのだ。
逃げれば逃げるほど、死に抗えば抗うほど、俺はこの理不尽な戦争のより深い闇へと引きずり込まれていく。
俺は死地から逃げ出したのではない。
自らの足で、最も血生臭い刃の真上へと、踊り出てしまっただけだった。
重苦しい絶望が、冷たい砦の石壁と共に、俺の心を完全に押し潰そうとしていた。




