第25話 絶望の再構築と、泥に塗れた土砂崩れ
胃液の酸っぱい臭いと、泥の冷たさが鼻腔を支配していた。
削り取られた記憶の空白から、冷たい風が吹き込んでいる。
誰かの顔も、何があったかも、もう俺の中には存在しない。
だが、その空虚な穴の底で、どろどろとした黒い生存本能だけが、異常なほどの熱を帯びて渦を巻いていた。
(……奪われた。俺の一部が、レオンに殺された)
岩陰に身を寄せ合い、復讐を誓い合っている五人の帝国敗残兵。
彼らの前に、俺はゆっくりと歩み出た。
意図的に枯れ枝を踏み鳴らし、血走った目で彼らを見据える。
「誰だッ!」
敗残兵たちが一斉に剣を抜き、殺気立ってこちらを振り向く。
「味方です。……第8後方支援中隊のルークです」
俺は両手を上げ、彼らの前に進み出た。
前回のように、怯えたふりをして囮作戦を提案するような、中途半端な打算はもう捨てた。
この理不尽な世界で生き残るためには、もっと決定的な「盤面の破壊」が必要だ。
「後方部隊の生き残りか。あの地獄から、よく一人で逃げてきたな……」
俺の姿を見たリーダー格の男が剣を下ろし、同情的な目を向けた。
「安心しろ。俺たちはこれより死を覚悟で王国軍の斥候に奇襲をかける。お前はここに隠れていろ」
リーダー格の男の言葉を、俺は首を横に振って遮った。
「奇襲など無意味です。本物の主力部隊は、北の『関所』で待ち伏せています。純白の鎧を着た英雄、レオン・ハルトと共に」
俺の言葉に、敗残兵たちの顔色が変わった。
「なんだと……? 待ち伏せだと?」
「ええ。真正面から突っ込めば、一秒で首を刎ねられて終わります。奴らは感情を持たない怪物だ。剣を交える隙すら与えられない」
俺は彼らの目を見据えた。
同情も、良心の呵責も、今の俺には不要だった。
「ですが……奴らがいる北の関所は、両側を崖に挟まれた『切り通し』の谷底です」
俺は地面の泥に、簡単な地形の図を描いた。
「俺たちで崖の上に登りましょう。あなたたちが持っている限りの『起爆符』を谷の斜面に仕掛け、一斉に発火させる。あの化け物を倒すことはできなくても、何千トンもの岩と土砂を叩き落とせば、奴らの進軍ルートを物理的に塞ぐことができる。帝国の本隊に、数日の時間を稼げる」
俺の提案は、彼らの「復讐」という目的を、より確実で戦略的な形へと昇華させるものだった。
「……谷を崩す。なるほど、それならあの化け物どもを生き埋めにできる」
リーダーの男が、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「だが、崖の上から起爆させるには、誰かがギリギリまで身を乗り出して火薬を仕掛け、敵の注意を引きつけなければならない。確実に死ぬぞ」
「構いません。それが帝国兵の意地だ」
男たちは、死を覚悟した暗い炎を瞳に宿し、頷き合った。
俺もまた、無言で深く頷いた。
俺が崖下で囮になる気など毛頭ない。
俺は崖の上で彼らが火薬を仕掛けるのを手伝うふりをし、起爆の瞬間に安全な後方へと逃げ出す。
彼らを文字通りの「使い捨ての起爆装置」として利用するのだ。
月明かりを避け、俺たちは北の関所を見下ろす崖の上へと這い進んだ。
眼下の切り通しには、精鋭騎兵たちが、亡霊のように音もなく展開していた。
関所の中央には、白銀の髪を揺らすレオン・ハルトの姿。
彼を見下ろした瞬間、切断された首の幻痛が激しく脈打ち、胃液が込み上げてきた。
だが、俺は泥を噛んでその恐怖を無理やり腹の底に封じ込めた。
「……化け物どもめ。ここでまとめて生き埋めにしてやる」
リーダーの男が、震える手で数十枚の起爆符を束ね、もろくなった崖の岩肌に貼り付けていく。
他の四人も、発火の準備を整えていた。
俺は彼らの背後、崖の端から十メートルほど離れた太い木の陰へと、音を立てずに後退した。
これ以上近づけば、レオンのあの異常な直感に引っかかる。
「俺は、後方の見張りをします」
極小の声で囁き、俺は木の根の隙間に体を滑り込ませた。
彼らは振り返ることなく、「頼む」とだけ答えた。
起爆符の束に、微かな火種が灯る。
あと数秒で、巨大な岩盤が関所へと崩れ落ちる。
そう確信した、その瞬間だった。
眼下の谷底にいたレオンの頭が、弾かれたように崖の上――敗残兵たちのいる場所へと振り向いた。
(気づかれたッ!)
木陰に潜む俺の全身から、一気に血の気が引いた。
レオンは「誰だ」とも「敵襲」とも叫ばない。
崖の上に僅かな魔力の揺らぎを感知した瞬間、彼は一切の猶予を与えず、右手の指先を天空へと向けた。
ヒュンッ、ヒュンッ、ヒュンッ!!
空気を圧縮した不可視の風刃が、下から上へと、重力を無視した速度で撃ち放たれた。
「なっ――」
崖の上で起爆の準備をしていた敗残兵の一人が、声を上げる間もなく上半身を斜めに両断された。
鮮血が夜空に舞う。
続く二発目、三発目が、隣にいた兵士の頭部と腕をスイカのように吹き飛ばした。
あまりにも理不尽な、絶対的強者による無音の迎撃。
崖の上からの奇襲という地の利すら、レオンの前では何のアドバンテージにもならない。
魔法の射程も、発動速度も、威力の桁も、すべてが根本的に狂っている。
「う、おおおおおおッ!!」
隣で仲間が挽肉に変えられる中、リーダーの男は逃げることをしなかった。
彼は半身に致命的な風刃を浴び、左腕を失いながらも、残された右腕で起爆符の束に覆い被さった。
「帝国の誇りを、思い知れェェッ!!」
レオンの放った最後の一撃が、リーダーの男の胸を正確に貫いた。
だが、絶命する直前、男が起爆符を起動し、数十枚の起爆符を限界まで膨張させた。
カッ――!!
深夜の森を白日のように照らす強烈な閃光。
直後、鼓膜を破るような凄まじい轟音と共に、崖の一部が内側から完全に爆発した。
「ぐわぁっ……!」
十メートル離れた木陰にいた俺の体すら、爆風で泥の上を数メートル転がされた。
空気が震え、大地が悲鳴を上げる。
爆発によって支えを失った何千トンという巨大な岩盤と、森の土砂、そして大木が、重力に従って谷底の関所へと一気に雪崩れ落ちていく。
ズゴゴゴゴゴゴォォォォォンッ!!!
それは、魔法による攻撃ではない。
圧倒的な大自然の質量。
谷底にいた王国の騎兵たちは、悲鳴を上げる間もなく、落下してくる巨大な岩の雨に飲み込まれていった。
土砂は谷を埋め尽くし、あっという間に関所そのものを完全に押し潰した。
もうもうと立ち込める粉塵の中、俺は泥に顔を押し付けたまま、肺が破けそうなほど息を潜めていた。
パラパラと小石が降る音が収まり、森に重苦しい静寂が戻ってくる。
(……やった、のか?)
泥だらけの顔を上げ、俺は這いずるようにして崖の端へと近づき、眼下を覗き込んだ。
そこにあったのは、完全に土砂で埋め尽くされた谷底の無惨な光景だった。
関所の面影は跡形もなく、通行可能な道は完全に巨大な岩山の崩落によって塞がれている。
だが。
その土砂の山の中心部に、ぽっかりと空いた不自然な「半球状の空間」があった。
土煙が晴れた先。
そこには、汚れのない純白の鎧を纏ったレオンが、傷一つない姿で立っていた。
彼の周囲には、光の粒子で構成された絶対的な『障壁』が展開されており、落下してきた数百トンの岩盤すらも、その薄皮一枚の光を破ることはできていなかった。
(……マジかよ。あれだけの崩落を正面から受けて、無傷かよ……)
圧倒的なステータスの差に、俺は絶望的な笑いを漏らしそうになった。
五人の命と、崖一つを犠牲にしても、あのバグのような主人公のHPを1ミリも削ることはできなかったのだ。
だが、レオンは無傷でも、彼を取り巻く状況は違った。
光の障壁に守られていたのは彼と、周囲にいた数名の側近だけ。
少し離れた場所に展開していた騎兵や、軍馬の多くは土砂の下敷きになり、完全に潰されていた。
そして何より、彼が最短攻略で駆け抜けるはずだった「道」が、山のような土砂によって完全に塞がれていた。
「……チッ」
静寂の森に、レオンの舌打ちが響いた。
彼が見せた初めての、明確な感情の揺らぎ。
それは仲間を失った悲しみでも、奇襲を受けた怒りでもない。
自らが構築した完璧なRTAのチャートに、予定外の「巨大なタイムロス」が発生したことへの、極めて事務的で不快な苛立ちだった。
「部隊の被害状況を確認しろ。……攻略ルートが塞がれた。土砂を魔法で撤去するには魔力の消耗が激しすぎる。迂回路の選定に入る」
レオンは冷徹に指示を出し、それ以上崖の上を気にする素振りは見せなかった。
彼にとって、起爆した残党はすでに処理済みであり、ただの不快な障害物に過ぎないのだ。
(……勝った)
俺は、震える手で泥を強く握りしめた。
化け物を倒すことはできなかった。
だが、物理的に道を塞ぐことで、奴の異常な進軍速度を強制的に停止させ、帝国への侵攻を先延ばしにすることに成功したのだ。
五人の命を身代わりにし、自分の大事な何かを代償にして手に入れた、泥に塗れた生存ルート。
俺は後ろを振り返ることなく、北の森のさらに奥――帝都方面へと続く獣道に向けて、満身創痍の体を引きずりながら歩き出した




