第24話 理性の処刑と、魂を削るコンティニュー
北側の関所ルートへと続く獣道を這い出た俺は、太い朽ち木の陰に身を潜めたまま、眼前に広がる光景に息を呑んだ。
第三防衛線へと続く要衝であり、数十人の帝国兵が常駐して強固な防柵を築いていたはずの関所。
だが、そこにはすでに戦闘の熱狂も、命のやり取りを告げる怒号も存在していなかった。
丸太で組まれた関門は、燃やされることもなく、鋭利な刃で物理的に「切断」されて崩れ落ちている。
そして、その崩れた関所の周囲には、純白の軽鎧を纏った王国軍の精鋭騎兵たちが展開していた。
「……祖国で待つ家族のために、ここで死んでくれ」
静かな呟きが聞こえた。
一人の王国兵が、虫の息で倒れている帝国兵の首元に短剣を当てていた。
彼は一瞬だけ目を伏せた後――躊躇うことなく、鋭く体重を乗せて帝国兵の頸動脈を断ち切った。
事切れた遺体から手帳など物資を素早くむしり取り、小さく祈るように十字を切ってから、次の標的へと歩を進める。
そして、その関所の中央。
血だまりが広がる泥の上に、一人の男が立っていた。
月光を反射して冷たく輝く銀髪。
王国軍の絶対的な英雄、レオン・ハルト。
一人の帝国将校が、下半身を失い、自らを引きずりながら、レオンの足元に向かって短剣を突き出そうとしていた。
「化け、物……我らが帝国……、を……っ」
絶望と怒りに染まった、血を吐くような怨嗟。
だが、レオンは彼を一瞥すらしなかった。
白銀の聖剣は鞘に収まったままだ。
彼は前方の暗闇を見据えたまま、傍らに控えていた部下に向けて、ただ短く右手の指先を向けた。
『――処理しろ』という、無言の手信号。
ザシュッ。
指示を受けた部下の槍が、帝国将校の心臓を的確に貫いた。
レオンにとって、敵の意地も命乞いも、感情を揺さぶられるドラマですらない。
ただ「予定された進軍ルート上に落ちている障害物」を取り除いただけの、恐ろしく虚無的な横顔だった。
(…………ッ)
心臓の鼓動すら音が大きすぎると感じるほどの恐怖。
圧倒的な暴力と、不確定要素を完全に排した効率の権化。
あんなものに見つかれば、一秒で命が終わる。
俺はゆっくりと、ミリ単位の動作で後退を始めた。
落ち葉を踏まない。泥を跳ねさせない。
折れた肋骨の激痛に脂汗を流しながら、呼吸を完全に止め、闇の奥へと溶け込むように後ずさる。
泥が爪の間に食い込み、冷たさが足先から這い上がってくるが、筋肉の震えすらも意志の力で押さえ込んだ。
だが。
あと一歩で完全に茂みの死角へ入れる、その瞬間。
レオンの頭が、何の予備動作もなく、こちらへ向かって正確に振り向いた。
(え……?)
距離はまだ三十メートル以上ある。
風下であり、音一つ立てていない。
俺の体温は極寒の泥に浸かって完全に冷え切っているはずだ。
それなのに、月光に照らされたレオンの冷たい青い瞳が、暗闇に潜む俺の顔を寸分の狂いもなく射抜いていた。
視線が絡んだ瞬間、蛇に睨まれた蛙のように、全身の筋肉が強制的に麻痺した。
レオンの表情に変化はない。
「そこに誰かいるのか」といった誰何の言葉すら発しない。
彼は、視界の端に映った帝国兵に対して、一切の猶予を与えなかった。
彼が右手の指先を、すっとこちらに向けた。
殺意すら感じさせない、ただの作業の延長。
(逃げろッ!!)
脳が全身に絶叫の命令を下す。
だが、遅い。
ヒュンッ。
耳元で、空気が圧縮されて弾ける音が鳴った。
痛みが来るよりも早く、世界がぐるぐると激しく回転し始めた。
空が逆さまになり、森の木々が横に流れ、そして泥の地面が顔の前に勢いよく迫ってくる。
ドチャッ。
泥水の中に落ちた自分の視界の端に、首を失って倒れる「見慣れた軍服を着た肉体」が映った。
首の断面から、赤い鮮血が脈打つように噴き出している。
(あ、切られ――)
自分の首が刎ね飛ばされたのだと理解した瞬間、急速に視界が黒く塗りつぶされていく。
圧倒的で理不尽な死が、俺という存在を、世界から完全に消去しようとしていた。
その絶対の死の淵で。
俺の魂の奥底に刻まれた機構が、無機質な声で起動した。
『――死の運命を検知。【運命の栞】を発動します』
『代償として、転生前の記憶の一部を焼却します』
「――――ッ!!?」
肉体の死など比較にならない、魂そのものを直接削り取られるような、おぞましい激痛。
(やめろ……! 持って、いくな……ッ!!)
最初の死で、俺はすでに「記憶」を奪われている。
あの時の強烈な喪失感は、胸の奥に空いた巨大な穴として今も残っている。
そして今、脳の奥底から強引に引きずり出され、焼却炉へと放り込まれたのは――。
――オレンジ色に染まった、夕暮れの帰り道。
部活帰りに、親友と分け合った甘いソーダアイス
しかし、突如として、鉄錆と泥が混じった『帝国軍の携帯保存食』のパサパサとした味にすり替わった。
夕暮れの河川敷で笑い合っていたあいつの顔が、のっぺらぼうに塗り潰され――次の瞬間には、見慣れた帝国の『量産型鉄兜』を被った、生気のない兵士の顔へと変貌する。
「違う……あいつは、こんな鉄の匂いなんて……っ」
その色彩が、温度が。
温かかった放課後の風景が、血の赤いエフェクトと、無機質な軍靴の行進音に強制的に上書きされていく。
(やめろ……! 俺は、誰だ!? あいつの、あいつは、誰だッ!!)
声のない悲鳴を上げる。
(あ、あああ……あぁぁぁぁぁッ!)
暗闇の中で、俺の心だけがズタズタに切り刻まれていく。
そして、意識が急速に巻き戻り、周囲の景色が逆再生のビデオテープのようにブレて、再びピントが合った。
………
…………
「……絶対に、許さねえぞ……っ!」
聴覚が正常に戻る。
前方の茂みから、押し殺したような『殺意』を持った声が聞こえた。
むせ返るような煙の臭い。泥濘む足元。
俺の目は、岩陰に身を寄せ合う五人の帝国敗残兵の姿を捉えていた。
(……戻った……ッ!)
時間は、俺が彼らを囮にしようと考えた、あの忌まわしい分岐点の直前。
俺は茂みの陰で、木の幹に縋り付くようにして崩れ落ちた。
「おぇっ、げはっ……はぁっ、はぁっ……」
胃の内容物を泥の上にぶちまけ、激しく咳き込む。
首にはまだ、切断された時の生々しい幻痛が張り付いている。
震える手で首元を触るが、傷一つない。
だが、流れる涙は止められなかった。
また一つ大切な何かが永遠に失われてしまったことへの、どうしようもない空虚さと絶望。
自分が誰だったのか。俺を俺たらしめていた人間性が、削り取られていく。
(これが、代償……)
俺は泥だらけの両手で顔を覆った。
『運命の栞』
時間を巻き戻し、死を回避する究極の魔法。
だが、それは決して都合の良い奇跡などではない。
使うたびに俺の魂を削り、人間性を消去していく、ゆっくりとした自殺の装置だ。
次に死ねば、俺は何を忘れる? 生きたいという意志そのものか?
「……ふざけ、んな」
俺は血の滲むような声で呟き、震える足で立ち上がった。
北の関所ルートは、レオンの本隊が待ち構える絶対の死地だった。
南の岩場ルートは、レオンが用意したダミーの空き家だ。
前のループで、俺は彼らを南に送り、自分が北へ逃げたことで死んだ。
彼らと一緒に南のダミー陣地へ逃げ込めば、とりあえず今夜は生き延びられる。
だが、それではあの異常な速度で進軍するレオンの包囲網から、数日のうちに必ず捕捉されて殺される。
(……俺が生き残るには、この森から逃げるだけじゃ駄目だ。あの狂った進軍速度そのものを、物理的に遅らせるしかない)
俺は顔にこびりついた泥と吐瀉物を乱暴に拭い去り、血走った目で前方の敗残兵たちを睨みつけた。
姑息な囮作戦は通用しなかった。
ならば、もっと泥臭く、もっと悪辣に。
この理不尽な世界で、才能なき底辺が生き残るための、新たな盤面を強制的に引きずり出すしかない。




