第23話 無機質な包囲網と、致命的な打算
野戦病院を焼き尽くす業火が、西の森の木々を不気味な赤黒い色に染め上げていた。
むせ返るような煙の臭いが立ち込める鬱蒼とした森林地帯を、俺は泥に塗れながら這い進んでいた。
足元は泥濘み、太い木の根が幾重にも這い回っている。
少しでも油断すれば足首を捻るような悪路だ。
普通の軍隊なら、敵駐屯地の襲撃直後に危険を冒してまで、こんな足場の悪い夜の森に追撃部隊を深追いさせることはしない。
だが、俺の背後からは、落ち葉を踏みしめる重い足音が、不気味なほど一定のリズムで迫ってきていた。
太い木の幹の陰に身を隠し、背後を覗き見た俺は、思わず息を呑んだ。
暗闇の中、王国軍の斥候部隊が森を探索している。
だが彼らは、声一つ発しない。
怒号も、仲間同士の連携を確認する合図もない。
五メートル間隔で横一列に展開し、五歩進んでは立ち止まり、手にした魔力探知の光を扇状に照射する。そしてまた、一糸乱れぬ動きで五歩進む。
伏兵に対する恐怖も、敵を追い詰める高揚感もない。
ただ、森という広大な空間を端から端まで均等に「塗りつぶし」、そこに潜む生存者という異物を機械的に処理していくローラー作戦。
(あの隙間のない陣形……一人で隠密行動のまま抜け切るのは不可能だ)
魔法を使って気配を完全に遮断できるネームドキャラならいざ知らず、俺があの包囲網をやり過ごすことはできない。
遠からず、必ず探知の光に引っかかる。
どうする。
どこかで敵の目を逸らす囮はないか。
冷や汗を流しながら思考を巡らせていた、その時だった。
「……絶対に、許さねえぞ……!」
前方の茂みから、押し殺したような、だが確かな殺意を帯びた声が聞こえた。
俺は即座に呼吸を浅くし、声のする方へ音もなく近づく。
そこには、岩陰に身を寄せ合う五人の帝国兵の姿があった。
肩の防具が削れ、ボロボロになった軍服。
東の要塞から野戦病院へと逃げ延び、そこからさらにこの森へと逃げ込んできた敗残兵たちだ。
彼らは皆、包帯を巻き、全身を泥と血に塗れさせていた。
「あの王国軍の化け物ども……非武装の衛生兵や、動けない怪我人まで虫ケラみたいに殺しやがった。俺の弟も、あの天幕の中で……っ!」
「このまま逃げ帰るわけにはいかない……地の利はこちらにある。闇討ちで一矢報いてやる!」
「ああ。帝国の誇りを見せてやる。一人でも多く、あの白い悪魔の部下を道連れにしてやるんだ……!」
血走った目で剣を握り直し、相討ち覚悟の復讐を誓い合う兵士たち。
悲劇を乗り越え、強大な敵に立ち向かおうとする誇り高き戦士の姿。
王道の戦記物語であれば、間違いなく胸を打たれる名シーンだろう。
だが、その強烈な「敵意」は、今のこの森においては致命的なノイズだった。
あんな殺意を撒き散らしながら動けば、遠からずあの機械的な索敵網に引っかかり、数十秒で処理されるのは明らかだ。
彼らは、レオンが最も優先して排除しようとしている「後顧の憂い」そのものだった。
(……いや、待て)
俺の脳裏に、ひどく冷酷な打算が閃いた。
もし、彼らが森のどこかで派手に暴れてくれれば、あの規則正しい索敵網の足並みが必ず乱れる。
敵の意識が一極集中したその瞬間、包囲網には一時的な『穴』ができるはずだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、意図的に足元の枯れ枝を強く踏んだ。
パキッ。
「誰だッ!」
敗残兵たちが一斉に剣を抜き、殺気立ってこちらを振り向く。
「味方です……! 第8後方支援中隊のルークです」
俺は両手を高く上げ、ひどく怯えたふりをして茂みから姿を現した。
顔にはまだ、先ほど擬態に使った死体の血がこびりついている。
「野戦病院の襲撃から、命からがら逃げてきました。……皆さんは、奇襲をかけるおつもりですか」
「後方部隊の生き残りか。あの地獄から、よく一人で逃げてきたな……」
俺の姿を見たリーダー格の男が剣を下ろし、同情的な目を向けた。
「安心しろ。俺たちはこれより死を覚悟で王国軍の斥候に奇襲をかける。お前はここに隠れていろ」
(冗談じゃない。俺はあんたらに、一番敵が多い場所へ突っ込んでもらいたいんだ)
内心で舌打ちをしながらも、俺は涙ぐんだような顔を作って深く頷いた。
「待ってください! 奇襲をかけるなら、うってつけの場所があります」
俺は震える手で、地面の泥に線を引いた。
「先ほど逃げてくる時、南側の『岩場ルート』に王国兵が密集しているのを見ました。おそらく、あそこに前線指揮所が置かれています。俺が囮になって引きつけますから、皆さんは側面から……!」
もちろん嘘だ。俺が囮になる気などない。
俺のゲーマーとしての視覚が正しければ、南側の岩場ルートこそが敵の兵力が最も密集している主力部隊のキルゾーンだ。
あいつらを一番敵が多い場所に突っ込ませて盛大に散ってもらい、俺はその隙に、敵が手薄になっている北側の関所ルートから安全に帝都方面へ逃げる。
俺が生き残るための、完全な囮作戦。
「なんだと!?敵の指揮所があるなら、命を賭ける価値は十分にある……!」
男は闘志に満ちた目で仲間たちを振り返り、俺の肩を強く掴んだ。
「ルーク、お前の命を囮にはできん。お前は北から逃げろ。俺たちが指揮所を叩き潰して、追っ手をすべて引き受けてやる!」
「……どうか、ご武運を」
俺は深く頭を下げた。
胸が軋むような自己嫌悪の感覚は、泥と一緒に腹の底へ飲み込んだ。
自分の命を守るためなら、死に行く人間を使い潰すことに躊躇などしていられない。
「行くぞ! 帝国の意地を見せてやれ!」
復讐に燃える敗残兵たちは、特攻の覚悟を胸に、俺が指示した死地である南の岩場へと向けて駆け出していった。
彼らの背中が暗闇に消えたのを見届け、俺は敵が手薄になるはずの北のルートへと全力で走り出した。
――だが。
十分後。
北の森を腹這いになって北の関所へ進んでいた俺は、南の岩場の方角から聞こえてきた音に思わず足を止めた。
ドォォォンッ! という激しい爆発音。
しかし、続くはずの帝国兵たちの悲鳴や、怒号が全く聞こえない。
代わりに夜風に乗って響いてきたのは、歓喜の雄叫びだった。
「前線指揮所を破壊したぞッ!!」
「敵はもぬけの殻だ! !」
遠くから聞こえてきた声に、俺は息を呑んだ。
遠くに見える南の岩場。
そこには、「テント」と寂しく飾られた「王国旗」だけが虚しく燃え上がり、敗残兵たちは無傷のまま、包囲網の『穴』を抜けて去っていくところだった。
(ダミー……? 伏兵の特攻を警戒して、あえて一番目立つ場所に偽装拠点を置いていたってことか……!?)
俺は自分の浅知恵を呪った。
相手は、不確定要素を極端に嫌うレオンだ。
森の中に潜む伏兵をあぶり出し、無力化するために、わざと一番目立つ場所に空き家を置き、誘蛾灯のように使っていたのだ。
俺が死地だと思って敗残兵を送り込んだ場所は、結果的に、この森で唯一の安全な脱出ルートとなってしまっていた。
あいつらが助かったこと自体はどうでもいい。
問題は――一番目立つ場所が「空き家」だったなら、本物の主力部隊は、今どこにいるのか。
凍りつくような悪寒が背筋を駆け上がった。
ギギギ、と錆びた機械のように首を回し、自分が今向かっている「北側の関所ルート」の先を見据える。
月明かりに照らされた、切り通しの関所の入り口。
木々の隙間から見えたのは、手薄な抜け道などではなかった。
そこには、純白の鎧を纏った男――英雄レオンを中心に、一切の音を立てず、完璧な陣形を組んで待ち構えている精鋭騎兵部隊の姿があった。
「……嘘だろ」
俺の姑息な打算は、帝国兵たちを無事に故郷へ逃がした代わりに。
俺自身を、最悪のキルゾーンへと真っ直ぐに誘導していた。




