第22話 理性の殺戮と、死体擬態の生存術
熱風と轟音が、俺の鼓膜を容赦なく叩き割る。
爆裂魔法の直撃を受けた野戦病院の巨大天幕が、骨組みごとねじ切れて炎上していた。
「ひ、怯むな! 迎撃しろ!」
「動ける者は武器を取れ! 迎撃――ぎゃあああっ!?」
悲鳴は一瞬だった。
迎撃しようと前に出た数名の帝国兵は、名乗りを上げる隙すら与えられず、王国軍の騎兵が放った無数の風刃によってまとめてミンチにされた。
(クソッ、馬車が……!)
逃走用に確保したはずの荷馬車を見れば、繋がれていた馬は爆風で首をへし折られ、荷台ごと激しく炎上していた。
退路は完全に断たれた。
西へ続く街道は、すでに整然と展開した王国軍の別動隊によって封鎖されている。
周囲に広がる光景は、戦場というよりは「屠殺場」だった。
だが、前線の地獄とは、何かが決定的に違っていた。
「頼む、助けてくれ! 俺はもう戦えない、腕も脚も……っ!」
焼け爛れた地面を這いずり、涙を流して命乞いをする帝国の負傷兵。
対する王国軍の兵士は、一瞬だけ、わずかに目を伏せた。
だが、その顔に嗜虐的な笑みを浮かべることも、怒鳴りつけることもしない。
「……すまない。だが、これも作戦だ」
ひどく静かな、落ち着き払った声だった。
王国兵はそれだけを呟き、ただ粛々と、作業をこなすように短剣を負傷兵の首元へと深々と突き刺した。
ピクリと痙攣して動かなくなった兵士の顔を直視せず、小さく息を吐くと、即座に次の標的へと歩を進める。
絶叫も、罵倒も、高揚した笑い声もない。
そこにあるのは、血の通った人間でありながら、自らの感情に重い蓋をし、上官の命令を冷徹に遂行する「極めて優秀な兵士たち」の姿だった。
(……徹底してやがる)
瓦礫の陰に身を滑り込ませながら、俺は冷や汗で全身をびっしょりと濡らしていた。
あの兵士たちの動きは、狂気に当てられた狂人でも、感情を失ったゴーレムでもない。
正気だからこそ恐ろしいのだ。
敵と会話を交わし、罵り合い、ドラマを生み出せば、そこに「感情のしこり」が残る。
それが生き残りの復讐心に火をつけ、将来の反乱や暗殺といった不確定要素を生み出してしまう。
だからレオンは、部下たちに私情を挟まない、迅速で冷静な掃討を叩き込んでいる。
彼らもまた、自国の平和と、仲間を守るという『正義』のために、手を血で染める覚悟を決めているのだ。
すべての因縁を断ち切り、後々の禍根となり得る芽を根こそぎ刈り取るための、完璧で理性的な殺戮。
(どうする? まともに走って逃げれば、一秒で背中を蜂の巣にされるぞ)
敵の索敵網は精密極まりない。
数メートル間隔で等間隔に歩を進め、生きている人間をローラー作戦で潰している。
だが、相手が正気を保った「理性的な人間」であるなら、そこには必ず心理的な死角があるはずだ。
(奴らは何を見ている? ……敵意か? 動きか? いや、彼らも無駄な殺生やグロテスクな死体の確認は、できれば避けたいはずだ)
観察する。
王国兵たちは、すでに息絶えて動かない死体に対しては、わざわざ槍を突き刺すような無駄な攻撃を加えていない。
彼らとて、ただの肉塊を嬉々として切り刻むような異常者ではない。
完全に沈黙した死体は、目を逸らすようにして素通りしている。
徹底的なタイムロスの削減と、兵士の心理的負担の軽減。
彼らは、「呼吸の起伏があるもの」「生きている可能性のあるもの」を優先して脅威と認識するように訓練されているのだ。
(だったら……これしかない)
俺は躊躇わず、すぐ足元に転がっていた、先ほど首を掻っ切られたばかりの帝国兵の遺体へと手を伸ばした。
温かい鮮血を両手ですくい上げ、自分の顔面、首筋、そして軍服へと塗りたくる。
鉄の錆びたような生臭い匂いが鼻腔を突くが、吐き気など感じている余裕はない。
さらに、まだ熱の残る遺体を力任せに引きずり、その下に自分の身体を滑り込ませた。
覆いかぶさる死体の重み。冷たい泥と血だまりの中に顔を半分埋める。
魔法は使えない。
だから俺は、物理的な手段で自らの肉体を欺瞞する。
大きく息を吸い込み、肺の空気を極限まで吐き出し切ってから、呼吸を完全に止めた。
凍りつくような冬の泥水に顔を押し付けることで、急激に体温を奪わせ、心拍数を強制的に低下させる。肺が酸素を求めて悲鳴を上げるが、折れた肋骨の痛みを噛み締めて、ピクリとも動かない「肉の塊」になりきった。
ザッ、ザッ、ザッ。
泥を踏みしめる規則正しい足音が、すぐ頭上へと近づいてきた。
死体の隙間から、銀色に光る王国兵の鉄靴が見える。
ドスッ。
すぐ隣で、まだ息のあった別の負傷兵の胸に、槍が突き立てられる鈍い音が響いた。
短いうめき声の後、世界が静まり返る。
そして――王国兵の足音は、俺の頭のすぐ横で止まった。
(…………ッ)
心臓が破裂しそうなほどの恐怖がせり上がり、酸素不足で目の前がチカチカと明滅し始める。
だが、脈を乱してわずかでも体が動けば、その瞬間に殺される。
敵意も、恐怖も、生存への執着すらも心の奥底に押し殺し、俺は完全な背景と同化した。
「……ふぅ。こちらのエリアにはもう生存者はいません」
頭上から、押し殺したような若い兵士の声が聞こえた。
「ああ。ひどい有様だな……。だが、気を抜くな。ここで中途半端に情けをかければ、後で泣くのは俺たちの家族だ」
「分かっています。我々の手が血に汚れることで、王国に完全な平和が訪れるのなら……レオン様を、信じます」
静かな、しかし重い覚悟を持った兵士たちのやり取りが交わされる。
槍の石突が、俺の背に乗っている死体の傍らの泥を、確認するようにコツンと叩いた。
一秒。
二秒。
永遠にも思える数秒の静寂の後――。
「……よし、次へ行くぞ。急げ」
「はっ」
ザッ、ザッ。
足音は、俺の頭上を通り過ぎ、前方へと離れていった。
(……抜けた……!)
胸の中で、小さく、極細の糸を吐き出すようにして息を吸い込む。
奴らの目には、俺がただの「すでに処理済みの死体の山」に見えたのだ。
精神的負担から死体を直視したくないという人間の心理的な盲点を、泥臭いモブの死体擬態が見事にすり抜けた瞬間だった。
それから数十分の間、俺は死体の下で身じろぎ一つせず、掃討部隊の足音が完全に遠ざかるのを待ち続けた。
やがて、陣地内の破壊音が落ち着き、王国軍の本隊がレオンのいる王国軍中心部に集まる気配がした。
天幕を焼き尽くすパチパチという火の粉の音と、黒煙だけが残された野戦病院を包み込んでいる。
「……ぷはっ!」
死体を押し退け、血だまりの中から這い出た俺は、激しく咳き込みながら新鮮な空気を肺に痛いほど吸い込んだ。
見渡す限り、生きている人間の姿はない。
数時間前まで数百人の命があった場所は、文字通りの完全な焦土と化していた。
煙の向こう側に、純白の鎧を纏ったレオン率いる本隊が集合し、整列している姿が見えた。
「化け物め……だが、俺はまだ死んでねえぞ」
圧倒的な殺戮の嵐を、俺は泥に這いつくばってやり過ごした。
このまま軍服を脱ぎ捨てて逃げ出したいという衝動が脳を支配しようとするが、帝国には逃亡兵を刈り取る帝国の督戦隊が目を光らせている。
見つかれば、反逆罪としてその場で首を撥ねられるだけだ。
前には純白の悪魔、後ろには冷徹な処刑人。
俺に許された選択肢は、付近の駐屯地へ撤退するという『遅効性の死』を選ぶことだけだった。
頬にこびりついた他人の生温かい血を乱暴に拭い去り、俺はくすぶる黒煙に身を隠すようにして、鬱蒼と茂る西の森林地帯へと足を踏み入れた。
だが、底辺の泥をすするような本当の生存競争は、ここからが本番だった。




