第30話 冷徹なる天秤と、施錠された鳥籠
凍てつく泥をすすり、肺を焼くような寒気に耐えながら、俺は指揮官を失った帝国軍第一防衛線陣地へ生還した。
だが、安堵などというものは一秒たりとも与えられなかった。
前哨陣地の壊滅とシルヴィア少佐の死を報告する間もなく、俺は武装した憲兵たちに両腕を掴まれたのだ。
「歩け、ルーク曹長。ヴィクトル中佐がお待ちだ」
血と泥に塗れた姿のまま、俺は第三防衛線・黒金の砦、奥深くにある作戦会議室へと引きずり込まれた。
暖炉の火が赤々と燃える石造りの部屋。
部屋の中央に置かれた巨大な執務机。
その向こう側で、ヴィクトル中佐が銀縁の眼鏡を押し上げながら、這いつくばる俺を見下ろしていた。
「シルヴィア少佐が戦死し、レオン・ハルトの軍が一時的に撤退したそうだな」
ヴィクトルの第一声には、同僚を失った悲哀など一ミリも含まれていなかった。
ただ、事前に提出させていた報告書を読み上げるような、極めて事務的な響きしかなかった。
「……は、はい。少佐は命を賭して奴に一撃を入れ……レオンの左腕を完全に破壊しました。奴の軍勢は態勢を立て直すため、後退を……」
俺が掠れた声で絞り出すと、ヴィクトルは不快げに眉をひそめ、手元の羊皮紙をペン先でトントンと叩いた。
「陣地の指揮を放り出し、怒りに任せて単騎で敵将に突撃する。言語道断の命令違反だ。あの女はオズワルドの時といい、私情に流され過ぎだ。もし、適切に防御陣形を敷いていれば」
それは軍の参謀として、最悪の一手を打ったシルヴィアへの痛烈な批判だった。
だが、ヴィクトルはそこで言葉を切ると、珍しく忌々しげに一つだけ舌打ちをした。
「……だが、あれほどの魔力を暴走させても、奴を仕留めきれないか。切れ味の鋭い駒を失ったことは惜しいが……奴の進行を遅延させ、被害観測のデータをもたらしたことだけは、あの女の犬死にを評価してやろう」
それは、彼なりの最大の「手向け」だったのだろう。
だが、俺から見れば、帝国最強の一角であったネームドの死を、ただの「遅延工作のデータ」として処理するその冷徹さは、吐き気がするほどの異常性でしかなかった。
ヴィクトルは羽根ペンを置き、氷のような灰色の瞳で俺を射抜いた。
「だが、さらに興味深いのは貴様だ、ルーク曹長。私の配置した『使い捨ての観測部隊』の中で、ただ一人、敵の死の気配から逃げ切り、この砦まで生還した」
俺は床に額を擦り付けたまま、何も答えられなかった。
「私の見込んだ通りだ。貴様のその醜悪な生存本能だけは、一流の警報器として機能する」
褒め言葉ではない。極めて合理的で、盤上の駒の性能を評価するだけの、冷徹な響きだった。
ヴィクトルはゆっくりと立ち上がり、机の上にある砦の設計図を広げた。
「これより、我が軍はこの砦を放棄し、本隊を北の防衛ラインまで後退させる」
「……砦を、放棄……?」
俺は思わず顔を上げた。
この砦は、分厚い城壁と魔導砲を備えた、帝国が誇る難攻不落の城塞だ。
ここをあっさりと捨てるなど、狂気の沙汰だった。
「王国軍の進軍速度と、シルヴィア少佐すら敗れたレオン・ハルトを前に、ここで籠城戦を行うのは愚策だ。完全に包囲され、すり潰されるだけだからな。我々は、奴らが態勢を立て直している今のうちに、全軍を安全圏へと逃がす。方面軍司令部も了承済みだ」
ヴィクトルの声は淡々としていた。
「だが、無傷のまま砦を空にすれば、敵は警戒してこの砦を迂回するか、あるいは即座に騎兵による追撃をかけてくる。そこで、この砦に『大軍が駐留して籠城の準備をしている』と見せかける囮が必要となる」
嫌な予感が、背筋を氷のように這い上がった。
全身の産毛が逆立ち、本能が「今すぐここから逃げろ」と警鐘を鳴らす。
「ルーク曹長。貴様には、この砦に残り、囮部隊の指揮を執ってもらう」
「な……お待ちください!」
俺は折れた肋骨の痛みを忘れて叫んだ。
「俺は警報器として最前線に置かれたはず! 大軍の指揮など、俺のような平民の兵卒に――」
「大軍など残さない。貴様に与えるのは、反逆罪を犯した懲罰兵と、足や腕を失って撤退の足手まといになる重傷兵だけだ」
ヴィクトルの言葉が、物理的な重さを持って俺の脳天を叩き割った。
「満足に働けない負傷者と、犯罪者の寄せ集め。彼らには適当に城壁を歩かせ、松明を焚かせておけ。敵が砦を包囲し、総攻撃を仕掛けてくるまでの間……せいぜい、下水をドブネズミのように逃げ回って時間を稼ぐことだ」
「な……ッ! そんなの、ただの処刑じゃないですか!!」
俺の絶叫を、ヴィクトルは完全に無視した。
「連れて行け」
背後に立っていた憲兵たちが、抗う俺の腕を乱暴にねじ上げ、部屋の外へと引きずり出す。
「離せッ! 待ってください、中佐!! 俺が死んだら、中佐のカナリアはいなくなりますよっ!!」
廊下へ引きずり出される直前、ヴィクトルは冷たく鼻を鳴らした。
「勘違いするなよ。貴様は絶対に逃げようとするからこそ、絶対に『逃げられない場所』に置けば、死に物狂いで敵の足止めをする。私はその計算式に当てはめただけだ。……立派に殿(の役目を果たせ」
重いオーク材の扉が、俺の絶望を遮断するように冷酷な音を立てて閉ざされた。
数時間後。
砦の城門前に、ヴィクトル中佐率いる本隊が整列し、帝都方面へ向けて撤退を開始していった。
俺は、松明の火だけが頼りの薄暗い砦の広場に、ただ一人立たされていた。
俺の背後には、虚ろな目をした負傷兵たちと、絶望に顔を歪めた懲罰兵たちが座り込んでいる。武器すらまともに持てない連中だ。
彼らもまた、自分が捨て駒にされたことを完全に理解していた。
「……おい、嘘だろ……」
俺は、信じられない光景を前に、泥だらけの顔を青ざめさせた。
砦の巨大な鉄の城門。
その『外側』で、帝国軍の工兵たちが、太さ数十センチはある極太の鋼鉄の鎖を、門の取っ手に何重にも巻きつけていたのだ。
ガシャンッ、ガシャンッ! ガリガリガリッ!!
鎖が絡み合い、巨大な南京錠が外側から掛けられる重低音が、砦の中に響き渡る。
さらに、門の隙間には魔導火薬が仕掛けられ、中からの物理的な破壊すらも不可能なように完全に封鎖されていく。
「開けろッ! 俺たちを置いていくなァァッ!!」
数人の懲罰兵が狂乱して城門にすがりつき、鉄の扉を血が出るほど叩き続ける。
だが、外からの返事はない。
撤退していく本隊の足音だけが、無情にも遠ざかっていく。
逃げ場はない。
ここは城塞ではない。
外から施錠された、巨大な密室の棺桶だ。
奇跡の魔法なんて使えない。
空を飛んで逃げることもできない。
隠し通路のような、都合の良い逃げ道もない。
数時間後には、体制を立て直した王国の軍勢が、この砦を完全に包囲するだろう。
城壁を越えられれば、待っているのは一方的な屠殺だ。
「……クソが」
俺は城門を叩き続ける懲罰兵たちに背を向け、薄暗い城砦の内部を見上げた。
泣き叫んだところで、現実は一ミリも変わらない。
逃げ道を塞がれた密室の死地。
残されたのは、崩れかけた石壁と、ガラクタのような武器、そして動けない死に損ないと犯罪者の肉体だけ。
この物理的な絶望の中で、才能を持たない泥人形が、どうやってあの化け物どもの殺戮から生き延びるのか。
カナリアの極限のデスゲームが、完全に施錠された鳥籠の中で、今、強制的に開幕しようとしていた。




