第20話 安全地帯の腐敗と、泥ネズミの生存戦略
帝国軍・ガルデニア要塞都市からさらに後方に位置する、第8後方支援中隊の駐屯地。
そこは、最前線の血の匂いや、魔力が焦げるような死の匂いとは無縁の場所だった。
代わりに鼻を突くのは、荷馬車の獣臭と、カビの生えた小麦粉の匂い、そして……人間の「腐敗」の匂いだ。
配属されて一週間。
俺は、朝靄の立ち込める薄暗い倉庫の前で、自分の背丈ほどもある重い木箱を荷馬車から降ろしていた。
「おい、新入り! 手を休めるな! その箱には将校殿たちが口にする貴重な葡萄酒が入ってるんだ。落として割ったら、貴様の首を刎ねて弁償させるぞ!」
「は、はいッ! 申し訳ありません!」
丸々と肥え太った下士官の怒声に、俺はわざとらしくビクッと肩を震わせ、平身低頭で荷下ろしを急ぐふりをした。
折れた肋骨には粗末な添え木と包帯が巻かれているだけだ。
重い木箱を持ち上げるたびに骨が軋み、冷や汗が吹き出すが、激痛を顔に出すことはしない。
痛みを理由に休めば、この部隊では「使えないゴミ」として、すぐに前線の肉壁へと送り返される。
俺は息を殺し、泥ネズミのように存在感を消しながら、ひたすら黙々と木箱を運んだ。
第8後方支援中隊。通称『補給部隊』。
響きこそ裏方で安全そうに聞こえるが、その実態は、前世のブラック企業も裸足で逃げ出すほどの劣悪な労働環境だった。
朝から晩まで休むことなく続く物資の運搬、荷馬車の整備、馬の糞の始末。
睡眠時間は三時間を切る日も珍しくない。
過労で倒れる兵士が続出しているが、補充される人員は常に「前線で使い潰された怪我人か、賄賂を払えない平民」ばかりだ。
なぜそんなことになっているのか。理由は簡単だ。
「……中隊長殿。今月の小麦と干し肉の帳簿ですが、また『輸送中の王国兵による襲撃で三割損失』として処理しておきました。浮いた物資は、すでに商会の裏ルートへ……」
「ふふっ、ご苦労。前線の馬鹿どもは『防衛戦』とやらでそれどころではないからな。帝国のために命を懸ける奴らの分まで、私が有効に資産を運用してやらねば」
少し離れた執務テントの陰から、中隊長である恰幅の良い貴族将校と、その取り巻きの下士官の小声が漏れ聞こえてくる。
横領。
それも、中隊レベルでの組織的で大規模な不正だ。
最前線でオズワルドやシルヴィアたちが血反吐を吐き、レイモンド大尉が命を散らして防衛線を死守している裏で、この第8後方支援中隊の上層部は、前線へ送るはずの物資を中抜きし、闇市場に横流しして私腹を肥やしているのである。
帳簿のつじつまを合わせるため、末端のモブ兵士たちには過酷な労働を強いるくせに、俺たちに配給される食料はカビの生えたパンと、具の入っていない塩水のようなスープだけ。
これが、ゲーム『アビス・オブ・ソード』における「腐りきった帝国」のリアルな一面だった。
(……理不尽な魔法が飛び交う前線よりはマシだが、ここも立派な地獄だな)
俺は重い木箱を倉庫の隅に置き、額の汗を汚れた袖で拭った。
だが、絶望はしていない。
ステータスが最低値のモブ兵士である俺にとって、魔法や暴力ではなく「悪意と打算」が支配するこの後方部隊は、むしろ立ち回りやすい環境と言えた。
「おいルーク。お前、また倉庫の奥の整理を押し付けられたのか?」
背後から、同じく配属されてきた若い歩兵が、同情するような声をかけてきた。
「ああ。新入りだから仕方ないさ。暗くて埃っぽいから、みんな嫌がるしな」
俺は愛想笑いを浮かべて答えた。
そう。俺はわざと、他の兵士たちが嫌がる「倉庫の最奥の整理」や「荷馬車の底の清掃」といった陰気な仕事を自ら買って出ていた。
目立たないように。
従順で、使い勝手の良い無能な兵士を演じながら。
誰も見ていない倉庫の最奥。
俺は積み上げられた木箱の死角に潜り込み、周囲に気配がないことを完全に確認すると、木箱の隙間に隠していた「あるもの」をこっそりと取り出した。
横領将校たちがちょろまかした、高品質な『魔力治癒薬』の小瓶と、保存の利く上質な干し肉の塊だ。
(帳簿がガバガバなのをいいことに、上層部が中抜きしている物資の端数を、さらに俺が底辺から『中抜き』させてもらう)
前世のシステムエンジニアとしての知識。
俺から言わせれば、あの太った中隊長たちの横領の手口は、あまりにもお粗末だった。
数字の改ざんパターンには明白な癖があり、どこに「浮いた物資」がプールされているか、保管書と木箱の配置を見れば一目で分かる。
俺は、横領の証拠が残らないよう、保管書の数字をさらにわずかに改ざんし、上層部の懐に入るはずの裏物資から、気付かれない程度の『誤差の範囲内』を少しずつ抜き取っていたのだ。
一日にポーション一口。干し肉一欠片。
絶対に怪しまれない少量を、毎日確実に摂取していく。
配給されるカビたパンだけでは、折れた肋骨も治らず、いざという時に走って逃げる体力すら養えないからだ。
「……ごくっ」
俺は隠れて干し肉を素早く噛みちぎり、ポーションを一口だけ飲み込んだ。
温かい液体の魔力が喉を通ると、胸の奥でズキズキと痛んでいた肋骨の痛みが、すーっとわずかに和らいでいくのを感じる。
(魔法は使えなくても、金持ちの使うアイテムなら誰でも効果はある。これでなんとか、まともに走れる状態までは体を治せるはずだ)
俺は自分の口元を乱暴に拭い、小瓶を再び木箱の隙間の奥深くへと隠した。
俺は英雄ではない。
オズワルド少佐のように高潔な意志で部下を守ることもできなければ、シルヴィア少佐のように圧倒的な力で敵を粉砕することもできない。
俺にできるのは、こうして上層部の腐敗に寄生し、他人の悪意の影に隠れて、這いつくばってでも自分の命を繋ぎ止めることだけだ。
(……惨めだろうが、なんだろうが、俺は生き残る)
暗い倉庫の中で、俺は己の胸の奥底に横たわる『運命の栞』という呪いの存在を意識し、強く奥歯を噛み締めた。
時間を巻き戻す代わりに、自分の大切な記憶や人間性を永遠に削り取っていく絶対的な呪い。
あの力を二度と使わないために。自分が自分でなくならないために。
俺は再び泥ネズミのような無機質で従順な表情を作り、倉庫の表へと歩き出した。
「ルーク! 何をサボっている、次の荷馬車が来たぞ!」
「はいッ! ただいま向かいます!」
太った下士官の怒声に平身低頭で答えながら、俺は心の中で冷たく笑った。
汚職将校たちは今日も私腹を肥やし、最前線の兵士たちは理不尽に命を散らしている。
そして俺は、その巨大な組織の最底辺で、寄生虫のように養分をすすりながら、来るべき次の『死のイベント』に備えて、誰にも見えない生存への牙を研ぎ続けていた。




