第19話 凍てつく墓標と、底辺の配属書
東の空から白み始めた太陽の光が射し込んでも、渓谷の気温は氷点下から一向に上がらなかった。
狂気の姉妹が去り、絶対零度の嵐が過ぎ去った翌朝。
戦場は、文字通りの『凍てつく地獄』と化していた。
氷の魔女・シルヴィアが感情を暴走させて放った広域氷結魔法の痕跡は、渓谷の地形そのものを変えていた。
隆起した巨大な氷山は太陽の光を反射して冷たく輝き、地面の泥は数メートル下まで完全に凍りついている。
そして、その透明な氷の中には、昨夜の戦闘で命を落とした無数の帝国兵や、狂気の姉妹に挽肉にされた死体の一部が、まるで悪趣味な標本のように閉じ込められていた。
「……おい、足元に気をつけろ。氷が滑るぞ」
「滑るんじゃねえよ……これ、血が凍ってやがるんだ……」
生き残ったわずかな帝国兵たちが、白い息を吐きながら、生存者の捜索と遺体の回収作業に当たっていた。
だが、回収と言ってもまともな形では行えない。
氷に半分埋まった死体を無理に引っ張り出そうとすれば、カチンコチンに凍りついた肉体が、陶器のようにパキンと無惨に砕け散ってしまうからだ。
人間の命が、文字通りモノ以下に成り下がった凄惨な光景。
「……う、ぐっ……」
俺は、凍りついた岩陰に腰を下ろし、折れた肋骨を庇うように浅い呼吸を繰り返していた。
止血帯をきつく巻き直し、気休め程度の痛み止めの丸薬を噛み砕いてなんとか夜を越したが、全身の筋肉は悲鳴を上げ、足先の感覚は凍傷でとうに失われている。
魔法なんて便利なものは使えない。
他人の死体を漁り、泥水をすすり、老兵の尊い自己犠牲の影に隠れて、俺は泥臭く生き延びた。
あの『運命の栞』を使って前世の大切な記憶を削り取られることもなく、自我を保ったまま朝を迎えることができた。
だが、心の中に湧き上がってくるのは、生存の喜びなどという美しいものではなかった。
あるのは、圧倒的な徒労感と、どろどろとした鉛のような無力感だけだ。
ふと視線を上げると、遠くの氷の祭壇のような場所で、一人の女性が立ち尽くしているのが見えた。
シルヴィア少佐だった。
彼女の純白と鉄紺の軍服は泥と血で汚れ、美しかった銀色の髪も今は力なく垂れ下がっている。
彼女の視線の先には、原型を留めないほどに吹き飛んだレイモンド大尉の遺体が、帝国軍の旗に包まれて安置されていた。
彼女は一粒の涙も流していなかった。
昨夜、渓谷を震わせたあの慟哭はもうない。
だが、その背中から立ち昇る気配は、以前の「冷徹な指揮官」のそれよりも遥かに恐ろしく、深い絶望と絶対的な復讐心だけが、青白い炎のように静かに燃え盛っているのが分かった。
部下を失った氷の魔女は、真の意味で心まで凍てついた『魔女』へと変貌してしまったのだ。
(……この世界は、理不尽だ)
俺は凍りついた自分の両手を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
英雄たちでさえ、大切なものを理不尽に奪われ、心を壊される。
ましてや、ただのモブ兵士である俺など、気まぐれ一つでいつでもミンチにされるだけの存在だ。俺が生き残れたのは、俺の努力でも実力でもない。
ただ運良く「強者の死角」に転がり込めたからに過ぎない。
「生き残りども、集まれ! これより本隊の駐屯地へ後退する!」
生き残った下士官の怒声が響き、俺は重い体を引きずって立ち上がった。
第二章の幕開けを告げたこの防衛戦は、こうして帝国軍の辛くも『防衛成功』という形で終わった。
だが、支払った代償はあまりにも重かった。
それから数日後。
前線から数十キロ後方に位置する、帝国軍の巨大な要塞都市『ガルデニア』。
その外縁部に広がる薄暗い野戦病院のテントの中で、俺は負傷兵として手当を受けていた。
「はい、次。……肋骨の骨折と、軽度の凍傷か。運が良かったな、歩兵。魔力治癒の支給はない。この軟膏を塗って、さっさと添え木をしておけ」
「……あ、ありがとうございます」
目の下に濃いクマを作った軍医が、俺の胸に乱暴に包帯を巻きつけ、悪臭のする緑色の軟膏を押し付けて去っていく。
魔導師による魔法治療や高価なポーションは、将校や騎士階級、あるいは魔力回路を持つ優秀な兵士に優先して回される。
魔力適性ゼロの底辺モブ兵士である俺たちには、前世の野戦病院以下の、自然治癒に毛が生えた程度の処置しか与えられない。
それでも、泥と死臭にまみれた戦場から離れ、屋根の下で支給された固いパンを齧れるだけで、ここは天国のように思えた。
要塞都市の中には、敗戦に等しい防衛戦を生き延びた兵士たちの間で、様々な噂が飛び交っていた。
オズワルド少佐は、狂気の姉妹から受けた傷が深く、現在は要塞の奥深くで昏睡状態にあるらしい。
多くの兵と指揮官を失った彼の大隊は事実上壊滅し、軍隊としての機能は完全に失われた。
シルヴィア少佐率いる第3機動魔導大隊も、レイモンド大尉という副官を失ったことで部隊の再編を余儀なくされ、一時的に最前線から退いているという。
「おい、聞いたか? オズワルド少佐の大隊、再編されるらしいぞ」
「マジかよ……生き残った俺たちはどうなるんだ?」
「決まってんだろ。復帰次第、人員の足りてない最前線の別の部隊に、補充兵として散り散りに回されるのさ」
負傷兵が集まるテントの中で交わされる兵士たちの会話に、俺は硬いパンを飲み込む手を止めた。
軍隊という巨大な歯車にとって、俺たちモブ兵士はただの『数字』だ。
大隊という枠組みがなくなれば、余ったネジは足りない穴に無作為に放り込まれる。
もし、次に第一線で戦う突撃部隊や、主人公レオンと激突する予定の防衛戦に回されれば、今度こそ俺の命はない。
(どこに配属される……? 頼む、少しでも生存確率の高い、目立たない部隊であってくれ……)
俺は包帯の巻かれた胸を抑えながら、テントの端で祈るように身を縮めた。
そして、運命の再編通達の日。
要塞の練兵場に、生き残った数百人の兵士たちが整列させられていた。
前方にある演壇から、冷酷な目をした軍務局の将校が、羊皮紙の束を読み上げていく。
「――以上三十名、第1突撃歩兵連隊へ配属!」
「――次、二十五名、第4防衛大隊へ配属。明日より最前線へ進発せよ!」
名前を呼ばれ、死刑宣告を受けたも同然の最前線部隊へと配属されていく兵士たちが、絶望に顔を歪めて崩れ落ちていく。
俺は心臓が口から飛び出しそうなほどの緊張を抱えながら、自分の名前が呼ばれるのを待った。
「次。認識番号7740、ルーク兵卒。前へ出ろ」
ビクッと肩を震わせ、俺は列から一歩前に出た。
将校が、冷たい事務的な視線で俺を見下ろす。
(来るか……第1突撃か? それとも、あの地獄の第2防衛戦線か……?)
俺は奥歯を噛み締め、どんな絶望的な通達が来ても、生き延びる算段を立てようと脳をフル回転させた。
しかし、将校の口から紡がれた言葉は、俺の予想を完全に裏切るものだった。
「ルーク兵卒。貴様は、先日の防衛戦においてオズワルド少佐の部隊に所属し、最後まで陣地を放棄せず生還した記録があるな」
「は、はい……!(ただ泥の中に隠れて震えていただけだが……!)」
「よって、貴様の生存能力と負傷の度合いを考慮し、部隊再編に伴う新たな任務を与える」
将校は羊皮紙に羽根ペンでサインを走り書きし、それを俺に向かって突き出した。
「貴様は本日付で、『第8後方支援中隊』への配属を命ずる。速やかに荷物をまとめ、補給拠点へ移動せよ」
「……え?」
俺は、突き出された羊皮紙を受け取りながら、間抜けな声を漏らした。
第8後方支援中隊。通称『補給部隊』。
それは、最前線で剣を振るう戦闘部隊ではなく、食料や武器の輸送、陣地の設営、そして軍用馬の世話などを行う、完全な裏方部隊だった。
英雄、耳をつんざく怒号、華々しい魔法の応酬すら存在しない。戦場の最後尾に位置する、泥臭い兵站の拠点。
「……後方、支援……」
俺は、手の中の配属書と将校の顔を交互に見つめ、信じられない思いで呆然と立ち尽くした。
生き残った。最前線の死のループから、ついに外れることができたのだ。
オズワルドが俺の偽装命令書のおかげで生き残り、その部隊の数少ない生存者として「何らかの評価」を受けたのか。
あるいは、ただの無作為なサイコロの目が、奇跡的に当たりを引いたのかは分からない。
だが、結果がすべてだ。
俺は、英雄たちが命を散らすあの最前線から、合法的に離脱する切符を手に入れたのだ。
(やった……っ、やったぞ……!!)
俺は、肋骨の痛みも忘れて、内心で歓喜の叫びを上げた。
後方支援部隊なら、主人公たちの理不尽な全体攻撃に巻き込まれる確率は劇的に下がる。
泥水をすすり、死体の下敷きになりながら必死に足掻いた俺の生存戦略が、ついに実を結んだのだ。
しかし、浮き足立つ俺の脳裏に、前世のゲームの記憶がふと冷や水を浴びせた。
(待てよ……『アビス・オブ・ソード』の帝国ルート中盤。確か、後方支援部隊って……汚職貴族の横領の温床になっていて、最終的に王国軍の『別働隊』に補給線を断たれて、兵糧攻めで地獄を見るイベントがなかったか……?)
手の中の配属書が、急に重く感じられた。
ダークファンタジーの世界に、本当の意味での「安全地帯」など存在しない。
最前線の理不尽な暴力から逃れられたとしても、次に待っているのは、人間の悪意と陰謀が渦巻く、泥沼のような兵站の戦場だ。
「……どんな場所だろうと、生き延びてやるさ」
俺は配属書を力強く握りしめ、誰にも聞こえない声で呟いた。
狂気の姉妹の刃を逃れ、氷の魔女の暴走を生き延びたのだ。
汚職貴族の陰謀だろうが、補給部隊の過酷な労働だろうが、泥水をすすってでも食らいついてやる。
俺は前世の記憶を繋ぎ止めた『運命の栞』の呪いを胸の奥に封じ込め、最底辺のモブ兵士として、新たな戦場――泥沼の後方支援部隊へと足を踏み出す決意を固めた。




