第18話 絶対零度の処刑と、狂犬の敗走
ピキッ……ピキピキピキッ……!!
戦場を支配していた土と血の匂いが、肺を凍らせるほどの極寒の空気に塗り替えられていく。
シルヴィアの足元を中心に、青白い霜が円状に広がり、周囲の泥濘を瞬時にカチカチの凍土へと変えていく。
彼女の美しい銀色の髪は、膨大な魔力を帯びた毛先がまるで深い水中にいるかのようにふわりと宙を漂い、その全身からは怒りと絶望が形を持ったような、凄まじい密度の絶対零度の魔力が竜巻のように吹き上がっていた。
「……おいおい、冗談だろ。空気が……凍ってやがる……」
レイモンドの自爆によって全身に火傷と裂傷を負ったロゼが、自身の真紅の軍衣に霜が降りていくのを見て、顔を険しく引きつらせる。
彼女の吐く息は白を通り越し、空気に触れた瞬間から細かな氷の結晶となってボロボロと落ちていた。
「お姉様……これは、少しばかり厄介なことになりましたわね。魔力の質が、先ほどとは別次元ですわ……」
自爆の爆風を至近距離で、それも回避しきれずに『直撃』で浴びたエマの姿は、ロゼよりもさらに悲惨な有様だった。
咄嗟に展開した魔法障壁は完全に粉砕され、誇り高く結い上げていた金髪の半分がチリチリに焼け焦げている。
純白のドレスは爆風で吹き飛び、露出した左半身は広範囲にわたって赤黒く焼け爛れ、左腕は力なくダラリと垂れ下がっていた。
「……ここは、……いったん退がりましょう」
エマは自身の武器である細剣を『杖』のように泥へ突き立て、かろうじて自重を支えている。
先ほどまでの余裕や、優雅な舞踏会のステップなど欠片もない。
傷が内臓まで達しているのか、一呼吸ごとに血の泡を吹きながらも、彼女は血走った目でシルヴィアの放つ異常な冷気を睨みつけ、ジリジリと後退しようともがく。
「退がるって、どこへだよ……。足が、凍りついて動かねえ……」
ロゼが、自らの足元を見下ろして忌々しげに舌打ちをする。
エマもまた、引きずる足元が凍てつく大地に縫い止められようとしていた。
そこにあるのは、怯えではない。
常軌を逸した魔力に対する明確な「警戒」と、死の気配を肌で感じ取った生存本能のアラートだった。
狂乱の姉妹が距離を取ろうとするより早く、氷の魔女の反撃が始まった。
いや、それは反撃というような生易しいものではなかった。
一切の感情を持たない、ただ純粋な『殺意』だけを宿したシルヴィアの青い瞳が、ロゼとエマを真っ直ぐに射抜く。
剣を振るうことすらしない。
彼女が虚空に向かって指先をわずかに動かした、ただそれだけで。
ズゴォォォォォォォンッ!!!
ロゼとエマの足元の凍土が突如として爆発し、直径十メートルはあろうかという巨大な氷の顎が、大地を下から食い破るようにして隆起した。
「チィィィッ!!」
ロゼが本能的に巨剣を盾にして飛び退くが、氷の顎から無数に枝分かれした鋭利な氷槍が、彼女の軍靴とふくらはぎを容赦なく貫き、縫い付ける。
「が、あああああっ!?」
ロゼの口から、苦痛の声が上がった。
「お姉様ッ!」
エマが血を吐きながらも無理やり残った右腕で細剣を振り上げ、氷の槍を斬り払ってロゼを助け出そうとする。
だが、致命傷を負ったその動きはあまりにも遅かった。
彼女が踏み込んだ空間の「空気中の水分」そのものが、シルヴィアの魔力によって瞬時に刃となって固まり、エマのボロボロの全身をさらに幾重にも切り裂いた。
「くっ……!」
傷だらけの肌から新たな鮮血が舞い、それが地面に落ちる前に凍りついて赤いガラス玉のように砕け散る。
圧倒的。
規格外。
レイモンドというブレーキを失い、悲しみによってリミッターを完全に外したシルヴィアの力は、王国が誇る狂気の姉妹すらも力でねじ伏せるほどの、純粋な『暴力』へと変貌していた。
「なめる、なァァァァァッ!!」
足を貫かれたロゼが、痛みを狂気と闘争心でねじ伏せ、全身から真紅の炎を爆発させた。
氷槍を無理やり溶かして引き抜き、大量の血を流しながらも、巨剣を大上段に構えてシルヴィアへと跳躍する。
「死ねェッ! 氷女ァッ!!」
レイモンドの自爆ダメージでボロボロの肉体。
だが、彼女の底なしの破壊衝動は、そのすべてを威力に変換して振り下ろされた。
空気を焼き切るような真紅の剣閃。
だが、シルヴィアは瞳一つ動かさない。
毛先がふわりと揺れる銀髪の奥で、冷たく、無機質な声が紡がれる。
「――『氷獄』」
瞬間、ロゼの巨剣がシルヴィアの頭上に届くより早く、周囲の空間そのものが絶対零度の檻へと変貌した。
ピキィィィィンッ!!!
という鼓膜を劈く高音と共に、ロゼの全身を包んでいた真紅の炎が、文字通り「凍りついた」。
炎が凍るなどという物理法則を無視した現象。
だが、シルヴィアの圧倒的な魔力は、世界の法則すらも上書きしてねじ伏せたのだ。
「な……が、ぁ……!?」
空中で完全に動きを封じられ、巨大な氷の塊の中に腕ごと閉じ込められたロゼが、驚愕と、底知れぬ死の気配に目を血走らせる。
その巨大な氷の檻の内部から、無数の氷の棘がロゼの肉体に向かってじわじわと突き出し始めていた。
このままでは、彼女は氷の中で全身を串刺しにされ、原型を留めない赤い肉片へと変わる。
「……ロゼを、放しなさいッ!!」
姉の危機に、エマが自らの痛みを噛み殺し、決死の形相でシルヴィアへと殺到した。
傷だらけの体で無理やり魔力を振り絞り、最速の刺突を放つ。
しかし、その一撃がシルヴィアに届くことはなかった。
細剣の切っ先が、シルヴィアの周囲に展開された見えない極低温の防壁に触れた瞬間、運動エネルギーを完全に奪われてピタリと静止する。
「……ッ!」
剣が届かない。
どんなに足掻いても、この命を燃やす氷の魔女には傷一つつけられない。
これまでは、自分たちが強者として、弱者である帝国兵を蹂躙してきた。
その圧倒的な力の差が、今、完全に自分たちの方へと跳ね返ってきているのだ。
「……黙れ」
シルヴィアが、静かに言葉を発した。
彼女が虚空で手を握り込む。
それだけで、エマの細剣が刀身から持ち手まで一瞬で凍りつき、パァンッ! と粉々に砕け散った。
「ぐっ……ぁっ!?」
ただでさえ重傷だった体に凍気が逆流し、両腕の皮膚をズタズタに引き裂かれたエマが、雪の上に血を吐きながら崩れ落ちる。
「……」
シルヴィアは無言でエマを見下ろし、無慈悲な氷の槍を頭上に生成した。
狙いは、完全に無力化して雪に這いつくばるエマの心臓。
もはや、勝負は完全に決していた。
(……すげえ。これが、本気のネームドの力……!)
泥の中に這いつくばったまま、俺は寒さに歯の根を鳴らしながら、その圧倒的な光景をただ見上げていた。
先ほどまで俺たちを蟲ケラのように潰していた理不尽の権化が、完全に処刑されようとしている。
――だが。
「……チッ、ふざけんな……っ!」
左腕ごと凍らされた氷の檻の中で、串刺しにされかけていたロゼが、ギリッと奥歯を噛み砕くほどの力でエマを睨みつけた。
「エマ、アレを使え! さっさと二人でズラかるんだよ!」
ロゼの叫びに、エマが忌々しげに顔を歪め、懐から小さな青い宝石を取り出した。
空間転移のスクロールが込められた、超高価な緊急脱出用のアーティファクト。
「無理ですわ! 転移の結界は、対象同士が触れ合っていなければ……っ!」
「なら、触ればいいんだろッ!!」
ロゼは、自らの左腕を氷の檻に縫い付けている棘を睨みつけた。
引き抜こうにも、すでに肉と骨まで完全に凍りつき、氷の壁と一体化してしまっている。
彼女は躊躇うことなく、残された右腕で愛用の真紅の巨剣を持ち直した。
「ガァァァァァァァァッ!!」
狂気的な咆哮と共に、彼女は自らの巨剣の刃を、自身の左肩へと全力で振り下ろした。
ズバァァァンッ!!
肉と骨を断ち切る重い音と共に、ロゼの左腕が肩の付け根から完全に切断された。
大量の血飛沫が檻の中にぶちまけられる。
だが彼女は、自らの腕を切り落として拘束から逃れたことで生じたわずかな隙間から、残された右腕を檻の外へと強引に突き出したのだ。
「お姉様……ッ! ああ、あああああっ!!」
自らの肉体を躊躇なく切り捨て、血を撒き散らしながら伸びてきた姉の右腕に、エマの美しかった顔が絶望と悲痛に醜く歪んだ。
彼女の焼け爛れた目から、紅蓮の『血の涙』がボロボロと溢れ出し、純白の雪を汚していく。
「逃がすと思いますか」
シルヴィアが即座に氷の槍を射出する。
「……あたしたちの負けだ、氷女。だが……次会った時は、必ずその首をへし折ってやるからなァァァッ!!」
ロゼの血まみれの右手がエマの肩を強く掴んだ瞬間、エマが魔道具を力任せに握り潰した。
カッ! と強烈な青白い光が戦場を包み込み、空間がぐにゃりと歪む。
直後、シルヴィアの放った氷槍がエマの心臓を貫く寸前で、転移の光が二人を完全に飲み込んだ。
血まみれの姉妹の身体が、光の粒子となって瞬時にその場から掻き消える。
転移の光が消えた直後。
巨大な氷の檻の中で無数の棘が限界まで伸び切り、ロゼが『切り落として置いていった左腕』を無慈悲に粉砕した。
赤く染まった氷が、バラバラと泥の上に降り注ぐ。
「…………」
標的を失った戦場に、重苦しい静寂が戻ってきた。
吹き荒れていた絶対零度の魔力嵐が、嘘のようにスッと霧散していく。
王国が誇る狂気の姉妹は、死こそ免れたものの、片腕の喪失という二度と消えない深い傷と、底知れぬ復讐心を刻み込まれて敗走したのだ。
「……ああ……あぁぁぁ……」
嵐が去った戦場の中央。
シルヴィアは、糸が切れた操り人形のように、ドサリとその場に膝をついた。
彼女は、血の海に沈み、二度と動くことのないレイモンドの遺体の前まで這いずり、その冷たくなった身体を強く抱きしめた。
「レイモンド……ごめんなさい、私……私が…っ」
常に冷徹無比であった氷の魔女は、もはや一人の弱々しい女性へと戻っていた。
ふわりと漂っていた美しい銀髪も、今は泥と涙に濡れて力なく垂れ下がっている。
その慟哭が、血塗られた渓谷に悲しく響き渡る。
俺は、泥の中からゆっくりと身を起こした。
折れた肋骨が激しく痛み、全身の筋肉が凍傷で悲鳴を上げている。
周囲を見渡せば、真っ二つに両断された帝国兵の死体や、氷の破片に貫かれた肉塊が、泥の中に無数に転がっていた。
レイモンドという、気高き老兵の命と引き換えに、俺は生き残った。
あの『運命の栞』を使って前世の記憶を焼き切ることもなく、自我を保ったまま、この地獄の底で呼吸をしている。
(……俺は、生き残った。だが……)
震える手で、泥だらけの顔を覆う。
嬉しいという感情は湧いてこない。
ただ、胃の奥にどろどろとした鉛が沈んでいるような、圧倒的な虚無感と無力感だけがあった。
俺は何もできなかった。
ただ泥に隠れ、息を潜め、誰かが犠牲になって盾になってくれるのを待っていただけだ。
英雄たちの戦いにおいて、俺は命の数を数えるための「数字」ですらない。
「……それでも」
俺は、泥まみれの手で短剣を拾い上げ、強く握りしめた。
この理不尽な世界で、どれほどみっともなくても、どれほど無力でも。
他人の死体と犠牲の上に胡座をかいてでも、俺は絶対に生き抜いてやる。
前世の大切な記憶を、俺という人間性を、これ以上システムに奪われてたまるか。
血と氷に染まった第二章の戦場は、多くの帝国兵と一人の老兵の死という重すぎる十字架、ロゼ、エマという狂気の姉妹の深い怨嗟を残して、静かに幕を下ろした。




