第17話 退場する老兵と、絶対零度の覚醒
銀色の細剣が、氷の魔女の軍服を貫き、その気高い命を刈り取ろうとする致命の軌跡。
俺が泥水をすすって生き残るために必要不可欠だった「圧倒的な強者」が、今、理不尽な絶望の前に散ろうとしている。
(……終わった)
泥の中に顔を半分埋めたまま、俺は絶望に瞳を硬直させた。
ロゼの極大の一撃を上空で防ぐことに全神経と魔力を注ぎ込んでいるシルヴィアに、背後から迫るエマの神速の突きを躱す術はない。
コンマ数秒後には、彼女の心臓が正確に穿たれ、この戦線は指揮官を失って崩壊する。
そして、盾を失った俺たち底辺のモブ兵士は、狂気の姉妹の娯楽として文字通り一人残らず挽肉にされるのだ。
時間がスローモーションのように引き伸ばされた、死の直前の泥濘の視界。
だが、この理不尽極まりないダークファンタジーの世界において、人間の「意志」が、設定された絶対的なステータスをほんの一瞬だけ凌駕する瞬間があった。
「――大隊長殿ォォォッ!!」
鼓膜を破らんばかりの、血を吐くような絶叫が戦場を震わせた。
エマの細剣がシルヴィアの背中に到達する、その真の刹那。
ズバァァァッ!!
という生々しい肉の裂ける音と共に、純白の死神と氷の魔女の間に、ボロボロになった鉄紺の軍服が割り込んでいた。
「……あら?」
優雅な笑みを浮かべていたエマの目が、初めて微かな驚愕に見開かれた。
盾となったのは、歴戦の老兵、レイモンド大尉だった。
彼は自身の限界をとうに超え、魔力回路が焼き切れるほどの負荷を両足にかけて大地を蹴り、強引にシルヴィアの背後へと身を投げ出したのだ。
エマの放った必殺の細剣は、シルヴィアの心臓ではなく、レイモンドの右胸から左の脇腹にかけてを深々と、そして致命的に貫いていた。
ゴボッ、とレイモンドの口から大量の鮮血が溢れ出し、彼の足元に赤い水たまりを作る。
「レイ、モンド……ッ!?」
上空のロゼの巨剣を防ぎ切り、背後の異変に気づいたシルヴィアが、血相を変えて振り返る。
彼女の目に映ったのは、自身の代わりに致命傷を負い、エマの刃に深々と貫かれた副官の姿だった。
「……無茶をなさいますわね、おじ様。ですが、急所を外したとはいえ、その傷ではもう数秒と保ちませんわよ?」
エマは冷酷に微笑みながら、レイモンドの肉体に突き刺さった細剣を引き抜こうとした。
彼女にとっては、標的がシルヴィアから邪魔な老兵に変わっただけのこと。
この瀕死の肉の壁を切り捨ててから、再びシルヴィアの首を落とせばいい。そう考えていたに違いない。
だが、エマは細剣を引き抜くことができなかった。
「……逃がし、ませんよ……若い、お嬢さん……」
レイモンドが、自らの肉体を貫くエマの細剣の刀身を、素手でギリッと強く握りしめていたのだ。
刃を握る彼の手のひらから血が滴り落ちるが、その握力は老兵の最後の意地そのものであり、エマの力をもってしても咄嗟には引き抜けないほどの万力だった。
「チッ……!」
エマが初めて不快げに舌打ちをする。
「おっさん、いい根性してるじゃねえか! だがな、いつまで保つかなァ!!」
上空から着地した姉のロゼが、獲物を横取りされまいと、狂気の笑みと共に巨大な両手剣を振りかぶり、レイモンドごとシルヴィアを両断しようと突進してくる。
「レイモンド! 離れなさい、今すぐ治癒を――」
シルヴィアが悲痛な声を上げ、手を伸ばそうとする。
だが、レイモンドは血まみれの顔で、かつてないほど穏やかな、そしてどこか誇らしげな微笑みを上官に向けた。
「……シルヴィア、少佐。あなたは、帝国の……いや、我々の、希望です」
「何を言っているのです! 早く離れなさいッ!」
「……不肖の部下からの、最後にして最大の、命令違反を……どうか、お許しください」
そう言うとレイモンドは彼にできる最大限の力でシルヴィアへ防御魔法を施し、残された左手で、へし折れた魔導銃剣の柄をエマの腹部に力任せに押し当てた。
そして、彼の全身に刻まれた古い魔力回路が、不気味なほど眩い琥珀色の光を放ち始める。
それは、魔法の発動ではない。
魔力回路そのものを暴走させ、自身の命と引き換えに放つ、魔導師にとっての絶対の禁忌
――『自爆』の光だった。
「お姉様! 退がってッ!!」
エマの顔からついに余裕が消え去り、悲鳴のような声が響いた。
突進してきていたロゼも、その尋常ではない魔力の膨張に危険を察知し、慌てて巨剣を盾にして防御姿勢を取る。
「――最後まで付き合ってもらいますよ、狂犬ども」
老兵の静かな、しかし確かな意志が込められた呟きと共に。
ドゴォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
至近距離での、魔力回路の完全暴走による大爆発。
戦場の中央に、小型の太陽が落ちたかのような凄まじい閃光と爆風が吹き荒れた。
「がああああっ!?」
「くぅぅっ……!」
爆発の直撃を受けたエマが純白のドレスを血に染めて吹き飛ばされ、防御姿勢を取っていたロゼすらも、すさまじい衝撃波に顔を歪ませて数十メートル後方へと弾き飛ばされる。
「がはっ……!!」
泥の中に隠れていた俺の体も、その余波だけで枯れ葉のように宙を舞い、地面に激しく叩きつけられた。全身の骨が軋み、肺から空気が強制的に吐き出される。
だが、そんな痛みなどどうでもよくなるほどの、圧倒的な喪失感が戦場を支配していた。
猛烈な爆煙と砂塵が晴れた後。
大きくえぐれたクレーターの中心には、胸から腹にかけて致命的な欠損を負い、原型を留めないほどボロボロになったレイモンドの体が、血の海の中に横たわっていた。
彼を覆っていた琥珀色の魔力はすでに霧散し、わずかな生命の灯火すらも、今まさに風に吹かれて消えようとしている。
「レイモンド……ッ! レイモンド!!」
シルヴィアが、泥に膝をつくことも厭わず、血まみれの老兵の体にすがりついた。
常に冷徹で、軍務の遂行を第一としてきた「氷の魔女」の顔が、今はただの一人の人間として、悲痛な絶望に歪んでいる。
彼女の手から必死に治癒の魔力が流し込まれるが、それはひび割れた水差しに水を注ぐようなものだった。
すでに彼の肉体は、命を繋ぎ止めるための器としての機能を完全に失っている。
「……少佐……どうか、ご無事で……」
レイモンドの目は、もう何も見えていないようだった。
虚空を見つめたまま、共に数え切れないほどの死線を潜り抜けてきた上官に微かな微笑みを向け――そして、歴戦の老兵は、静かにその目を閉じた。
彼の手から力が抜け、血まみれの腕が力なく泥の上に落ちる。
戦場に、重苦しい静寂が落ちた。
吹き飛ばされたロゼとエマも、全身に火傷と裂傷を負いながらもゆっくりと立ち上がっていたが、先ほどまでの狂喜の笑いは消え、無言で警戒の視線を向けている。
(……死んだ)
俺は、這いつくばったまま、その光景をただ呆然と見つめていた。
ゲームの中では、ただのテキスト一行で処理される「レイモンド大尉、戦死」というイベント。
だが、現実は違った。
彼は生きていた。呼吸をし、冗談を言い、シルヴィアを心から案じていた。
その彼が、今、肉の塊となって泥に沈んでいる。
一人の傑物たる老兵の死。
この理不尽な世界で、一介の平兵士が安全に生き残るための道筋は、誰かの尊い犠牲と、流された大量の血の海の上にしか成り立たないという圧倒的な現実。
俺が『運命の栞』の呪いを恐れ、泥に隠れて震えていたあの数秒の間に、彼は躊躇うことなく命を投げ出したのだ。
底知れない無力感と、自分の浅ましさへの自己嫌悪が、どろどろとした吐き気となって胃の奥から込み上げてくる。俺は泥を強く握りしめ、声にならない嗚咽を漏らした。
「……あ、ああ……」
シルヴィアの口から、迷子になった子供のような、かすれ切った声が漏れた。
彼女はレイモンドの動かなくなった冷たい手を両手で包み込み、自分の額に押し当てた。
ポタ、ポタと、氷の魔女の瞳から、大粒の涙が血塗れの泥へと落ちていく。
「ああああああああああああああああああああああああッ!!!!」
突如として、シルヴィアの口から、渓谷全体を震わせるほどの慟哭が木霊した。
それは悲しみなどという生易しいものではない。
己の半身をもがれた激痛と、大切な部下を奪った理不尽に対する、純粋で絶対的な「殺意」。
彼女の慟哭に呼応するように、戦場の空気が、物理的に『凍りつき』始めた。
ピキッ……ピキピキピキッ……!!
シルヴィアの足元から、青白い霜が異常な速度で周囲の大地を侵食していく。
彼女の全身から、これまでとは比較にならない、いや、人間の次元を完全に超越した強大で荒れ狂う『絶対零度の魔力』が、巨大な竜巻となって吹き上がり始めたのだ。
「……おいおい、冗談だろ。空気が……凍ってやがる……」
「お姉様……これは、少しばかり厄介なことになりましたわね。魔力の質が、先ほどとは別次元ですわ……」
俺は、あまりの寒さに歯の根をガチガチと鳴らしながら、その光景を見上げていた。
シルヴィアの銀色の髪が、膨大な魔力を帯びた毛先がまるで深い水中にいるかのようにふわりと宙を漂い、青白い魔力の光を放っている。
彼女の周囲の空間そのものが、極低温によって歪み、ひび割れていた。
軍の指揮官としての理性も、冷静な戦術も、今の彼女にはない。
そこにあるのは、世界そのものを凍てつかせ、目に映るすべての敵を氷の地獄へと叩き落とそうとする、文字通りの『氷の魔女』の姿だった。
大切なものを奪われた絶望が、理不尽な世界に対する怒りが、彼女の真の力を覚醒させたのだ。
俺たちを蟲ケラのように蹂躙した最狂の姉妹に対する、氷の魔女の真の逆鱗が、今、完全に解き放たれようとしていた。




