第2話 理不尽なる蹂躙と、泥に這いつくばる生
ズシャアッ!!
凄まじい風圧とともに、目の前の景色が赤く染まった。
俺を怒鳴りつけていた先輩兵の言葉が途中で途切れ、彼の身体が文字通り真っ二つに裂けて、俺の顔面に生温かい血の雨が降り注いだのだ。
地鳴りのような足音とともに、前方の深い霧を完全に切り裂いて、一人の騎士が姿を現した。
純白の軽鎧を返り血で赤黒く染め上げ、凄まじい殺気を放ちながら突進してくる主人公
――王国軍の英雄レオンの姿があった。
画面越しに見る分には「爽快な主人公の突撃シーン」だったが、生身の肉体で目の当たりにするそれは、ただの理不尽な人間破砕機でしかなかった。
レオンが無造作に白銀の剣を一閃するたびに、帝国軍の兵士が分厚い鎧ごと豆腐のように両断され、鮮血と肉片が宙を舞う。
悲鳴を上げる間すらない。
つい数秒前まで息をして、恐怖に顔を歪めていた人間たちが、ただの「赤いシミ」と「肉の塊」に変わっていく。
そこにドラマや騎士道など存在しない。
ただ絶対的な強者が、眼の前の障害物を効率的に処理しているだけの、無機質な暴力の嵐だった。
(あんなものまともに食らったら、一瞬で壁のシミになる。真正面から戦って勝てる要素が1ミリもない!)
極限の恐怖で、足の指先から心臓までが凍りついたように動かない。
背を向けてこの戦場から逃げ出せばどうなるか。
帝国軍の軍規は冷酷で厳格だ。
敵前逃亡兵は、味方の手で見せしめとして容赦なく処刑される。
突撃して目の前の化け物にミンチにされるか、逃げ出して帝国軍に首を刎ねられるか。
そして、死ねばまたあの『運命の栞』が発動する。
再び脳髄を焼き切られるような激痛を味わい、自分の残された大切な記憶を削り取られる。
死の痛みと、自分が自分でなくなっていく恐怖の板挟み。
(嫌だ。もう何も忘れたくない。俺は、生きたい……!)
気高い決意でも、シナリオを修正する英雄的な使命感でもない。
ただの底なしの生存本能だった。
レオンの視線が、わずかにこちらを向いた気がした。
死の閃光が飛んでくるまで、コンマ数秒。
「ひっ……ぁ……!」
俺は悲鳴を上げ、目の前の先輩兵の鮮血を全身に浴びたまま、泥のなかに派手に倒れ込んだ。
転がるようにして岩陰のくぼみに滑り込み、さっき半分にされた先輩兵の死体を力任せに引き寄せて、自分の体の上に覆い被せた。
まだ生温かい他人の血が首筋を伝い、内臓の重みが胸を圧迫する。
鉄と排泄物の混じった凄まじい悪臭が鼻を突くが、吐き気を催している余裕などない。
死体の下で目をきつく閉じ、呼吸を極限まで殺す。
ドォン! と大地を揺らす轟音とともに、レオンと王国軍の一団が俺のすぐ横を駆け抜けていく。
巻き起こる砂塵と衝撃波が、死体越しの俺の体を激しく揺さぶる。
踏み潰される恐怖に、心臓が肋骨を突き破りそうなほど脈打っていた。
どうか気づかないでくれ。通り過ぎてくれ。
泥と血の混じった不快な味が口の中に広がるが、咳き込むことすら許されない。
誰の目にも、今の俺は「敵の攻撃に巻き込まれて無残に死んだ、名もなき帝国兵の肉塊」にしか映らないはずだ。
どれほどの時間が経っただろうか。
永遠にも思えた数分が過ぎ、やがて戦闘の喧騒が地響きとともに遠ざかっていく。
「……はぁ、はぁっ、はぁっ……」
俺は冷や汗と血に塗れた泥の地面に顔を押し付けたまま、小さく震える息を吐き出した。
死体をどかす力すら入らない。泥水の中に顔を沈めたまま、ただ自分がまだ息をしていることだけを確かめる。
(……生き延びた。あの化け物を、やり過ごした……)
最初の即死イベントは、この情けない死体偽装でどうにか乗り切った。
だが、安堵するのはまだ早い。
これから帝国軍の敗走が始まり、生き残ったとしても、さらに上の冷酷な上官たちが「見せしめの処刑」や「無謀な特攻作戦」を次々と発令してくる。
そして何より、このまま既存のシナリオ通りに王国と帝国の全面戦争がエスカレートしていけば、数年後には世界全体が破滅のバッドエンドへまっしぐらに突き進み、帝国人である俺は確実に殺される。
(まともに生きていける世界じゃない。力も魔法もない俺が生き残るには、あの狂った主人公の殺戮の嵐も、俺を捨て駒にする帝国の上官たちも欺いて、どうにかしてシナリオの歯車を狂わせるしかない……)
最底辺の雑魚モブに成り下がった俺は、重い死体を震える腕で押し退け、誰にも気付かれないように泥の中から這い上がり、血と肉片に染まった世界を睨みつける。
記憶を削り取られる激痛と喪失感を胸に抱きながら。
ただ生き残るために、泥をすすってでも足掻き続ける、名もなき底辺兵士の絶望のサバイバルが始まった瞬間だった。




