第1話 確定した破滅ルートと、喪われた温もり
深夜の自室。
散らかったデスクの上で、モニターの青白い光だけが、酷使して隈の浮いた顔を照らしている。
手元には、ボタンの塗装が剥げかけた使い古しのコントローラー。
液晶画面の向こうでは、操作する英雄が神がかった剣閃を放ち、敵国である帝国兵の群れを赤いエフェクトと共に次々と血祭りに上げていた。
「――よし、これでこのステージの『帝国軍の雑魚』は一掃っと。本当にこのゲーム、爽快感だけはバグってるよな」
世間では『クソゲーの皮をかぶった精神破壊鬱ゲー』と揶揄されているアクションRPG
『アビス・オブ・ソード』
王国と帝国の終わらない泥沼の戦争を描いたこの世界では、ストーリーの後半から味方も敵も容赦なく、そして惨たらしく死に絶えていくことで有名だ。
だが、そんな設定はどうでもよかった。
日々の理不尽な激務にすり減り、ただ寝て起きるだけの反復を繰り返す日常の中で、この序盤の脳筋仕様な「無双感」は、手っ取り早く万能感を得られる唯一のストレス発散だったのだ。
難所と言われたステージをノーダメージでクリアし、あくびを噛み殺しながら次のエリアのロード画面を見つめた。
――次の瞬間。
不意に画面の光が異常なまでに膨れ上がり、網膜を焼くほどの白で部屋全体を塗りつぶした。
視界が白から黒へ、そして急速に別の色へと切り替わる。
鼻腔を容赦なく突いたのは、自室のデスクに置いていたミントの消臭ビーズの香りではない。
ひどく生暖かく、粘り気のある泥の生臭さと、鉄錆が焦げたような、紛うことなき「大量の血の匂い」だった。
「ぐっ……おぇっ」
反射的に体を起こそうとして、全身の筋肉を走る強烈な激痛に顔を歪める。
冷たい泥と、幾千の軍靴に踏み荒らされた草木が頬にべったりと張り付いている。
ここはどこだ? 散らかったデスクのある狭い自室じゃない。
見上げた空は、どんよりとした血の色を混ぜたような重たい鉛色で、遠くから聞いたこともない軍号と、耳を塞ぎたくなるような人間の絶叫、そして硬質な剣戟の音が反響していた。
頬を叩く冷たい風の感触、口の中に広がる泥のジャリッとした味、そして肺を突き刺すような生々しい酸欠感。
五感に飛び込んでくる情報は、仮想現実と呼ぶにはあまりにもリアルすぎた。
パニックに陥りかけた脳の引き出しから、先ほどまで狂ったようにコントローラーを握ってプレイしていたゲームのビジュアルが、嫌なリアリティを伴って浮かび上がる。
その時、視界の端で、泥を蹴立てて走る影が見えた。
ボロボロに擦り切れた帝国軍の軍服に、不格好な鉄の兜。
手にして震えているのは、刃こぼれした粗悪なショートソード。
自分の体を慌てて見下ろす。
「……ルー…ク…?」
『ルーク』と書かれた見慣れない識別票と、纏っている服は、目の前の兵士とまったく同じ、安っぽくて薄汚い帝国軍の雑魚装備だった。
「おい、そこでおたおたしてやがる新入り! 死にたくなければ前線を支えろ! 王国の『英雄』部隊が突撃してくるぞ!」
先輩らしき別の帝国兵に怒鳴り散らされ、心臓が激しく跳ね上がった。
頭の中で、先ほどまで遊んでいたゲームの冷酷なシステムとシナリオチャートが脳裏をよぎる。
――俺が転生したのは、主人公の側じゃない。
主人公たちに最初のステージで、容赦なく踏み潰されて虐殺される「敵国(帝国)側のモブ」の肉体だ。
このままいけば、俺は数分後、あの狂ったような主人公無双の前に引きずり出され、名前すら覚えられることなく、エフェクトまみれの剣閃に両断されてゴミのように死ぬ。
冷や汗が滝のように背中を流れ落ちる。
ゲームの画面越しなら「雑魚敵なんて消し飛ばせ!」と笑っていたが、いざ自分がその「消し飛ばされる側」に回ると、絶望以外の何物でもなかった。
泥にまみれた剣を握りしめ、とにかくこの場から逃げ出そうと一歩を踏み出した。
その瞬間。
ドンッ、と。首の側面に強い衝撃を受けた。
痛みはなかった。
ただ、視界がぐるぐるとおかしな方向に回転し、空と泥が交互に映る。
ドサリと落ちた自分の視線の先には、首から上がない、見慣れた薄汚い帝国兵の体が、血を噴き出しながら倒れていた。
自分が首を刎ね飛ばされたのだと理解した瞬間に、急速に視界が暗転していく。
意識が深い闇に沈む寸前。
魂の奥底で、何かがパチンと弾ける感覚があった。
『――死の運命を検知。【運命の栞】を発動します』
『代償として、転生前の記憶の一部を削除しました』
無機質な声が響いた直後、脳髄に焼け火箸を直接突っ込まれ、ぐちゃぐちゃにかき回されるような激痛が走った。
「ああああああああああああああああああああああっ!!」
前世の記憶。
休日の午後、リビングで流れていた大好きな音楽。
柔らかいソファの沈み込む感触。
キッチンから漂ってくる、母が淹れてくれたコーヒーの香り。
「ほら、冷めないうちに飲みなさい」と笑いかけてくれた、母の優しい顔。
俺を形作っていたはずの「何かとても大切で、温かかったもの」が、真っ白な灰になって焼け落ちていく。
色彩が消える。
温度が消える。
音が消える。
母の顔が、のっぺらぼうのように白く塗りつぶされていく。
「やめろ……っ! それだけは、やめろォォッ!!」
叫んでも止まらない。
自分が何かを失ったという強烈な喪失感と、胸をえぐるような痛みだけを残して、俺の自我の一部が永遠に消滅した。
「はっ……ぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」
気がつくと、俺は泥の上に倒れ込んでいた。
首に矢は刺さっていない。自分の体は繋がっている。
「おい、そこでおたおたしてやがる新入り! 死にたくなければ前線を支えろ!」
先ほどと全く同じ声、同じ光景。
時間が巻き戻っている。だが、胸の奥で冷たい風が吹いているような空虚な喪失感は、決して幻ではなかった。
(俺は、何を忘れた? 今、俺の中から、何が消えた……!?)
自分が自分でなくなっていくようなおぞましい恐怖。
だが、その恐怖に浸る暇すら、この狂った世界は与えてくれない。
地鳴りのような足音とともに、前方の深い霧を切り裂いて、殺戮の嵐が殺到してくる。




