第15話 氷の魔女と、絶対強者たちの狂宴
「――そこまでよ、王国軍の狂犬ども」
絶望に染まった戦場の空気を一瞬で凍てつかせるような、氷のように冷たく気高い声が響き渡った。
同時に、びゅう、と猛烈な寒風が吹き抜ける。
オズワルドの首を刎ね飛ばすべく、無慈悲に振り下ろされていたロゼの巨大な両手剣。
その分厚い鋼の刀身が、オズワルドの首筋に到達するわずか数センチ手前で、突如として空間に出現した鋭く青白い『氷の壁』に激突した。
ガガンッ!!
凄まじい衝撃音が響き渡る。ロゼの規格外の腕力から放たれた処刑の剣閃は、数枚の氷の防壁を粉々に砕き散らしたものの、その致命の威力は完全に殺し切られていた。
「……あァ?」
ロゼが面白くなさそうに赤い目を細め、舌打ちと共に巨剣を肩に担ぎ直す。
砕け散った氷の破片が、ダイヤモンドダストのように戦場をキラキラと舞う。
その美しくも冷酷な輝きの向こう側、砂塵が晴れた場所に、一人の女性が降り立っていた。
泥と血にまみれたこの最前線にはあまりにも不釣り合いな、一分の隙もない純白と鉄紺の軍服。
銀色の長い髪を冷たい風に揺らし、研ぎ澄まされた氷の刃のような美貌を持つ女性指揮官。
帝国軍・第3機動魔導大隊の大隊長――シルヴィア少佐。
冷徹無比な軍務遂行者として恐れられ、その美貌と容赦のない采配、そして一切の詠唱を必要としない規格外の氷結魔法から「氷の魔女」と異名を取る女傑だ。
「……まったく、オズワルド。これだから場数を踏んだだけの脳筋は困ります。自陣の指揮官が自ら死地に躍り出るなど、三流の兵法以下ですよ」
シルヴィアは、血まみれで倒れ伏すオズワルドを一瞥し、細い眉をしかめて冷たい言葉を投げ放った。
だが、その言葉とは裏腹に、彼女の行動は完全に軍の規律に反していた。
自陣の防衛線を死守すべき魔導大隊の長が、わざわざ自らの持ち場を離れてまで、他部隊の救援に駆けつけるなどあり得ない。
彼女は、命令違反という重大な責任を背負ってでも、共に帝国を支えてきた戦友を救うために飛んできたのだ。
「ほう……? なんだなんだ、次から次へと面白そうなのが出てくるじゃないか!」
ロゼが、新たな獲物に向けて嗜虐的な笑みを深める。
先ほどまでの「玩具を壊す」ような目ではない。
自身に拮抗しうる力を持った「強者」に向ける、純粋な殺意と歓喜の入り混じった狂気の瞳だ。
「お姉様、お気をつけて。あの女……これまでの有象無象とは、練り上げている魔力の『質』が違いますわ」
エマもまた、細剣の切っ先をシルヴィアへと向けながら、優雅な微笑みの奥で警戒の光を鋭くした。
「オズワルド、這ってでも自陣へ戻りなさい。ここからは私たちの戦域です……レイモンド、少し時間を稼ぎますよ。出来ますね?」
「承知いたしました、大隊長殿。……やれやれ、私の心臓と魔力回路がどこまで保つか分かりませんがね」
シルヴィアの背後の影から、歴戦の老兵レイモンド大尉が静かに歩み出た。
白髪交じりの髪に、無数の傷跡が刻まれた顔。彼は背中から重厚な『魔導銃剣』を引き抜き、ガチャリと排莢機構を鳴らしながら、ロゼとエマを見据えてニヤリと笑った。
「さあ、お転婆な若いお嬢さん方。むさ苦しいおじさんが相手になりましょう」
氷の魔女と、歴戦の老兵。
対するは、王国軍が誇る最狂の姉妹。
英雄同士の、文字通り次元の違う殺し合いが、今まさに始まろうとしていた。
(……助かった。俺が、自分の『自我』を削り取らずに済んだ……!)
防壁の残骸の裏。
俺の右手から、カラン、と音を立てて短剣が滑り落ちた。
極度の緊張の糸が切れ、肺の奥から震えるような安堵の息が漏れる。
俺は飛び出さずに済んだ。
無様に殺され、『運命の栞』を使って前世の記憶を焼き切るという最悪の呪いを、間一髪のところで回避できたのだ。
だが、その安堵は、わずか数秒で完全に凍りついた。
文字通り、俺の周囲の泥水がパリパリと音を立てて凍り始めたのだ。
「……っ!?」
異常な寒気に身を震わせ、俺は顔を上げる。
シルヴィアの全身から立ち昇る青白い魔力が、周囲の気温を急激に奪い去っていた。
彼女が本気を出すということは、周囲の環境そのものが「絶対零度の地獄」に変わるということだ。
一方のロゼからは、陽炎のように揺らめく真紅の闘気が噴き上がり、エマの周囲では、極度に圧縮された風の刃がシュルシュルと不気味な音を立てて渦巻いている。
四人の強者が放つ凄まじいプレッシャーが、物理的な重圧となって俺の体にのしかかってきた。
呼吸ができない。空気が重すぎる。
折れた肋骨が悲鳴を上げているが、そんな些細な怪我などどうでもよくなるほどの、生命の危機。
(逃げなきゃ……! ここにいたら、あいつらの攻撃の余波だけで、俺の体なんて一瞬で消し飛ぶ!)
本能が警鐘を鳴らし、足掻くように泥を掻く。
だが、足に力が入らない。
蛇に睨まれた蛙どころではない、巨大な竜の足元でうずくまる虫ケラの気分だ。
これが、ゲームの画面越しでは絶対に分からなかった「ネームドキャラクターたちの本当の恐ろしさ」だった。
主人公たち強者と、俺たち底辺モブ兵士との間には、努力や工夫でどうにかなるような壁ではない、生物としての決定的な「バグ」が存在している。彼らの戦場に、一般兵が立ち入る余地など最初から1ミリも用意されていなかったのだ。
「邪魔だぜぇ、氷女ァッ!!」
静寂を破り、ロゼが獣のような咆哮と共に大地を蹴った。
彼女が踏み込んだ地点の泥が爆発したかのように弾け飛び、凄まじい脚力によって、瞬きする間もなくシルヴィアの頭上へと跳躍する。
「真っ二つに割れろォッ!!」
ロゼの巨大な両手剣が大上段から振り下ろされる。
それはただの剣撃ではない。空気を圧縮し、暴風を纏った質量兵器の落下だ。
シルヴィアは表情一つ変えず、剣すら振るわなかった。
ただ、白魚のような指先を軽く持ち上げる。
「――『氷山』」
ドゴォォォォォォォンッ!!!
大地が割れ、シルヴィアの足元から、ロゼの巨剣を迎撃するように、鋭く巨大な『氷の山』そのものが凄まじい速度で隆起した。
巨剣と氷山が激突し、戦場に落雷のような轟音が鳴り響く。
空気が震え、衝撃波が竜巻となって周囲を薙ぎ払う。
俺は必死に泥の中に顔を埋め、両手で頭を抱えた。
数メートル先で倒れていた帝国兵の死体が、衝撃波だけでボロ布のように宙を舞い、遠くへと吹き飛ばされていく。
「だっはははは! いいねぇ、硬いじゃねえか! アンタのそのすました顔が、恐怖と絶望でグシャグシャに歪むのが見たいんだよォ!!」
ロゼは弾き返されるどころか、空中で強引に体を捻り、二撃、三撃と氷山に向けて巨剣を叩きつける。
その度に氷が砕け散り、戦場に巨大なクレーターが穿たれていく。
一方、激戦のすぐ傍らでは、もう一つの死闘が音もなく幕を開けていた。
「お姉様にばかり、良い思いはさせませんわ」
エマの姿が、ふっと陽炎のようにブレて消えた。
シルヴィアの死角――背後から、音を置き去りにした超高速の刺突が放たれる。
防壁を展開する暇すらない、必殺の一撃。
だが、その冷酷な細剣の軌道を、使い込まれた魔導銃剣が正確に弾き飛ばした。
キィィィンッ! と鼓膜を劈くような甲高い金属音が鳴り響く。
「おっと。若いお嬢さんの激しいアプローチは嬉しいですが、私の背中のご婦人は少々独占欲が強くてね」
レイモンド大尉だった。
彼はシルヴィアの背後を守るように立ち塞がり、琥珀色の魔力を銃剣に纏わせて、エマの神速の連撃を辛うじて受け流していた。
「おや……その勘と、老練な技術は見事ですわ。ですが、おじ様のその古い魔力回路で、いつまでわたくしの速度についてこられますか?」
エマの口角が吊り上がり、細剣が銀色の残像となってレイモンドに襲い掛かる。
タァンッ! タァンッ! と、レイモンドも牽制のために魔導弾を放つが、エマはドレスの裾を翻すだけの最小限の動きでそれを躱し、瞬時にレイモンドの懐へと潜り込む。
一合打ち合うごとに、レイモンドの軍服が切り裂かれ、彼の顔に疲労と汗が滲んでいく。
経験と技術だけで、圧倒的なステータス差を埋めているに過ぎない。
限界はすぐに訪れる。
氷嵐と暴風、そして魔力の火花が飛び交う地獄の只中。
泥に塗れた底辺モブ兵士である俺は、ただ呼吸を殺し、全身の震えを堪えながら、この狂気の宴が通り過ぎるのを待つことしかできなかった。
英雄たちの戦場において、俺の命は、あの空を舞う氷の破片よりも軽い。
理不尽で、圧倒的で、どうしようもない絶対強者たちの戦いが、今、本格的に火花を散らしたのだった。




