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エトピリカの鳴くところ ──樺太・豊原駅前観光案内所──  作者: 灰神楽ねこ


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28/28

後日談

鵞小門《がおと》岬には風が吹き荒れていた。

冬真《ふゆま》は車を降りるなり、セーターの上から着込んだジャンパーの襟を立てた。

「寒いな」

「八月なのにね。今日、十二度だって」

芽瑠萌《めるも》も車から降り、髪を抑えた。


駐車場には乗用車が三台停まっていた。少し離れたところに観光バスが一台あり、十人ほどの旅行者が岬へ続く遊歩道を歩いている。

二人もその後について歩き始めた。

周囲には背の高い木がほとんどなかった。低い草とハイマツが斜面を覆い、その間から灰色の岩が突き出している。遠くの丘は緑がかった褐色で、谷筋にはまだ雪が少し残っていた。


遊歩道を登りきると、突然、海が見えた。

切り立った崖の下に、暗い青色の水面が広がっていた。白い波が岩にぶつかり、砕けている。沖には小さな岩礁がいくつも突き出していた。

岬の先端には白い灯台が立ち、その手前に石造りの標柱がある。


《日本最北端 鵞小門岬》


冬真は標柱を見上げた。

「着いたな」

「うん」

芽瑠萌はスマートフォンを取り出した。

「写真撮ろうか」

「いいよ」

二人は標柱の横に並んだ。

近くにいた中年の女性が声をかけてきた。

「撮りましょうか?」

「ありがとうございます」

冬真はスマートフォンを渡した。

「はいはい、もうちょっと寄ってくださいね」

二人は肩を寄せた。


「新婚さん?」

芽瑠萌が笑った。

「はい。新婚旅行なんです」

「あら、おめでとうございます。こんな北まで」

「ありがとうございます」

女性は何枚か写真を撮ってくれた。スマートフォンを返してもらい、二人は礼を言った。


「ちゃんと撮れてる?」

冬真が聞いた。

「うん。でも冬真くん、髪がすごいことになってるよ」

「芽瑠萌もすごい」

芽瑠萌は笑いながら、写真を拡大した。

「これ、お母さんに送ろう」

「俺の方にも送っといて」

「うん」


冬真は岬の先を見た。

灯台の向こうには海しかなかった。


「ここが日本の一番北か」

「そうだね」

「豊原から、ずいぶん来たな」

「昨日もずっと走ってたもんね」

「奥端《おは》から先があんなに長いと思わなかった」

「うん」


二人は遊歩道の柵に近づいた。

崖の下では海鳥が何羽も飛んでいた。風に乗ってほとんど羽ばたかずに進み、ときどき急に高度を下げる。

遠くの海面には白い波頭が点々と見えた。


「向こうって、もう何もないのかな」

芽瑠萌が言った。

「海の向こうはロシアじゃないか」

「そうだけど。見えないね」

「遠いからな」

芽瑠萌は海を眺めた。

「高校のとき、日本の最北端って、いつか行ってみたいと思ってた」

「そうだっけ?」

「うん。観光案内所に地図があったでしょ」

「ああ」

「鵞小門岬の写真、載ってたんだよ」

「覚えてないな」

「冬真くん、あの頃は道路の方ばっかり見てたから」

「そんなことないだろ」

「あるよ」

芽瑠萌は笑った。


冬真はもう一度、標柱を見た。

「来れてよかった」

「うん」

二人は灯台の近くまで歩き、岬の反対側に広がる岩の海岸を眺めてから駐車場へ戻った。


車のドアを開けると、風が勢いよく入り込んだ。

「寒っ」

芽瑠萌が助手席に乗り込んだ。

冬真は運転席に座り、エンジンをかけた。

「戻ろうか」

「うん」

ナビには、北樺太の海岸線に沿って西へ向かう、長い道が表示されていた。


     *


岬を離れると、道路は低い丘陵の間を縫うように続いた。

舗装はされていたが、ところどころ補修の跡があり、車が継ぎ目を越えるたびに小さく揺れた。

道の両側には草原が広がっている。夏の草は濃い緑色で、湿った場所には黄色や紫色の小さな花が咲いていた。

遠くには、黒っぽい針葉樹の林が点在している。

「すごい景色だな。日本に見えない」

冬真が言った。

「うん。ずっと何もないね」

「電柱はあるけど」

「それはあるね」


しばらくすると、海側の丘の上に白い球形の施設が見えた。隣には細い通信塔が立ち、周囲を金網のフェンスが囲んでいる。

道路脇に標識があった。


《防衛省管理区域 関係者以外立入禁止》


「また自衛隊」

芽瑠萌が言った。

「さっきもあったな」

「北の方、ほんとに多いね」

「海峡が近いからな」


冬真は施設を横目に見た。

丘の斜面には、細い管理道路が延びていた。フェンスの内側に小さな建物が二棟あり、白い車両が停まっている。


「江口、こういうところにも行くのかな」

「どうだろう。陸自だもんね」

「そうだな」

「今、どこにいるんだっけ?」

「この前は旭川って言ってた」

「北海道?」

「うん。異動したらしい」

「そっか」

冬真は前方を見た。

「高校のときは、あいつの親父さんの仕事には全然興味なさそうだったのにな」

「お父さんは空自だけど、江口くんは陸自に入ったんだね」

「そう。本人は走るのが仕事に役立ってるって言ってた」

「そうなんだ」

「四百じゃなくて八百をやっていたのが、よかったらしい」

芽瑠萌が笑った。

「自衛隊に入ったら、たくさん走りそうだもんね」

「そうそう」


道は緩やかな下り坂に入り、海が近づいてきた。

低い崖の下には砂浜が続き、流木が何本も横たわっている。沖には漁船が二隻見えた。

しばらく走ると、また監視施設が現れた。

今度は海岸に近い小高い丘の上だった。灰色の建物と鉄塔があり、入口には警備員らしい人影が見えた。


「なんか、昔を思い出すな」

冬真が言った。

「何を?」

「小能登呂《このとろ》岬」

「ああ」

芽瑠萌が頷いた。

「入れなかったところ」

「そう。あのときも自衛隊の施設があった」

「懐かしいね」

「十年以上前だぞ」

「うん」

芽瑠萌は窓の外を見た。

「まだ付き合ってなかったもんね」

「そうだったな」

「冬真くん、あのとき結構落ち込んでたよね」

「せっかく行ったのに入れなかったからな」

「でも、二鷲崎に行けたじゃん」

「そうだな」

「あそこ、夕日きれいだったね」

「夕日見たのは二回目だろ」

「そうそう」

二人は笑った。


     *


昼を少し過ぎたころ、道路の先に建物が増え始めた。

最初に見えたのは、大きな石油タンクだった。

その向こうに住宅地が広がり、道路沿いには整備工場や倉庫、ガソリンスタンドが並んでいる。


久しぶりに信号が現れ、冬真は速度を落とした。

青い道路標識に地名が書かれていた。


《三号予定地》


「あ」


冬真が声を上げた。

「どうしたの?」

「三号予定地だ」

芽瑠萌が標識を見た。

「そうだね」

「覚えてる?」

「何を?」

「高校のときの夏祭り。北樺太のご当地アイドルが来てたじゃん」

「ああ、いたね」

「三号予定地から来たって言ってた」

芽瑠萌は少し考えた。

「そうだっけ」

「俺、変な地名だなって思ったんだよ」

「言われてみると、確かに変かもね」

冬真は周囲を見た。

「でも、結構栄えてるな」

「うん」


道路の右側には二階建ての商業施設があり、駐車場に車が何台も停まっていた。反対側には小学校らしい建物が見える。

少し先には、オレンジ色の看板があった。

「セコマもあるよ」

芽瑠萌が言った。

「あるな」

「寄っていこうよ」

「いいよ」

冬真はウインカーを出し、駐車場に入った。


店内には弁当やパン、飲み物が並んでいた。作業服姿の男性が二人、ホットシェフの棚を見ている。

二人はおにぎりと飲み物を買った。


外へ出ると、芽瑠萌が店の看板を見上げた。

「日本最北端のセイコーマートだったりして」

「もっと北にもあるんじゃないか?」

「あるかな」

「さあ」

冬真はスマートフォンで調べた。

「違うみたい」

「残念」

「何が残念なんだよ」

芽瑠萌は笑った。


駐車場の向こうには住宅が並び、子どもが二人、自転車で走っていた。

道路を大型トラックが通り過ぎた。


「普通に街なんだね」

芽瑠萌が言った。

「そうだな」

「三号予定地っていう名前なのに」

「名前だけ聞くと、何もなさそうだよな」

「うん」

二人は車に戻った。


     *


午後、道路は再び海岸沿いへ出た。


遠くに石油関連の施設が見えた。何本もの配管が並び、背の高い塔の上から白い蒸気が上がっている。

敷地の一角では増設工事が行われているらしく、大型クレーンが何基も立っていた。

道路沿いに工事車両の出入口があり、仮設事務所の壁には日揮の社名が掲げられていた。

ヘルメットをかぶった作業員が、ゲートの前でトラックを誘導している。


少し先で、大型トレーラーとすれ違った。

荷台には巨大な円筒形の機械が載せられ、何本ものベルトで固定されている。前後には誘導車がつき、ゆっくりと走っていた。

「でっかいな」

冬真が言った。

「何だろうね」

「圧縮機か何かかな」

トレーラーの後部には、三菱重工の社名が入ったシートが掛けられていた。


その先には、工場や倉庫が点在する地区があった。

道路脇の建物に『IHI 北樺太サービスセンター』という看板が見え、駐車場には作業車が何台も並んでいた。


やがて建物が途切れ、再び草原が広がった。海の向こうには低い雲がかかっている。


冬真はバックミラーに映る工場の方を見た。

「こっちにも結構あるな」

「何が?」

「設備。石油とかガスの」

「仕事で来ることある?」

「北の方はまだないな。南の工場なら何回か」

「そうなんだ」

「今の会社、設備の更新案件が多いから」

「お父さんと話が合いそう」

「この前も電気の話になったぞ」

「何の?」

「受変電設備の保護継電器」


芽瑠萌は少し黙った。

「……分かんない」


「俺も大学入る前は分かんなかった」

「お父さん、そういう話になると長いでしょ」

「長い」

冬真は笑った。

「でも、大学で工学やろうと思ったの、黒川のお父さんの影響もあるし」

「そうだったね」

「高校のとき、あの本棚見てさ」

「資格の本?」

「そう。電気とか設備の本がいっぱいあって」

「うん」

「それで、いろいろ話聞いてたら面白くなって」

芽瑠萌は窓の外を見た。

「お父さん、喜んでたよ」

「そうなの?」

「冬真くんが工学部に行くって決めたとき」

「へえ」

「うちに来たとき、ずっと話してたもん」

「あったな」

「私、途中でお茶淹れ直した」

冬真は笑った。

「そんなに話してたか」

「うん」


しばらくして、芽瑠萌が言った。

「東京、懐かしい?」

「たまには」

「そうなんだ」

「大学の友達もいるし。前の会社の同期もいるからな」

「うん」

「でも、戻ってきてよかったと思ってるよ」

芽瑠萌は冬真を見た。

「ほんと?」

「ほんと」

「そっか」

冬真は前を見た。

「東京、夏は暑いし」

「そこ?」

「いや、仕事もあるけど」

芽瑠萌が笑った。

「冬真くん、東京にいたとき、夏になると毎回暑いって言ってた」

「実際暑かったからな」

「私が遊びに行ったときも暑かった」

「箱根は涼しかっただろ」

「箱根はね」

芽瑠萌は少し考えた。

「あの温泉、よかったね」

「うん」

「また行きたいな」

「行こうか」

「うん」


窓の外には、広い草原が続いていた。

遠くに白い雲が浮かんでいる。

「菜月、今も札幌だっけ?」

芽瑠萌が言った。

「北海道にいるんだろ?」

「うん。札幌の大学で知り合った人と結婚したから。札幌に住んでるのか、引っ越したのか、忘れちゃったけど」

「ああ」

「この前、写真送ってきたよ」

「何の?」

「家族で小樽に行ったって」

「へえ」

「今度北海道行くとき、会いたいな」

「いいんじゃないか」


芽瑠萌はスマートフォンを取り出し、写真を探し始めた。

「ほら、これ」

信号待ちで停まったとき、冬真は画面を見た。

「おお」

「元気そうでしょ」

「うん」

「菜月、全然変わらないよね」

「そうか?」

「変わらないよ」

冬真は笑った。


「俺たちは変わった?」

「どうだろう」

芽瑠萌は冬真の顔を見た。

「冬真くん、ちょっと大人っぽくなった」

「二十七だぞ」

「うん」

「芽瑠萌もだろ」

「そうだね」

信号が青になった。

冬真は車を発進させた。


     *


倍狩《ばいかり》に着いたのは夜だった。

間宮海峡に面した街だった。

港には漁船や作業船が並び、岸壁の向こうに大きな貨物船が停泊している。街の中心には低い商業ビルがあり、港へ向かう道路にはトラックが行き交っていた。


翌朝早くホテルを出た二人は、港の近くを散歩していた。

「今日はどうする?」

冬真が聞いた。

「港、見てから南に戻ろうかと思ってたけど」

「うん」

芽瑠萌が立ち止まった。

「ねえ、あれ」

港の建物に大きな看板があった。


《国際高速船ターミナル》


その下には日本語とロシア語で航路案内が書かれている。


《倍狩―ニコラエフスク・ナ・アムーレ》


冬真は看板を見た。

「ロシア行き?」

「うん」

「ここから出てるんだ」

芽瑠萌は掲示板に近づいた。

「今日もあるみたい」

「何時?」

「十時半」

冬真は時計を見た。

「あと一時間ちょっとか」

「うん」

「ニコラエフスクって、どこだっけ」

芽瑠萌はスマートフォンの地図を開いた。

「アムール川の河口の近く。ここから海峡を渡って、川を上がるんだって」

「へえ」

「日帰りもできるみたい」


冬真は芽瑠萌を見た。

「行ってみる?」

芽瑠萌が顔を上げた。

「え?」

「せっかくだし。予定空いてるし」

「今日、今からロシアに?」

「うん」

芽瑠萌はもう一度、掲示板を見た。

「……行ってみたい」

「じゃあ、聞いてみようか」


二人はターミナルへ入った。

窓口で尋ねると、日本人向けの短期渡航特例があり、旅券があれば簡易手続きで当日往復できるという。


「パスポート、ある?」

冬真が聞いた。

「あるよ。念のために旅行の荷物に入れてる」

「俺も」

「持ってきてよかったね」

「使うと思ってなかったけど」


係員は二人の旅券を確認し、帰りの便の時刻を説明した。

「現地発は午後四時です。遅れないようにお願いします」

「分かりました」

二人は往復の乗船券を買った。


ターミナルの椅子に座ると、芽瑠萌が乗船券を見た。

「なんか、変な感じ」

「何が?」

「これから外国に行くんだって」

「そうだな」

「冬真くん、外国行ったことないよね」

「ない」

「私も」

「初めてがロシアか」

芽瑠萌は笑った。

「しかもニコラエフスク」

「どんな街なんだろうな」

「行けば分かるよ」

冬真は笑った。

「高校のときも、そんなこと言ってたな」

「そうだっけ?」

「多来加湖に行くとき」

「ああ」

芽瑠萌も笑った。


     *


高速船は双胴船だった。

白い船体に青い線が入り、側面には日本語とロシア語で船名が書かれている。

乗客は五十人ほどだった。

日本人の観光客らしい家族連れもいれば、ロシア語で話す人々もいる。作業服を着た男性も数人、書類の入った鞄を持って乗り込んでいた。


二人は窓側の席に座った。

出航すると、倍狩の港が少しずつ遠ざかっていった。

岸壁のクレーンが小さくなり、その向こうに低い丘が見える。丘の上には白いレーダードームが二つあった。

「ここにも自衛隊」

芽瑠萌が言った。

「ほんとだ」

「港のすぐそばなんだね」

「国境だからな」


船は速度を上げた。

窓の外で白い波が長く伸びていく。

しばらくすると、樺太の陸地が遠ざかり、周囲には灰色がかった青い海が広がった。

やがて進行方向に、低い陸地が見え始めた。


「ロシア?」

冬真が聞いた。

「うん。たぶん」

芽瑠萌は地図を見た。

「もうすぐアムール川の河口だね」


船は広い水域へ入った。

海と川の境目ははっきりしなかった。水の色が少し茶色くなり、岸には低い森と湿地が続いている。


「大きい川だな」

冬真が言った。

「アムール川だもん」

「日本にこんな川ないよな」

「ないと思う」


岸には小さな集落が見えた。木造の家が何軒か並び、船着き場に漁船が停まっている。

その先には、また長い森が続いた。


     *


ニコラエフスク・ナ・アムーレの港に着いたとき、空は晴れていた。

入国審査を終え、二人はターミナルの外へ出た。

「ロシアだ」

冬真が言った。

「うん」

芽瑠萌は周囲を見回した。


港の前には広い道路があり、古いバスが停まっていた。建物の壁にはロシア語の看板が並び、日本語の案内も少しだけある。

道路の舗装には継ぎ目や穴が目立った。

向こうには五階建てほどの集合住宅が並んでいる。外壁は薄い黄色や灰色で、窓の下に室外機が取り付けられていた。


「豊原とは全然違うね」

芽瑠萌が言った。

「そうだな」

「敷香よりも、ずっと小さい」

「うん」


二人は街の中心へ向かって歩き始めた。

歩道には背の低い街路樹が植えられていた。下の方には白い石灰が塗られている。

古い木造家屋の隣にコンクリート造りの商店があり、その向こうには荒れた空き地が広がり、隅の方にゴムタイヤが何本か転がっている。

店の前に置かれた商品ケースには、パンや菓子、飲み物が並んでいた。


「何か食べようか」

冬真が言った。

「うん」

芽瑠萌は近くの食堂の看板を読んだ。

「クヴァス、ピロシキ、ペリメニ……名前だけなら外国に来た感じしないね」

「そういえば、最初の街歩きで入ったロシア料理の店、懐かしいな」

「ユジノサハリンスクだっけ」

「よく覚えてるな」

「初めて二人で歩いた日だもん」

芽瑠萌が笑った。


店に入ると、年配の女性が暇そうな様子でカウンターに立っていた。

芽瑠萌がロシア語で注文すると、女性は少し驚いたように顔を上げた。何かを尋ね、芽瑠萌が答え、短く言葉を交わす。


席に着いてから、冬真が聞いた。

「何話してたの?」

「どこから来たのって」

「うん」

「樺太からって言ったら、日本人なのにロシア語上手だねって」

「そりゃそうだろ」

「仕事で使ってますって言った」

「そうか」

芽瑠萌は笑った。

「でも、こっちの人の話し方、ちょっと違うね」

「そうなの?」

「うん。聞き慣れない言い回しもある」

「へえ」


料理が運ばれてきた。

ペリメニと黒パン、それに小さな器のスープだった。

冬真はペリメニを一つ食べた。

「うまいな」

「うん」

「敷香で食べたやつに似てるかも」

「似てるけど、ちょっと違う」

「どこが?」

「皮かな。こっちの方がもっと厚い気がする」

冬真はもう一つ食べた。

「分かんないな」

芽瑠萌はまた笑った。


     *


食事のあと、二人は街を歩いた。

川沿いの広場には古い記念碑があり、花が供えられていた。近くには小さな博物館があったが、今日は休館日だった。

広場の向こうにアムール川が広がっている。

対岸は遠かった。水面を小さな船が横切っていく。


「すごい川だな」

冬真が言った。

「うん」

「樺太の川とは全然違う」

「そうだね」


二人は川沿いを歩いた。

古い集合住宅の一階には食料品店があり、その隣には携帯電話の販売店があった。道路を渡ったところには薬局がある。

日本語の看板は港に近いところほど多く、少し離れるとほとんど見かけなくなった。


「こうやって歩くと、外国に来たって感じする」

冬真が言った。

「うん」

「芽瑠萌は言葉分かるからいいけど」

「全部分かるわけじゃないよ」

「でも、俺より全然いいだろ」

「それはそう」

芽瑠萌は笑った。


角を曲がると、小さな書店があった。ガラス窓に新刊のポスターが貼られている。

芽瑠萌が立ち止まった。

「本屋さんだ」

「入る?」

「うん。ちょっと見たい」


二人は店へ入った。

店内はそれほど広くなかった。

壁際に本棚が並び、中央には低い平台が二つある。小説、歴史書、旅行ガイド、児童書などが置かれていた。

芽瑠萌はロシア語の小説を眺め、冬真は写真集の棚へ向かった。樺太の風景を写した本が何冊かあった。


「芽瑠萌、これ」

「何?」

「樺太の写真集」

芽瑠萌が近づいた。

表紙には豊原の街並みが写っている。

「ほんとだ」

「ロシアから見た樺太か」

「面白そう」

二人はページをめくった。

真岡の港、大泊の街、豊原の高層ビル、北樺太の湿原。

見慣れた場所がロシア語で説明されている。

「これ、買っていこうかな」

冬真が言った。

「いいんじゃない?」

「記念になるし」

芽瑠萌は本を手に取った。

「じゃあ、私は何か小説でも見ようかな」

平台の方へ戻った。


しばらくして、芽瑠萌が声を上げた。

「あれ?」

冬真が振り返った。

「どうした?」

「この名前……」

芽瑠萌は一冊の本を手に取っていた。

黒っぽい表紙だった。夜の都市を背景に、男の後ろ姿が描かれている。


赤い角張った文字で、大きなロシア語の題名。

その下に、著者名があった。


Алексей Воронин


「アレクセイ・ヴォローニン?」

冬真が言った。

「うん」

「同じ名前?」

「でも、まさか」


芽瑠萌が本を裏返すと、裏表紙に著者の写真が載っていた。


短い明るい茶色の髪。

少し細い顔。

愛想のよさそうな笑顔。


冬真は目を丸くした。

「……え?」

芽瑠萌も写真を見た。

「……この人」

「ヴォローニンさんじゃん」

「そうだよね」

冬真は本を受け取って、写真をもう一度見た。

「間違いないだろ」

「うん」

「何で?」

芽瑠萌は表紙を見た。

「小説みたい」

「小説?」

「うん。スパイ小説」

冬真は本を見た。

「……スパイ?」

「そう書いてある」


芽瑠萌は裏表紙の紹介文を読み始めた。

しばらくして、顔を上げた。


「これ、樺太が舞台だって」

「え?」

「ロシアの諜報員が樺太に潜入して、豊原を目指す話」

冬真は本を見つめた。

「……豊原?」

「うん」

芽瑠萌はページを開いた。

目次を見て、少し笑った。

「真岡って書いてある」

「真岡?」

「うん。あと、川上」

「川上?」

冬真は芽瑠萌の顔を見た。

「……あの川上?」

「たぶん」

芽瑠萌はページをめくった。

「旭ヶ丘もある」

冬真はしばらく黙った。

「……まさか」


芽瑠萌が本文を読み始めた。

数行読んで、笑いをこらえるような顔になった。

「何?」

冬真が聞いた。

「ここ、双眼鏡で基地を見てる」

「え?」

「主人公が」

「……旭ヶ丘から?」

「うん」

冬真は本を覗き込んだ。

「ちょっと待ってくれ」

芽瑠萌はさらにページをめくった。

「川上の炭鉱跡も出てくる」

「マジか」

「山を越える道を探してるみたい」

冬真は額に手を当てた。

「……あいつ」

芽瑠萌は笑い始めた。

「冬真くん、これ」

「何?」

「真岡の貨物線も出てくる」

「……全部じゃん」

「うん」


冬真は本を受け取った。

ロシア語はほとんど読めなかったが、地名は見分けられた。

Тойохара。

Маока。

Каваками。

何度も見た場所の名前が、キリル文字で並んでいる。


「……小説の取材だったのか」

冬真が言った。

「そうみたい」

「富樫さん、旅行ルポライターだって言ってたよな」

「うん」

「小説家じゃん」

芽瑠萌は裏表紙を読んだ。

「何冊も書いてるみたい。旅行ルポの本もある。これは数年前に出た本で、すごく売れたって」

「ベストセラー?」

「うん。何か賞も取ってる」

冬真は平台を見た。

同じ本が何冊も積まれていた。

「有名人だったのか」

「そうみたい」


芽瑠萌は本の最後の方を開いた。

「あ、後書きがある」

「何て?」


「取材に協力してくれた人へのお礼」

芽瑠萌はページを追った。

「いろんな人の名前がある。大学の先生とか、資料館の人とか……」

途中で指が止まった。

「ナタリヤ先生」

冬真が顔を上げた。

「え?」

「ナタリヤ・セルゲーエヴナ・モロゾワ」

「ほんと?」

「うん。豊原のロシア語教師って書いてある」

冬真は笑った。

「やっぱり知り合いだったんだ」

「うん」


芽瑠萌はさらに読み進めた。

「……あ」

「今度は何?」

「豊原駅前観光案内所」

冬真は本を覗いた。

「俺たちの?」

「うん。取材協力のお礼」

「富樫さん?」

「名前はないけど、案内所って書いてある」

冬真は笑った。

「そりゃ、あれだけ聞きに来てたもんな」

「そうだね」

「俺たちの名前は?」

芽瑠萌はページを確認した。

「ないよ」

「ないか」

「うん」

冬真は肩をすくめた。

「まあ、そうだよな」

芽瑠萌は本を閉じた。

「でも、すごいね」

「何が?」

「十年前、あんなに怪しいと思ってた人が」

「うん」

「ほんとにスパイの話を書いてたんだね」

冬真は吹き出した。

「そりゃ怪しく見えるわけだ」

「うん」

二人はしばらく笑っていた。


冬真は平台に積まれた本を見た。

「これ、買っていこう」

「読める?」

「芽瑠萌が読めるだろ」

「私が読むの?」

「翻訳してくれよ」

「一冊全部?」

「無理?」

芽瑠萌は笑った。

「仕事になるよ」

「じゃあ、気になるところだけ」

「それならいいよ」

二人はヴォローニンの小説と樺太の写真集を持って、レジへ向かった。


     *


午後三時半、二人は港へ戻った。

帰りの高速船には、朝より少し多くの乗客がいた。

窓際の席に座ると、芽瑠萌が買った本を鞄から取り出した。

「まだ読むの?」

冬真が聞いた。

「ちょっとだけ」

「好きだな」

「だって面白いんだもん」

芽瑠萌はページをめくった。

「ここ、携帯電話が圏外になる場所を探してる」

「川上?」

「うん」

冬真は笑った。

「俺たち、あそこにも行ったな」

「行ったね」

「炭鉱跡」

「米軍基地を偵察する話も出てくる」

「最後に見た日か」

「そうそう」

芽瑠萌は本を閉じた。

「ヴォローニンさん、今どうしてるんだろうね」

「さあ」

「また樺太に来てるのかな」

「来てそうだな」

「うん」

冬真は窓の外を見た。

港の岸壁がゆっくり動き始めていた。


「でも、あの人がスパイじゃなくてよかったな」

「そうだね」

「……本当にスパイじゃないんだよな?」

芽瑠萌は冬真を見た。

「知らないよ」

二人は笑った。


船は港を離れ、アムール川を下り始めた。

広い水面には午後の光が差していた。

岸辺の森がゆっくりと後ろへ流れていく。


     *


川を下りきるころには、太陽が低くなっていた。

船は広い河口を抜け、海峡へ出た。

窓の外には、灰色がかった青い海が広がっている。遠くの空には薄い雲があり、その下に夕日の光が差していた。

芽瑠萌は本を鞄にしまった。

「もうすぐ樺太かな」

「まだ少しかかるだろ」

「そうだね」

二人は窓の外を眺めた。


しばらくして、水平線の上に低い陸影が見え始めた。


「見えた」

芽瑠萌が言った。

「うん」


樺太だった。

最初は灰色の細い線にしか見えなかったが、近づくにつれて低い丘の形が分かるようになった。

海面には白い波が立っている。船の側面を流れる水が、夕日の光を受けてきらきらと光った。


そのとき、窓の外から低い声が聞こえた。

冬真は顔を上げた。

「……ん?」

芽瑠萌も窓を見た。


もう一度、声がした。


鳥の声だった。

低く、少し鼻にかかったような、妙な響きがある。


「あ」


芽瑠萌が言った。

「エトピリカ?」

冬真は窓に顔を近づけた。


少し離れた海面に、黒っぽい鳥が浮かんでいた。

大きな橙色の嘴。

目の後ろから伸びる、淡い黄色の飾り羽。


鳥は首を上げた。そして、長く鳴いた。


「……ほんとだ」

冬真が言った。

「うん」

「十年前も見たよね」

「多来加湖で」

「うん」

「雪が降ってきた日だろ」

「そうそう」


エトピリカは海面を漂い、少し羽ばたいた。

また、長い声が響いた。


「……やっぱり変な声だな」

冬真が言った。

「うん」

芽瑠萌が笑う。

琥珀の髪飾りが夕日を受けて光った。

船はそのまま、樺太へ向かって進んでいった。

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