選んだ道
その日、加工場の仕事を終えたグリフは、いつものように集会所へ向かった。
夕方の光が、壁に貼られた紙をオレンジ色に染めている。
人影が一つ、壁の前にあった。
近づくと、それがファジャルだとわかった。
「おう」
振り返らずに声が飛んでくる。
「グリフ」
「やあ」
グリフも自然に応じる。
「見に来てくれたんですね」
ファジャルは鼻で笑った。
「見に来るさ」
ゆっくり振り返る。
「お前、また妙なこと始めたな」
目は笑っていない。
「よく次から次へと思いつくもんだ」
軽口のようでいて、どこか探るような響きがあった。
グリフは肩をすくめた。
「そうですかね」
少し笑う。
「自分では、正面からやってるつもりなんですけど」
「正面、ねえ……」
ファジャルは壁の紙に視線を戻した。
しばらく黙って読み続ける。
そしてぽつりと言った。
「……これが正面かどうかはわからん」
一歩下がって全体を眺める。
「ただ――普通じゃないな」
グリフは少し身構えた。
だが、ファジャルの口調は続く。
「少なくとも、俺が知ってるやり方じゃない」
「ダメですか?」
グリフはあえてストレートに聞いた。
ファジャルは即答しなかった。
しばらく考え、ゆっくり首を振る。
「いや、ダメじゃない」
そして、少し口元を緩めた。
「むしろ面白い」
グリフはわずかに息を抜いた。
だが次の言葉で、空気が少し締まる。
「ただな」
ファジャルは視線を戻す。
「戸惑ってるやつもいる」
「戸惑い……ですか」
「ああ」
指で紙の一つを軽く叩く。
「今まで、こんな決め方したことねえからな」
港の方をちらりと見る。
「港を作ったときも、場所も方式も全部決まってた」
「俺はガキだったがな」
肩をすくめる。
「役人が来て設計して、村長がハンコ押して終わりだ」
「……」
グリフは黙って聞いた。
「今回は違う」
ファジャルは言う。
「みんなに聞く。意見を出させる。考えさせる」
少し笑う。
「いいことではあるんだろうけどな」
「はい」
グリフはうなずいた。
「今はそういう時代ですし」
「時代、か」
ファジャルは小さく繰り返した。
そのまま紙を見続ける。
そして、ふと声を上げた。
「お、これいいな」
「え?」
グリフも覗き込む。
そこにはこう書かれていた。
「新作物優先でいい!
冷凍施設に電力がこなくて魚が腐るなら、その魚をみんなで分けて食う!」
一瞬、2人とも黙る。
そして同時に笑った。
「これ好きだわ」
ファジャルが言う。
「誰だこれ書いたの」
「書いてません」
グリフは首を振る。
「誰が言ったかは重要じゃないと思って」
「ふーん……」
ファジャルは少しだけ考えた顔をした。
「まあ、いい」
そして振り返る。
「で、いつまでやるつもりだ、これ」
「まだ決めてません」
グリフは正直に答えた。
「積極的な人はここに来てくれるんですけど……」
少し言葉を選ぶ。
「控えめな人の意見も拾いたい」
ファジャルは黙って聞いている。
「来週からトニーさんにここに入ってもらいます」
「ほう」
「子どもたちの勉強にもなるってことで、学校の一部として」
ファジャルは軽く笑った。
「トニーさんか」
「それはいいな」
少しうなずく。
「中立だし、話しやすい」
そしてグリフを見る。
「で、お前はまた外を回るのか」
「はい」
迷いはなかった。
ファジャルは小さく息を吐く。
「好きだな、そういうの」
そして一歩近づく。
「だがな」
声のトーンが変わる。
「集めるのはいい」
壁を指す。
「でも、結論はどうする」
グリフも真剣な顔になる。
「広がるだけだろ、このままだと」
少しの沈黙。
グリフは答えた。
「最終的にはまとめます」
「どうやって」
「5つくらいに絞ります」
ファジャルの目が細くなる。
「その中から投票で」
一瞬、空気が張った。
「投票か」
ファジャルは低く言う。
「それなら漁民有利だな」
はっきりした言い方だった。
「冷凍施設に決まるぞ」
グリフは一歩も引かなかった。
「そうとも限りません」
「ほう?」
「漁民でも、新作物に理解を示す人は多いです」
ファジャルの眉がわずかに動く。
「冷凍施設で得をするのは一部だ、という意見もあります」
「……」
ファジャルは無言で紙を見た。
やがて口を開く。
「それは誤解だ」
はっきりとした声だった。
「俺はな」
一歩前に出る。
「冷凍施設で出た利益の大半は、村の共有に回すつもりだ」
グリフは一瞬だけ驚いた。
だがすぐにうなずく。
「それは……重要な情報ですね」
「書くか?」
ファジャルが試すように言う。
「書きます」
即答だった。
2人の視線がぶつかる。
一拍。
ファジャルが苦笑した。
「言質取られたな」
「そんなつもりじゃ」
「いいさ」
軽く手を振る。
「ただし全部じゃないぞ」
「もちろん」
グリフも笑う。
「バランスが大事ですから」
「そうだ」
ファジャルはうなずいた。
「バランスだ」
そして、ふと口調を変える。
「……とにかくだ」
少しだけ柔らかくなる。
「世話かけるな」
一瞬の間。
「よろしく頼むよ――次期族長」
グリフは肩をすくめた。
「なれるかどうかはわかりませんよ」
少しだけ皮肉を混ぜる。
「これからは村長の時代かもしれませんし、僕の国籍は日本なので資格がありません」
ファジャルは笑った。
「じゃあ国籍を変えろ」
軽く言う。
「この国の人間と結婚でもすりゃいいだろ」
「簡単に言いますね」
「まあいい」
ファジャルは背を向ける。
「俺もこの島の人間だ」
振り返らずに言う。
「手伝えることがあれば言え」
グリフは静かに答えた。
「はい」
ファジャルはそのまま集会所を出ていった。
夕方の光が少し弱くなっている。
グリフは壁に向き直った。
新しい意見を書くスペースを探す。
紙はもうかなり埋まっていた。
(……悪くない)
心の中でそう思う。
まだ答えは遠い。
だが――流れは、確かにできている。
グリフはペンを取り、新しい欄を作り始めた。
それから2か月後、決選投票の日が来た。
島民の意見は、ほぼ出尽くしていた。集会所の壁に貼られた紙は何度も張り替えられ、意見は増え、分かれ、似たもの同士でまとめられ、ようやく投票できる形になった。
冷凍施設も、新作物栽培も、細かい工夫をすれば必要な電力量は減らせる。
だが、暑さと乾きが重なり、魚も多く獲れた日には、結局どちらかを優先するしかない。
そこは変わらなかった。
グリフとトニーは3つの案をまとめた。
さらに、20名以上の賛同者を集めれば別案も投票対象にすると決めた。期限は1週間。
結果、島民から2つの案が出た。
1回目の投票では、どの案も過半数を取れなかった。
そして上位2案で、決選投票が行われた。
一つは、グリフとトニーの案だった。
冷凍施設と新作物の双方で節電の工夫をする。
ピークが重なった場合は冷凍施設を優先する。
その代わり、冷凍施設から得た利益の半分を村の共有財産にする。
新作物については畑を3つに分け、最優先の畑だけは確実にポンプで水を供給する。残りはリスクを負うが、全滅は避ける。
グリフは、この案がいちばん妥当だと思っていた。
派手さはない。
だが、現実的だ。
しかし選ばれたのは、島民から出た案だった。
電力は冷凍施設を優先する。
ただし、冷凍施設で得た利益の8割を村の共有財産に提供する。
その共有財産で発電設備が増設された後は、提供割合を4割に下げる。
新作物栽培は、安定的に電力が供給されるまで待つ。
その間、新作物に使う予定だった人手や資金は、養殖振興、小型船の支援、漁の手伝いなど、冷凍施設を最大限活用するための施策に回す。
結果が読み上げられたとき、集会所には大きなざわめきが起きた。
反発というより、何かが決まったことへの安堵に近かった。
グリフは拍手の音を聞きながら、少しだけ黙っていた。
自分の案が負けた。
その事実は、思ったよりも胸に残った。
***
投票後、トニーと2人になったとき、グリフはなるべく軽い調子で言った。
「トニーさん、負けちゃいましたね」
言ってから、少し笑った。
「島民案は、ちょっと極端かなと思ったんですけど」
トニーは壁に残された投票結果を眺めながら答えた。
「ああ、確かに極端だ」
「でも、中途半端に両方に配慮するより、漁業優先ならそこに全力を傾けて、電力不足という根本原因を解決しようというほうが、わかりやすかったんだろう」
「『民衆は常にわかりやすさを好む』ってやつですか」
「ほう」
トニーが少し笑った。
「それは誰か偉人の言葉かな」
「いえ」
グリフは少し目をそらした。
「日本のマンガかアニメで聞いたんだと思います」
「……」
トニーは何も言わなかった。
「これ、農民は納得するんですかね」
グリフが続けた。
トニーは少しだけ考える。
「どうだろうな。ただ、この案の賛同者の中にローサの名前があった」
「え」
グリフは顔を上げた。
「そうなんですか」
「賛同者の名前までは見てなかったかもしれません」
「名簿の付け合わせは私の担当だったからね」
トニーは穏やかに言った。
「それは仕方ない」
グリフは少し黙った。
ローサ。
新作物栽培の象徴のようになっていた少女。
そのローサが、冷凍施設優先案に賛同していた。
「ローサが中心的にまとめたとすると……」
グリフはゆっくり言った。
「あいつ、若者への影響力がありますからね」
「ああ」
トニーは頷いた。
「学校でも、リーダー的な存在だった」
「新作物の一番の推進者が、冷凍施設優先案を推している。農民側も騒ぎにくいだろう」
グリフは少しだけ唇を噛んだ。
「僕たちの案を出してから、1週間空けたのがいけなかったんですかね」
「その間に、いろいろ動けますから」
トニーはグリフを見た。
「私たちの案を勝たせることが目的なら、そうだったかもしれない」
静かな声だった。
「だが、それはフェアではないな」
「いや……」
グリフはすぐに言った。
「勝ち負けというより」
一瞬、言葉を探す。
「案そのものより、誰が言ったかという『人』が判断基準になったんじゃないかと思って」
「その側面はある」
トニーはあっさり認めた。
「人間が投票する以上、それは消せない」
「そうですね」
グリフは笑おうとした。
「でも、みんなで決められてよかったです」
少し間を置く。
「ゲリラのときは、自分の判断で罠を撤去してしまったから」
トニーは何度目かのように言った。
「それは結果論だ」
「ゲリラが来ない可能性も十分にあった。その場合は、君の判断が正解だった」
グリフはすぐには答えなかった。
やがて、ぽつりと言う。
「オランジャック島にゲリラ施設が移るように工作しようって言ったの、覚えていますか」
「ああ」
トニーは静かに答えた。
「覚えている」
「結局、そうなりましたね」
「それも偶然だ」
「工作がなくても、あの島はゲリラに目を付けられる理由が十分にあった」
「かもしれません」
グリフは視線を落とした。
「でも、とにかくオランジャックにゲリラの施設が移った」
「だから、あの脱走兵たちが反対側のルンザットに来た」
トニーの声が少し低くなる。
「……何が言いたい」
「いえ」
グリフは首を振った。
「特に何か言いたいわけじゃないんです」
そして、少しだけ笑った。
「日本には、『人を呪わば穴二つ』という言葉があります」
トニーは一瞬、眉を上げた。
「それもアニメかマンガか?」
「違います、違います」
グリフは少し慌てた。
「これは昔からある、ちゃんとしたことわざです」
「そのうち、それを使ったアニメもできるかもしれませんが」
「どういう意味なんだ」
「昔、誰かを呪い殺そうとすると、その呪いが返ってくることもある。だから、相手の墓穴と自分の墓穴、二つ用意しておけという意味です」
グリフは少しだけ遠くを見る。
「人を害そうとすれば、自分も同じ目に遭うかもしれない。だからやめておけ、という戒めですね」
トニーはしばらく黙っていた。
グリフは続けた。
「僕が何かやろうとすると、姑息になるんですかね」
「うまくいかない」
トニーは少し考えた。
「姑息というより、策を弄しすぎるところはあるかもしれないな」
その声に責める響きはなかった。
「私も政府にいたときはいろいろやった。うまくいった策もあった」
そして苦笑する。
「だが今振り返ると、それが本当に国のためだったかはわからない」
「考えすぎなのかもしれませんね」
グリフが言う。
「もっと単純に見てもいいのかもしれない」
「互いに、頭が良すぎるのかもな」
トニーは軽く笑った。
「ほどほどにしておこう」
そのとき、校庭のほうから子どもたちに呼ばれた。
トニーは手を振り、そちらへ向かった。
グリフは1人、集会所の前に残った。
決まった。
島民が選んだ。
それは喜ぶべきことのはずだった。
だが、胸の奥に残ったものは、素直な安堵だけではなかった。
***
翌日、グリフはローサを訪ねた。
新作物の苗が並ぶ畑の端で、ローサは何かを書きつけていた。
以前よりも、その姿が板について見える。
「こんにちは、ローサ」
グリフはできるだけ明るく声をかけた。
「なんだか久しぶりだね」
ローサは顔を上げ、少し目を細めた。
「昨日も見かけたわよ」
そして、すぐに続ける。
「まあ、話はしなかったけどね」
グリフは苦笑した。
「そうだったかな」
「なんか雰囲気違うけど」
ローサは遠慮なく言った。
「変なものでも食べた?」
「いや」
グリフは笑った。
だが、その笑いは少し硬かった。
「昨日の投票があってから、いろいろ考えてたんだ」
「ふうん」
ローサは警戒するように見た。
「ローサも立派だなと思って」
「は?」
「昨日の案」
グリフは言葉を選びながら続ける。
「あれ、ローサが中心になってまとめたのか?」
ローサは答えない。
「賛同者の中に名前があった。新作物を実際に仕切っている君が、率先して冷凍施設を優先する案に賛同する」
少しだけ笑う。
「それなら、誰も文句は言えない」
ローサは黙っている。
グリフは続けた。
「本当は悔しいんだろうけど、島のために我慢してくれたんだろ」
そして、頭を下げた。
「ありがとう」
ローサはしばらく何も言わなかった。
風が、苗の葉を小さく揺らす。
やがて、ローサが口を開いた。
「……別に、我慢なんかしてない」
グリフは顔を上げた。
「え?」
「私があの案に賛同した理由は、別」
「別?」
「私は」
ローサは少しだけ視線を海へ向けた。
「漁に出たかったの」
グリフは一瞬、言葉を失った。
(そういえば……こいつ、そんなこと言ってたな)
ローサは淡々と続ける。
「こんなことでもなきゃ、農民の私が漁に出られないでしょ」
少し笑う。
「一度やってみたかったんだよね」
そして、あっけらかんと言った。
「で、2、3年したら、また新作物の続きができるんでしょ」
「超ラッキーじゃん」
グリフはしばらく無言だった。
自分が勝手に作った「島のために我慢した少女」の像が、あっさり崩れていく。
ローサは書いていた紙を畳み、腰を上げた。
「あ、グリフ、ごめん」
「今日ちょっと忙しいんだ」
「ホテルでまたスリングショットのショー始めるんだって。その打ち合わせに行かないと」
そして、軽く手を振る。
「また時間あるときに、ゆっくり話しましょう」
ローサは走っていった。
グリフは、その背中をしばらく見ていた。
自分よりずっと軽やかに見えた。
***
その夜。
グリフはディオと酒を飲んだ。
外は静かだった。
虫の声と、遠くの波の音が聞こえる。
「そうか」
ディオはグラスを揺らしながら言った。
「ローサは漁がしたかったのかあ」
「どうやらそうらしい」
グリフは苦笑した。
「照れてごまかしてる感じじゃなかった。本気でそう思ってる」
「大物だな」
ディオが笑った。
「ああ」
グリフは頷いた。
「本当に大物だと思う」
少し酒を飲む。
「将来、あいつが村長やるかもしれない」
ディオは眉を上げた。
「ほう」
「人望もある」
グリフは続ける。
「なんか、あいつの周りに人が集まるんだ」
言葉が少し速くなる。
「もし村長になったら、この島初の女性村長だ。国の中でも珍しいだろうし、ニュースにもなる。観光にもいいかもしれない」
ディオはじっとグリフを見た。
「うん?」
「お前が次期村長だろ」
少し笑う。
「その次ってことか?」
グリフはグラスを見つめた。
「……俺は、そういうの向いてない気がする」
「なんとなく」
そう言って、グラスを飲み干した。
そして、少し間を置いた。
「実は」
「そろそろ日本に帰ろうかと思ってる」
ディオの手が止まった。
「え」
いつもの軽さが、一瞬消えた。
「日本に行くのか」
「ずっとここにいると思ってた」
「もちろん日本にも行くだろうが……こっちの生活、気に入ってると思ってた」
「気に入ってるよ」
グリフはすぐに言った。
「この島は好きだ」
「じゃあ、俺のあとの族長はどうする」
ディオの声は静かだった。
グリフは少し笑う。
「親父が最後の族長でいいじゃないか」
「もしくは、血縁じゃなくてもいい」
「うちが族長になったのだって、5代くらい前からだろ」
ディオは黙って聞いていた。
やがて、軽く息を吐いた。
「ふーん」
そして、いつもの調子に少しだけ戻る。
「まあ、いいや」
「今はそういう気分なんだろう」
グリフは何も言わない。
ディオは続けた。
「少しゆっくり考えろ」
「……そうだな」
「そうするよ」
グリフは立ち上がった。
グラスを台所に下げる。
背中を向けたまま、少しだけ立ち止まった。
だが、何も言わずに部屋へ戻っていった。
ディオはその背中を見送った。
そして、ひとり残された部屋で、小さくつぶやいた。
「……面倒くさいところまで、俺に似なくていいんだがな」
酒を一口飲む。
グリフの言葉のどこまでが本気で、どこまでが一時の逃げなのか。
ディオには、まだ判断できなかった。
***
1週間後、グリフは、港から海を見ていた。
―― 日本に戻ろう
そう決めていた。
朝の光を受けたルンザットの海は、いつもと変わらず青かった。
この島で起きた出来事も、流した血も、交わした言葉も、まるで最初から海の底に沈んでいたもののように、静かにそこにあるだけだった。
ディオは、何も言わず隣に立っていた。
ローサは、漁船の上で誰かに怒鳴っている。
ファジャルの笑い声が港に響き、ヘルマンの宿には新しい客が入っていた。
島は、もう次の日常を始めていた。
グリフは、その日常の中に自分の居場所があることを知っていた。
だが同時に、そこに留まり続けることが、自分の答えではないことも感じていた。
「行ってくるよ」
そう言うと、ディオは軽く笑った。
「帰ってくる場所くらいは、残しておいてやる」
船が港を離れる。
ルンザット島が、少しずつ遠ざかっていく。
グリフは、最後まで島を見ていた。
やがて島影が水平線に溶けるころ、彼の胸に浮かんだのは、日本の山の色だった。
海ではなく、深い緑の山。
雪を抱く冬の空。
そして、まだ顔も知らない人々の声だった。
その決断が前へ進むための挑戦なのか、ルンザットからの逃避なのか。
グリフには、まだ分からなかった。
自分が選んだ道が正しかったのかは、たぶんずっと先にならなければ分からない。それでも、立ち止まったままではいられない。人は、正しいから道を選ぶのではないのかもしれない。正しいかどうか分からないまま、それでも一つを選び、その責任を引き受けてゆく。グリフには、それがまだ少し怖かった。




