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嵐の前触れ

本作はフィクションです。実在の国・地域・歴史的事件を題材に含みますが、登場人物・団体・制度の多くは架空です。

 2001年9月11日。アメリカ・ニューヨークの空に、2機の旅客機が炎をまとって突き刺さった。

 テレビ画面の中で、世界の秩序が音を立てて崩れ落ちていく。あの日を境に、「テロ」という言葉が世界中の日常に入り込み、イスラムを名乗る武装組織が注目されるようになった。

 アフガニスタンでは米軍が攻撃を開始した。アジアのイスラム人口の多い国々でも、「ゲリラ」という言葉が現実味を帯びて使われ始めた。

 各地で小規模な爆破事件や襲撃が相次いだ。それまで宗教や政治の話題を避けて暮らしてきた人々の間にも、目に見えない緊張が広がっていった。

 インドネシアも、その例外ではなかった。

 東南アジア最大のイスラム人口を抱え、多様な民族が数多くの島々に暮らす国である。地方に根を張った宗教運動の一部は、次第に武装化していった。

 やがて、「イスラム聖戦」を掲げるゲリラ組織も現れた。

 とくにスラウェシ島以東の島々では、貧困と政治的無関心が入り交じっていた。政府の目も届きにくく、ゲリラが身を潜めるには都合のよい環境があった。

 そして翌年、2002年10月12日。

 観光地の繁華街で2度の爆発が起き、202人が死亡した。

 犯行を実行したのは、「ジェマー・イスラミア」と呼ばれる過激派組織だった。その背後には、国際的なイスラム過激派組織の影があると報じられた。

 事件を機に、インドネシア政府は態度を一変させた。軍と警察を動員し、国内のイスラム過激派に対する摘発を一斉に強化したのである。

 地方の村や島では、武装組織への関与を疑われた人物が次々と拘束された。かつて信仰や自治を理由に一定の距離を保たれていた共同体も、政府の監視下に置かれていった。

 日本でも、この事件は大きく報じられた。

 事件が起きたのは、日本人観光客にも身近なリゾート地だった。テレビや新聞は連日のように炎上する現場映像を流し、テロへの恐怖を伝えた。

 その一方で、島々で暮らす人々の現実や、貧困が過激思想を育てた背景にまで目を向ける報道は少なかった。

 遠く離れた日本では、東南アジアの無数の島々が、政治と暴力の狭間で揺れていることを知る者は、ほとんどいなかった。


***


2003年1月

 森の小道を歩くたび、足もとに溜まった湿気が靴底にまとわりつく。昼下がりの陽はまだ高いはずなのに、鬱蒼とした葉が光を遮り、道は昼なお暗かった。

 潮の匂いに混じる土の湿り気が、なぜか今日は重く胸に沈む。

 ――アリ、と名乗った男。

 どこから来たのか。なぜ自分たちの島へやって来たのか。

 説明は筋が通っているようで、肝心なところが靄に包まれていた。言葉の端々に滲む緊張。ときおり目を伏せる仕草。

 信用していいのか。それとも、何かの罠なのか。

 父のディオに伝えなければならない。

 そう思うと、自然に歩みが速くなった。それでも父の顔を思い浮かべると、ほんの少しだけ肩の力が抜ける。

「グリフ、難しい顔をするとシワが増えるぞ。オレみたいにな」

 そんな軽口を平気で言う男だった。深刻な話でさえ、冗談めかして受け流すことがある。

 ……けれど、この件ばかりは笑い飛ばせないだろう。

 グリフは足を止め、森の奥を見据えた。

 葉擦れの音が、やけに大きく耳に残る。

 ただの風なのか。それとも――誰かがこちらを窺っているのか。

「……嫌な予感しかしないな」

 吐き出した声は、森の影にあっけなく吸い込まれていった。

 アリが島に現れたのは、つい数時間前のことだった。

 小さな木造の漁船を1人で操り、港へ入ってきた。船には網が積まれていた。

 船着き場にいた島民に声をかけ、自分はホジャン島から来たと名乗った。そして、この島の長に用があるとだけ告げたという。

 島民は怪訝な顔をしながらもディオの家へ知らせを送り、アリを漁師たちのたまり場へ案内した。

 父は自分では会わず、グリフを差し向けた。

 直接会うこともできたはずだが、まずグリフを通して話を聞き、相手がどんな人物なのか見極めようとしたのだろう。

 最近では、こうした役目を任されることも増えていた。

 薄暗いたまり場で向かい合ったアリは、このあたりの島民には珍しく、静かで口数の少ない男だった。

 聞かれたことにだけ短く答える。余計なことは話さず、こちらを探るような素振りも見せない。

 ただ、与えられた役目を果たしに来た。

 そんな印象だった。

 焚き火の赤い光に顔を照らされながら、アリは声を低めた。

「……俺の島には、ゲリラの訓練所がある。多くの住民は嫌々ながら協力させられている。だが最近は、政府の捜査が厳しくなった。見つかれば、根こそぎ潰される」

 グリフは黙ったまま聞いていた。

 炎の揺らめきが、アリの瞳に影を落としている。

「だから、やつらは考えた。別の島にも拠点を作ることだ。遠すぎても近すぎても駄目らしい。条件に合う島は5つか6つ。その中に……ここも入っている」

 グリフの拳が、無意識に膝の上で固く握られた。

「俺は、ただ伝えるように言われて来た。……周りの島にまで迷惑を広げたくはない。せめて知らせておけば、何かしら備えられるだろうと思った」

 グリフは深く息を吐いた。

「……そうか。知らせてくれたことは感謝する。危険を冒してまで、ここに来たんだろう」

 アリは小さくうなずいた。

 グリフは立ち上がり、火の明かりの向こうに広がる暗がりへ目を向けた。

「このことは父に伝える。島の長としてどう動くかは、父が決めることだ。……あんたは、ここで待っていてくれ」

 アリは表情を変えずに答えた。

「わかった」

 焚き火が、ぱちりと音を立てた。

 その音だけが、2人の間に残った沈黙を埋めていた。


***


 ディオは仕事部屋で息子の帰りを待っていた。

 この島ではまだ部族社会が残っていた。ディオは長であり、その父も長だった。

 こんな俺でも家族をもってみれば、親として息子のことが気になる。


*


 ――俺は部族の長を継ぐ気なんて、これっぽっちもなかった。

 漁師の家に生まれ、家業を継ぐのは兄だと決まっていた。俺はその陰で、自由気ままに生きるつもりだった。

 女を追いかけ、冗談を飛ばし、仲間と笑って過ごす。勉強もそれなりにできて、日本企業に勤めるくらいの頭はあった。

 二十六で日本に渡り、二十七で結婚して、翌年には息子が生まれた。

 ――直人、いや、グリフ。

 だが、1992年。兄が事故で死んだ。

 娘しか残らず、急遽俺が長の座に押し上げられた。

 さらに7年後、漁で左足を失った。落水してスクリューに巻き込まれたのだ。

 笑い飛ばさなければ、やっていけなかった。

 その頃から、グリフが島に来ることが増えた。

 ルンザット島に根を下ろした俺を、あいつなりに支えようとしたのだろう。

 ……そのグリフが今、戸口に立っている。

 表情は固く、冗談の余地がない。


*


「おいおい、グリフ。そんな怖い顔してたら、島の女たちに嫌われるぞ」

 軽く茶化してみせたが、返ってきたのは重たい沈黙だった。

 グリフは短く息を吐き、言った。

「父さん。……ルンザット島が狙われてるかもしれない」

「狙われてる?」

 俺は片眉を上げてみせる。

「海の神様に? それとも島の娘たちに?」

「違う。ホジャン島から来た男と話してきた。アリと名乗った。漁師だと言っていたが……そこで聞いた話だ」

 俺は腕を組み、椅子にもたれた。

 息子の言葉を待つ。

「ホジャン島にはゲリラの訓練所があるらしい。住民の多くは逆らえずに協力している。だが最近、政府の監視が厳しくなって、一度に潰される危険が出てきた」

 グリフは一度言葉を切った。

「だから、別の島に拠点を作ることにした……候補の一つが、このルンザット島だ」

 部屋の空気が、一気に冷えた気がした。

「半日かけて漁船で来たと言っていた。……命令で伝えに来ただけだと。けれど、アリ自身は『迷惑を広げたくないから知らせに来た』とも言っていた」

 俺は口元を緩め、短く笑った。

「へえ。正直なやつだな。嫌いじゃない」

「父さん、笑いごとじゃない」

 グリフの声は低く硬い。

 俺は笑みを消し、目を細めて息子を見た。

 ――こいつがこんな顔をしているとき、冗談ばかりでは済まされない。

「わかった。ホジャン島からの知らせ……重く受け止めよう」

 グリフの肩がわずかに緩んだのを見て、俺も小さくうなずいた。

 だが、ルンザット島に迫る嵐は、まだ始まったばかりだ。


***


 ――ホジャン島。グリフの話を聞き終えた俺の頭の中で、その名前がぐるぐる回っていた。漁船で半日、近すぎず遠すぎず。奴らにとって都合のいい距離だ。

 厄介なことになった。だが、座して待つわけにはいかない。島の長として、まずは話を聞く。

 アリを呼び、詳しいことを確かめてから、島の主だった者たちを集める必要がある。

「グリフ」

「はい」

「アリをここに連れて来い。もう少し詳しく話を聞く」

「わかった」

 息子が部屋を出ていく音を聞きながら、俺は深く椅子に腰を下ろした。今夜、誰を呼ぶべきかを考える。

 ルンザット島の人口は1000人ほど。漁師が7割、農を営む者が3割。暮らしの大半は海に依存しているが、畑を治める者の声を無視するわけにはいかない。農業のまとめ役――アンダルは外せない。

 漁師の側からは、俺と同じくらい影響力を持つ2人、「ファジャル」と「ヘルマン」。両者とも大きな船を持ち、数十人規模の部下を率いている。ヘルマンは宿屋も営み、観光客相手の顔もある。島を動かす現実的な力を握っているのは彼らだ。

 そして、学校の校長トニー。首都から2年前に赴任してきた男だ。政府筋の情報を持っている可能性は高い。

 ――よし。これで顔ぶれは決まった。

 俺は部下を呼び、命じる。

「今夜、集会所に皆を集めろ」

 部下はうなずきかけ、すぐに問い返してきた。

「理由を尋ねられたら、何と答えましょう?」

 本当のことを言えるはずがない。下手に広まれば、島全体が混乱する。

「……政府から徴税の役人が来月あたり来ると聞いた。そう伝えろ」

 俺の言葉に部下は一礼し、足早に部屋を出ていった。

 残された部屋に静けさが戻る。だが、胸の内は波立っていた。

 夜の集会が、ルンザット島の行く末を左右することになる――そう直感していた。


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