30話 静かな校舎
放課後の校舎は、昼間とはまるで違う空気をまとっていた。
教室から聞こえていた賑やかな声はすでに消え、廊下にはまばらな足音だけが残っている。
部活動へ向かう生徒や帰宅する生徒。
窓から差し込む夕方の光が、床の上に長い影を落としていた。
───3階の廊下。
春菜は、教室の扉を閉めながら、小さく息をついた。
「やっと終わったぁ……」
手には教科書とノート。机の中を整理して、ようやく帰るところだった。
クラスメイトの工藤が振り返る。
「春菜、今日一緒に帰る?」
春菜は少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめん、今日は先帰るね」
「オッケー」
工藤は、軽く手を振り、部活の仲間のところへ走っていった。
教室の中は、もうほとんど空だ。春菜は、鞄を肩に掛け、窓の外を見る。
グラウンドでは、サッカー部が練習している。そして、体育館からはバスケットボールの音。
どこにでもある、普通の放課後だった。
だが、春菜はふと廊下を見る。少しだけ寂しい。
「龍二くん……今日も来てないな」
龍二は、今日は学校を休んでいる。
警察庁の仕事。詳しい内容は、聞いていない。
春菜は小さく肩をすくめた。
「きっと、忙しいんだろうな」
そう呟き、教室を出て、廊下を歩く。
窓の外の夕焼けが赤く広がっていた。
その頃……同じ校舎の1階。非常階段の扉が静かに開いた。
音はほとんどない。現れたのは、龍二だった。
制服姿。だが、その下には、薄型の防弾ベスト。肩のホルスターには拳銃。完全な実戦装備だった。
龍二は、階段の陰に立ち、廊下の様子を確認する。
誰もいない。そして、ゆっくりと歩き出す。今日は、授業に出ていない。
公安の仕事のためだ。だが、放課後だけは別だった。
春菜の警護……それが最優先任務だからだ。
龍二は、ポケットから小型イヤーピースを取り出し、耳に装着する。
そして小さく呟く。
「こちら大黒」
数秒後、通信が入る。
『こちら監視班』
龍二は歩きながら聞く。
「周囲は?」
『異常なし』
短い返答に、龍二は頷く。
「了解」
通信を切る。廊下を曲がり、階段へ向かう。
その時、校門前の道路。
黒い車の中で、双眼鏡を持つ男が校舎を見ていた。
昨日と同じ男だ。
“ノクティス”の工作員。通信機に向かって、小さく話す。
「対象はまだ校内」
向こうの声を聞く。
『例の公安の男は?』
男は答える。
「確認できていない」
だが次の瞬間、男の視界の端に、校舎の窓を横切る影が見えた。
背の高い男。落ち着いた動き。男は双眼鏡を構え直す。
そして小さく笑った。
「いや……いたな」
通信機に呟く。
「大黒龍二」
3階の廊下。春菜は、階段へ向かって歩いていた。
廊下には、ほとんど人がいない。遠くから部活の声が聞こえるだけ。
その時、階段の角から誰かが現れた。
春菜は足を止める。
「あれ?」
見慣れた顔。少し驚いた声が出た。
「龍二くん?」
龍二は階段から出てきて、春菜を見る。
「春菜」
春菜は目を丸くする。
「え、今日学校休んでたよね?」
龍二は、落ち着いた声で答えた。
「ああ」
春菜は首を傾げる。
「じゃあなんで?」
龍二は、少しだけ間を置いて言った。
「単なる迎えだ」
春菜は、一瞬きょとんとする。それから嬉しそうに笑った。
「ほんと?」
龍二は頷く。
「ほら、帰るぞ」
春菜は小さく笑う。
「なんかさ」
鞄を持ち直す。
「こういうの、秘密の待ち合わせみたい」
龍二は軽く肩をすくめた。
「そうかもな」
2人は並んで歩き出す。
階段を下りる。夕方の校舎は静かだった。
その時、龍二の視線が一瞬だけ鋭くなる。
階段の踊り場の窓の外。
道路に停まっている、わずかに見える車のシルエット。
龍二はすぐ視線を戻した。
春菜は、気付いていない。普通に話をしている。
「今日ね、英語の先生がさ───」
龍二は聞きながら歩く。だが、頭の中では状況を整理していた。
───監視。
昨日と同じ。
“ノクティス”の工作員。龍二は、イヤーピースを軽く押す。
春菜に聞こえないほどの小さな声で言った。
「こちら大黒」
すぐ返事が来る。
『こちら監視班』
龍二は短く言う。
「至急、校門前の黒い車を確認しろ」
数秒後。通信の向こうが答えた。
『確認の件完了』
間が空く。そして声が変わる。
『……“ノクティス”の監視車両の可能性あり』
龍二の表情は変わらない。春菜は、隣で楽しそうに話している。まるで、何も知らない世界の中にいるようだった。
龍二は階段を下りきる。
校舎の出口が見える。夕焼けが強くなっていた。
龍二は心の中で静かに呟く。
もう始まっている。外では、敵が監視している。
だが、それでも春菜には、まだ何も知らせない。それが龍二の役目だった。
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