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潜入警部と忘れない少女  作者: 青山春彦
第3章 記憶少女の警護編
26/33

26話 薬指の約束

 夜は、ゆっくりと更けていった。

 夕食の皿を洗い終えたあと、部屋の中には穏やかな静けさが戻っていた。

 キッチンから聞こえていた水の音も止み、リビングには、柔らかな照明だけが残っている。

 龍二は、ソファに腰掛け、書類の入った薄い封筒を眺めていた。

 警察庁から持ち帰ったものではない。ただのメモの束だ。

 だが、視線はほとんどそこに向いていない。

 ふと、右手が動く。その視線の先は、自分の薬指だった。

 小さな銀色の輪……婚約指輪だ。そして2日前のことを思い出す。

 休日の午後。人混みのショッピングモールのアクセサリーショップの前で、春菜はショーケースを外から見ていた。だが、店内に入ろうとはしない。

 遠慮しているのは、見ればすぐ分かった。そのまま数分。龍二は、何も言わず、店の扉を押した。

 春菜は、驚いた顔をしていたが、止める前に龍二はもう店の中にいた。

 その数分後。店員の差し出した小さな箱を受け取った。それが今、指にある指輪だった。

 龍二は、小さく息を吐く。するとその時、廊下から足音が近づいた。

 振り向くと、春菜がタオルで髪を拭きながら出てくる。

 風呂上がりらしく、頬が少し赤い。


「ふぅ……」


 ソファの背にもたれ、隣に座る。


「お風呂気持ちよかった」


 龍二は軽く頷いた。


「そうか」


 春菜はタオルを肩に掛けたまま、ふと龍二の手を見る。

 そして小さく笑った。


「龍二くん」

「なんだ?」

「また見てるね」


 龍二は、少しだけ眉を動かす。春菜は、龍二の右手をそっと持ち上げた。

 薬指の指輪が光る。


「婚約指輪」


 嬉しそうな声だった。

 龍二は短く答える。


「ああ」


 春菜は自分の左手を掲げる。同じ指輪が、そこにもある。


「まだ慣れないなぁ」


 指を軽く動かしながら言う。


「つい見ちゃう」


 龍二は、少し考えてから言った。


「俺もだよ」


 春菜はくすっと笑った。


「龍二くんでもそうなんだ」

「ああ」


 龍二は否定しない。むしろ正直に言う。


「正直、実感が追いついていない」


 春菜は首を傾げる。


「どういう意味?」


 龍二は、言葉を探すように少し黙る。


「仕事柄、こういうものを持つ未来は想定していなかった」


 それは、静かな声だった。春菜は、その言葉を聞いて、少しだけ真面目な顔になる。


「……そっか」


 龍二の仕事……危険な現場や銃撃戦。そして潜入捜査など……。

 普通の生活とは、遠い場所にある世界。

 春菜はゆっくり言った。


「でもさ」


 龍二を見る。


「今はあるよ」


 指輪を軽く持ち上げる。


「ここに」


 龍二は、春菜の手を見る。指先の金属が、照明を受けて静かに光っていた。

 春菜は、少し恥ずかしそうに笑う。


「二日前さ、龍二くん、急にお店入ったでしょ」


 龍二は頷く。


「ああ」


 春菜は、思い出して肩をすくめる。


「私ほんとびっくりしたんだから。まさか買うなんて思わないじゃん」


 龍二は静かに答えた。


「必要だと思ったからな」


 春菜は目を丸くする。


「必要?」


 龍二は続ける。


「言葉だけでは不十分だ」


 春菜は、瞬きをする。龍二の声は落ち着いていた。


「形にするべきだと思った」


 春菜はしばらく何も言えなかった。そして、ふっと笑う。


「ほんと真面目だね」


 龍二は否定しない。

 春菜は、ソファに少し寄りかかった。そして、肩が軽く触れる。


「でもさ」


 龍二を見る。


「嬉しかったよ」


 小さな声だった。


「すごく」


 龍二は、何も言わない。

 ただ、隣にいる春菜の存在を感じていた。

 部屋の外では夜風が吹いている。

 遠くで車の音・静かな住宅街。

 春菜は、指輪をもう一度見つめる。そして、ぽつりと言った。


「婚約ってさ」


 龍二が聞く。


「なんだ?」


 春菜は少し考える。


「将来、結婚するっていう、約束の意味なんだよね」


 龍二は頷いた。


「そうだな」


 春菜は、ゆっくり言う。


「じゃあさ」


 龍二を見る。


「龍二くん」

「なんだ?」


春菜は笑った。


「約束ね」


 龍二は、短く答えた。


「ああ」


 その返事は、とても静かだった。だが、迷いはなかった。

 そして、その2人の指先には、同じ光があった。

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