26話 薬指の約束
夜は、ゆっくりと更けていった。
夕食の皿を洗い終えたあと、部屋の中には穏やかな静けさが戻っていた。
キッチンから聞こえていた水の音も止み、リビングには、柔らかな照明だけが残っている。
龍二は、ソファに腰掛け、書類の入った薄い封筒を眺めていた。
警察庁から持ち帰ったものではない。ただのメモの束だ。
だが、視線はほとんどそこに向いていない。
ふと、右手が動く。その視線の先は、自分の薬指だった。
小さな銀色の輪……婚約指輪だ。そして2日前のことを思い出す。
休日の午後。人混みのショッピングモールのアクセサリーショップの前で、春菜はショーケースを外から見ていた。だが、店内に入ろうとはしない。
遠慮しているのは、見ればすぐ分かった。そのまま数分。龍二は、何も言わず、店の扉を押した。
春菜は、驚いた顔をしていたが、止める前に龍二はもう店の中にいた。
その数分後。店員の差し出した小さな箱を受け取った。それが今、指にある指輪だった。
龍二は、小さく息を吐く。するとその時、廊下から足音が近づいた。
振り向くと、春菜がタオルで髪を拭きながら出てくる。
風呂上がりらしく、頬が少し赤い。
「ふぅ……」
ソファの背にもたれ、隣に座る。
「お風呂気持ちよかった」
龍二は軽く頷いた。
「そうか」
春菜はタオルを肩に掛けたまま、ふと龍二の手を見る。
そして小さく笑った。
「龍二くん」
「なんだ?」
「また見てるね」
龍二は、少しだけ眉を動かす。春菜は、龍二の右手をそっと持ち上げた。
薬指の指輪が光る。
「婚約指輪」
嬉しそうな声だった。
龍二は短く答える。
「ああ」
春菜は自分の左手を掲げる。同じ指輪が、そこにもある。
「まだ慣れないなぁ」
指を軽く動かしながら言う。
「つい見ちゃう」
龍二は、少し考えてから言った。
「俺もだよ」
春菜はくすっと笑った。
「龍二くんでもそうなんだ」
「ああ」
龍二は否定しない。むしろ正直に言う。
「正直、実感が追いついていない」
春菜は首を傾げる。
「どういう意味?」
龍二は、言葉を探すように少し黙る。
「仕事柄、こういうものを持つ未来は想定していなかった」
それは、静かな声だった。春菜は、その言葉を聞いて、少しだけ真面目な顔になる。
「……そっか」
龍二の仕事……危険な現場や銃撃戦。そして潜入捜査など……。
普通の生活とは、遠い場所にある世界。
春菜はゆっくり言った。
「でもさ」
龍二を見る。
「今はあるよ」
指輪を軽く持ち上げる。
「ここに」
龍二は、春菜の手を見る。指先の金属が、照明を受けて静かに光っていた。
春菜は、少し恥ずかしそうに笑う。
「二日前さ、龍二くん、急にお店入ったでしょ」
龍二は頷く。
「ああ」
春菜は、思い出して肩をすくめる。
「私ほんとびっくりしたんだから。まさか買うなんて思わないじゃん」
龍二は静かに答えた。
「必要だと思ったからな」
春菜は目を丸くする。
「必要?」
龍二は続ける。
「言葉だけでは不十分だ」
春菜は、瞬きをする。龍二の声は落ち着いていた。
「形にするべきだと思った」
春菜はしばらく何も言えなかった。そして、ふっと笑う。
「ほんと真面目だね」
龍二は否定しない。
春菜は、ソファに少し寄りかかった。そして、肩が軽く触れる。
「でもさ」
龍二を見る。
「嬉しかったよ」
小さな声だった。
「すごく」
龍二は、何も言わない。
ただ、隣にいる春菜の存在を感じていた。
部屋の外では夜風が吹いている。
遠くで車の音・静かな住宅街。
春菜は、指輪をもう一度見つめる。そして、ぽつりと言った。
「婚約ってさ」
龍二が聞く。
「なんだ?」
春菜は少し考える。
「将来、結婚するっていう、約束の意味なんだよね」
龍二は頷いた。
「そうだな」
春菜は、ゆっくり言う。
「じゃあさ」
龍二を見る。
「龍二くん」
「なんだ?」
春菜は笑った。
「約束ね」
龍二は、短く答えた。
「ああ」
その返事は、とても静かだった。だが、迷いはなかった。
そして、その2人の指先には、同じ光があった。
『良かった』『続きが気になる』などと思っていただけたなら、評価やブックマークをしてくださると、とても嬉しいです。これからもよろしくお願いします。




