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潜入警部と忘れない少女  作者: 青山春彦
第3章 記憶少女の警護編
25/33

25話 帰る場所

 夜の霞が関は、昼間とはまるで別の街だった。

 官庁の窓明かりがぽつぽつと残るだけで、通りの人影は少ない。警察庁の地下駐車場へ続くスロープを、1台の黒い車が静かに上がっていった。

 龍二は、ハンドルを軽く切りながら地上へ出る。

 今日の仕事は終わったわけではない。情報はまだ曖昧だし、監視対象も動いている。

 それでも、とりあえず今夜は帰る。

 車は夜の街を抜け、住宅街へ入った。

 街灯が等間隔に並び、どの家も夕食の匂いが漂っていそうな時間だ。

 信号で停まり、龍二はふと左手を見る。

 薬指の婚約指輪。

 その小さく光る金属の指輪は、先日、ショッピングモールでつけたばかりのものだった。

 視線を戻し、車を再び走らせる。

 やがて見慣れたアパートが見えてきた。

 セーフハウスのひとつ。だが今は、単なる拠点というより───帰る場所、という言葉の方が近い。

 エンジンを切る。

 静かな夜だった。

 龍二は車を降り、アパートの外階段を上がる。廊下の灯りは弱く、足音だけが響く。

 玄関の前で、一瞬だけ立ち止まり、ポケットから鍵を取り出した。

 ドアを開ける。

 すると、すぐに声が飛んできた。


「おかえりなさい」


 キッチンの方から、春菜が顔を出す。

 そして次の瞬間、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。


「ねぇ、龍二くん」


 龍二が靴を脱ぎながら顔を上げる。そして春菜は、わざとゆっくり言葉を区切った。


「ご飯にする?」


 少し首を傾ける。


「お風呂にする?」


 そして最後。

 指を自分に向け、小さく笑った。


「それとも……わ・た・し?」


 玄関の空気が、妙に止まった。

 龍二はそのまま動かない。靴を脱ぐ手も、途中で止まったままだ。

 春菜はしばらく待つ。だが、反応がない。


「……龍二くん?」


 龍二は、数秒遅れてようやく口を開いた。


「……春菜」

「うん?」

「何だそれは……」


 龍二の表情は真顔だった。

 春菜は、一瞬きょとんとしたあと、顔を赤くする。


「あ、いや……」


 視線をそらす。


「その……」


 龍二は、靴を揃えながらもう一度聞いた。


「理由を聞いてもいいかな?」


 春菜は、耳まで赤くなり、指先でカーディガンの裾をいじる。


「その……こういうの、一回やってみたかっただけ」


 小さな声だった。


「ほら!漫画とかドラマとかでよくあるじゃん」


 少しだけ笑う。


「憧れっていうことか?」


 龍二は黙って聞いていた。そして、春菜はさらに言う。


「それで、その……」


 顔を伏せる。


「帰ってきた恋人に言ってみたくて……」


 部屋の空気がゆっくり動き出す。

 龍二は、玄関からリビングへ入った。

 テーブルの上を見る。そこには、湯気の立つ皿が並んでいる。

 味噌汁の香りに焼き魚。そして、簡単なサラダ。

 派手ではないが、丁寧に作ったのが分かる夕食だった。

 春菜がキッチンから様子をうかがう。


「……もしかして怒ってる?」


 龍二は、首を横に振った。


「いいや、怒っていないよ」


 少し間を置いてから言う。


「ただ」


 春菜が恐る恐る聞く。


「ただ?」


 龍二は椅子を引きながら答えた。


「少し予想外だっただけだよ」


 春菜は吹き出しそうになる。


「龍二くんって、ほんとそういうの弱いよね」


 龍二は座りながら言った。


「慣れていないだけだ」


 春菜は、笑いながら皿を運んでくる。


「はい、それじゃあご飯にしようか」


 皿をテーブルに置いていく。

 そして、龍二の向かいに座った。少しだけ照れた顔のまま。龍二は箸を手に取り、料理を見る。


「……うまそうだ」


 春菜の表情がぱっと明るくなる。


「ほんと?味は、そんなに保証できないけど」


 龍二は、一口食べた。少しだけ間を置き、頷く。


「うん、全然問題ないよ。むしろ美味しいくらいだよ」


 春菜は胸をなでおろす。


「よかった」


 しばらく2人は、静かに食べた。

 テレビもついていない。外の車の音が遠くで聞こえるだけ。

 それでも、不思議と落ち着く空気だった。

 食事の途中、春菜がふと思い出したように言う。


「ねぇ龍二くん」

「なんだ?」

「さっきの質問なんだけどね」

 

 龍二が顔を上げる。そして、春菜が少し笑う。


「ご飯は……今終わったから、次はお風呂?それとも私……どっちを選ぶ?」


 龍二は箸を置き、少し考える。そして、静かに答えた。


「それなら」


 春菜が身を乗り出す。


「うん?」


 龍二は言った。


「両方だ」


 春菜は一瞬固まり、それから顔を真っ赤にした。


「ば、ばか!」


 テーブル越しに小さく抗議する。

 龍二はわずかに笑った。その表情は、職場では絶対に見せないものだった。

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