25話 帰る場所
夜の霞が関は、昼間とはまるで別の街だった。
官庁の窓明かりがぽつぽつと残るだけで、通りの人影は少ない。警察庁の地下駐車場へ続くスロープを、1台の黒い車が静かに上がっていった。
龍二は、ハンドルを軽く切りながら地上へ出る。
今日の仕事は終わったわけではない。情報はまだ曖昧だし、監視対象も動いている。
それでも、とりあえず今夜は帰る。
車は夜の街を抜け、住宅街へ入った。
街灯が等間隔に並び、どの家も夕食の匂いが漂っていそうな時間だ。
信号で停まり、龍二はふと左手を見る。
薬指の婚約指輪。
その小さく光る金属の指輪は、先日、ショッピングモールでつけたばかりのものだった。
視線を戻し、車を再び走らせる。
やがて見慣れたアパートが見えてきた。
セーフハウスのひとつ。だが今は、単なる拠点というより───帰る場所、という言葉の方が近い。
エンジンを切る。
静かな夜だった。
龍二は車を降り、アパートの外階段を上がる。廊下の灯りは弱く、足音だけが響く。
玄関の前で、一瞬だけ立ち止まり、ポケットから鍵を取り出した。
ドアを開ける。
すると、すぐに声が飛んできた。
「おかえりなさい」
キッチンの方から、春菜が顔を出す。
そして次の瞬間、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「ねぇ、龍二くん」
龍二が靴を脱ぎながら顔を上げる。そして春菜は、わざとゆっくり言葉を区切った。
「ご飯にする?」
少し首を傾ける。
「お風呂にする?」
そして最後。
指を自分に向け、小さく笑った。
「それとも……わ・た・し?」
玄関の空気が、妙に止まった。
龍二はそのまま動かない。靴を脱ぐ手も、途中で止まったままだ。
春菜はしばらく待つ。だが、反応がない。
「……龍二くん?」
龍二は、数秒遅れてようやく口を開いた。
「……春菜」
「うん?」
「何だそれは……」
龍二の表情は真顔だった。
春菜は、一瞬きょとんとしたあと、顔を赤くする。
「あ、いや……」
視線をそらす。
「その……」
龍二は、靴を揃えながらもう一度聞いた。
「理由を聞いてもいいかな?」
春菜は、耳まで赤くなり、指先でカーディガンの裾をいじる。
「その……こういうの、一回やってみたかっただけ」
小さな声だった。
「ほら!漫画とかドラマとかでよくあるじゃん」
少しだけ笑う。
「憧れっていうことか?」
龍二は黙って聞いていた。そして、春菜はさらに言う。
「それで、その……」
顔を伏せる。
「帰ってきた恋人に言ってみたくて……」
部屋の空気がゆっくり動き出す。
龍二は、玄関からリビングへ入った。
テーブルの上を見る。そこには、湯気の立つ皿が並んでいる。
味噌汁の香りに焼き魚。そして、簡単なサラダ。
派手ではないが、丁寧に作ったのが分かる夕食だった。
春菜がキッチンから様子をうかがう。
「……もしかして怒ってる?」
龍二は、首を横に振った。
「いいや、怒っていないよ」
少し間を置いてから言う。
「ただ」
春菜が恐る恐る聞く。
「ただ?」
龍二は椅子を引きながら答えた。
「少し予想外だっただけだよ」
春菜は吹き出しそうになる。
「龍二くんって、ほんとそういうの弱いよね」
龍二は座りながら言った。
「慣れていないだけだ」
春菜は、笑いながら皿を運んでくる。
「はい、それじゃあご飯にしようか」
皿をテーブルに置いていく。
そして、龍二の向かいに座った。少しだけ照れた顔のまま。龍二は箸を手に取り、料理を見る。
「……うまそうだ」
春菜の表情がぱっと明るくなる。
「ほんと?味は、そんなに保証できないけど」
龍二は、一口食べた。少しだけ間を置き、頷く。
「うん、全然問題ないよ。むしろ美味しいくらいだよ」
春菜は胸をなでおろす。
「よかった」
しばらく2人は、静かに食べた。
テレビもついていない。外の車の音が遠くで聞こえるだけ。
それでも、不思議と落ち着く空気だった。
食事の途中、春菜がふと思い出したように言う。
「ねぇ龍二くん」
「なんだ?」
「さっきの質問なんだけどね」
龍二が顔を上げる。そして、春菜が少し笑う。
「ご飯は……今終わったから、次はお風呂?それとも私……どっちを選ぶ?」
龍二は箸を置き、少し考える。そして、静かに答えた。
「それなら」
春菜が身を乗り出す。
「うん?」
龍二は言った。
「両方だ」
春菜は一瞬固まり、それから顔を真っ赤にした。
「ば、ばか!」
テーブル越しに小さく抗議する。
龍二はわずかに笑った。その表情は、職場では絶対に見せないものだった。
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