24話 静かな戦場
朝の霞が関は、いつも通り忙しかった。官庁街を行き交う車の流れ。スーツ姿の職員たち。
その中を、1台の黒いセダンが静かに走っていく。
やがて車は警察庁の敷地へ入り、地下へと続くスロープを下りた。
コンクリートの広い空間。警察庁地下駐車場だ。
龍二は、指定スペースに車を停め、エンジンを切る。
腕時計を見る。
時刻は、午前8時12分と表示されていた。
車のドアを開けると、ひんやりした地下の空気が流れ込んできた。
ジャケットの裾を整える。その下には薄型の防弾ベスト。さらに、肩のホルスターには拳銃───H&K VP9。マガジンには装弾済み。そして、予備弾倉は、ジャケットの内ポケット。
完全に任務用の装備だった。
龍二は、車のロックを確認すると、エレベーターへ向かった。
───警察庁・警備局フロア。
朝の課内はすでに動き始めていた。
電話の声・キーボードの音・資料をめくる音。
警備企画課は、常に情報が流れ続ける部署だった。
龍二が席へ向かうと、若い刑事が振り向いた。
「おはようございます。係長」
龍二は、軽く頷く。
「ああ、おはよう」
デスクに座り、パソコンを立ち上げる。すぐに数件の報告書が画面に表示された。
全国の公安警察から集まる情報。海外の治安機関との共有データ。
不審人物の動向。
その中の1つに、龍二は目を止めた。
“ノクティス”関連情報。龍二は、その資料を開く。数日前の海外通信・資金移動の記録・匿名口座。そして、それらが日本国内で行われた可能性。
完全に消えたわけではない。むしろ水面下で動いている。
龍二は、小さく息を吐いた。
そしてその時だった。
「大黒警部」
振り向くと、部下の刑事が立っていた。三十代前半の男。
「例の件の資料です」
封筒を差し出す。
それを龍二は受け取る。その中には、写真が数枚入っていた。監視カメラの映像を切り出したもの。
駅構内・交差点。そして1人の男。帽子を深くかぶり、顔ははっきり見えない。だが、龍二の目は止まる。
「これはいつだ?」
「昨日です」
刑事が答える。
「港区のカメラに映りました」
龍二は、写真を見つめる。
「追跡は?」
「現在継続中です」
龍二は頷いた。
「そうか。分かった」
その時、課内の奥から声がした。
「大黒警部」
振り向くと、今野が立っていた。スーツ姿に鋭い目をしている警備企画課の課長補佐だ。
龍二は、席を立つ。
「お疲れ様です」
今野は言った。
「会議室へ」
短い指示だった。
───小さな会議室。
机の上には、数枚の資料。龍二と今野が向かい合って座っている。
今野は、一枚の写真を机に置いた。
「この男」
龍二は、視線を落とす。先程見た監視カメラの人物だった。
今野は言う。
「海外の情報機関からの連絡があったわ」
資料をめくる。
「その情報によると“ノクティス”の残存メンバーの可能性があるわ」
龍二は、静かに聞いていた。今野は続ける。
「もちろん。断定はできないわ。ただし無関係とも言えない」
龍二は言った。
「引き続き、監視を続けます」
今野は頷く。
「当然」
少し沈黙が流れる。今野は、ふと龍二を見る。
「ところで、鈴木春菜さんはどうしてる?」
龍二の表情は変わらない。
「警護継続中です」
今野は言う。
「今のところ動きはないわ。ただし」
視線を資料へ戻す。
「“ノクティス”が動いているなら話は別よ」
龍二は、短く答えた。
「もちろん、理解しています」
今野は、椅子にもたれた。
「あなたの任務は2つ」
指を立てる。
「1つは、情報収集」
そしてもう1つ。
「そしてもう1つが最も重要な任務である、鈴木春菜の警護」
龍二は言った。
「優先順位は分かっています」
今野は小さく笑った。
「でしょうね」
そして資料を閉じる。
「今日は、ここまで」
龍二も立ち上がる。
「失礼します」
会議室を出る。廊下は、静かだった。龍二は、歩きながら、スマートフォンを確認する。
画面には短いメッセージが表示される。
春菜:授業終わったよ
その下にもう1つ。
春菜:今日、早く帰れる?
龍二は少しだけ考えた。そして返信する。
龍二:夕方には戻る
数秒後、すぐに返信が来る。
春菜:うん。わかった
その短い言葉に、龍二はわずかに笑った。だが、次の瞬間、表情は元に戻る。
それは、仕事の顔だった。
廊下の窓から、霞が関の街が見える。
そのどこかに敵が潜んでいるかもしれない。そしてその中に守るべき存在もいることを思い出させた。
警備企画課室に戻ると、課内の空気はさらに忙しさを増していた。
電話が鳴り、数人の刑事が同時に会話している。大型モニターには、複数の地図と監視映像。龍二は、自分の席へと戻り、ジャケットのボタンを外した。
防弾ベストの重みが、わずかに肩へ伝わる。
椅子に腰掛けると、先ほどの資料をもう一度開いた。
監視カメラの画像に映る帽子の男。画質は荒いが、歩き方には特徴があった。龍二は、その画像を数秒間じっと見つめる。
その時だった。隣のデスクから声がする。
「大黒係長」
振り向くと、若い刑事が資料を持って立っていた。
「こちら、港区の続報です」
龍二は、その資料を受け取る。
新しい写真。それは同じ男だった。今度は、コンビニのカメラだった。時間は昨日の夜。
龍二は質問する。
「接触は?」
その刑事は、首を横に振る。
「残念ながら確認されていません。どうやら単独行動のようです」
龍二は小さく頷く。
「男については分かった。それでは引き続き、この男の追跡を継続しろ」
「はい」
刑事は、すぐに自分の席へ戻っていった。そして、龍二は再び画面を見る。
写真を拡大する。
男の腕。
ジャケットの膨らみがわずかに不自然だった。銃を隠し持っている可能性が高い。だが、断定はできない。
龍二は、とあるデータベースを開いた。海外機関から共有された人物リストだ。
顔認証や歩行パターンを解析する。
そして数分後、画面に解析結果の表示が出る。
───類似度 63%
龍二は、眉をわずかに動かす。完全一致ではない。だが、偶然とも言い切れない。その時、背後から声がした。
「何か見つかった?」
その言葉に振り向くと、そこには、今野が立っていた。龍二は、その解析結果の画面を見せる。
「一致率が約6割……」
今野は腕を組む。
「なんだか微妙ね」
「はい」
今野は、数秒画面を見つめる。そして言った。
「監視を強化するしかないわね。公安課の方にも共有して頂戴」
龍二はすぐに答える。
「承知しました」
今野は踵を返す。そして数歩、歩いたところで立ち止まり、振り向いた。
「それと」
龍二を見る。
「そういえば大黒って、今日は、このまま家に帰るのよね?」
龍二は短く答える。
「はい。そのつもりです」
今野は少しだけ笑った。
「仕事も大事だけど、あっちの任務も忘れないでよね」
龍二は静かに頷いた。
「承知しています」
今野は、そのまま自身のデスクの方へ歩いていった。
課内は、再び忙しさに包まれる。龍二は、椅子に深く座り直した。
そして、画面の男をもう一度見る。
何かが引っかかる。だが、まだ確証はない。
ふと時計を見る。時刻は、午後3時40分だった。春菜からメールが送られてからそろそろ1時間近くが経つ。
龍二は、パソコンを閉じ、机の引き出しから小さな通信機を取り出した。
イヤーピースを耳へ装着する。そして、低い声で言う。
「こちら大黒」
数秒後、通信が返る。
『こちら監視班。どうぞ』
龍二は、静かに指示を出す。
「港区の対象、追跡継続せよ。また、警戒レベルを一段階引き上げるものとする」
通信の向こうで短い返事。
『了解』
龍二は、通信を切った。そして、立ち上がる。
ジャケットを整え、肩のホルスターに触れ、拳銃の位置を確認する。
問題なし。これから|春菜との恋人としての時間《夕方の任務》が始まる。
警察庁の地下駐車場へ向かうため、龍二は、廊下を歩き出した。
そして数分後。
再び、あのコンクリートの空間へと戻る。
───地下駐車場。
龍二は、車のドアを開け、運転席に座り、エンジンをかける。
静かな振動が車内に広がった。
そして、春菜の待つ家へと帰るのだった。
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