第三章 証拠を出せ
教室に戻ると、まだ六分残っていた。
小森の上履きは誰かが拾って、机の上に揃えて置いてあった。持ち主のいない靴が、そこだけ廊下側を向いている。
後ろのほうで、男子が三人集まって声を張っていた。
「全員で同じ答案出せばいいんじゃね。全員同点なら、最下位なんかいないだろ」
「それだ。それでいこう」
「無理だ」
俺は自分の答案用紙を裏返して、名前欄の下を指で押さえた。細かい字の二行。
「同点最下位は全員死亡、って書いてある。全員同じ点なら、全員が最下位だ」
「……は?」
「全員で沈む。それだけだぞ」
三人が黙った。一人が紙を引ったくって、自分で読んだ。それから紙を机に落とした。
「じゃあ、どうすんだよ」
「知らね」
「知らねって、お前が言い出したんだろ」
「言い出したのはそっちだ」
「どっちでもいいから、誰か考えろよ」
「委員長は乗らないだろ」
「頼めばいいじゃん」
「頼んで聞く人だと思うか」
誰も答えなかった。
仮にその二行がなかったとしても、この話は成立しない。全員で白紙を出す約束をして、一人だけこっそり書けば、その一人以外が下に並ぶ。約束を破る側に立つ理由が、全員にある。
それに、教室の後ろにはもう一つ理由が座っていた。委員長は問題集を開いたまま、こっちの会話を聞いてもいない。あの人は約束の輪に入らない。入らないまま満点を取る。
俺は歩き出した。上履きの中で、砂粒が一つ土踏まずに当たる。朝からずっとそこにいる。
隣の空き教室のほうで、椅子の脚が床を擦る音がした。長く、一回だけ。
誰かが覗きに行くかと思ったが、誰も行かなかった。俺も行かなかった。
教壇の前で足を止める。何でもない顔で、視線だけ講卓の下へ落とす。
次の科目の答案用紙が、束になって置かれていた。表題は物理。
俺は周りを見て、携帯を出し、一枚だけシャッターを切った。
「水野、何してんの」
「何も」
通りかかった女子は、それ以上聞かずに行った。
席に戻って画面を開いた。選択は飛ばす。配点の大きい大問だけ、頭に叩き込む。二番、三番、五番。文字をなぞって、口の中で三回繰り返した。
時計を見る。残り二分。
十分だ。
俺は立ち上がって、教室の後ろへ歩いた。
委員長の机の上には、さっきの英語の答案が置きっぱなしになっていた。右上に赤い字がある。
【成績:百 順位:一】
「委員長」
「何。忙しいんだけど」
「物理、教えてほしい。委員長、うちのクラスで物理いちばんできるだろ」
委員長は顔を上げ、俺を上から下まで見た。それから足を組んで、シャーペンの尻で机を叩いた。
「言ってみて」
俺は覚えたばかりの大問を、順番に喋った。自分で言いながら意味は一つも分かっていない。
委員長は鼻で笑った。
「この程度なら公式を入れるだけでしょ。答えまで欲しいの?」
「欲しい」
「……そういうとこだよ、あんたの点数」
それでも彼女は指を折って、答えを並べはじめた。早口で、途中の説明はほとんどない。俺は必死で耳に貼りつけた。
「二番は二・五かける十の三乗。三番は張力のほうから立てる。四十八ニュートン。五番は温度差だけ拾えば出る」
「もう一回、二番」
「二・五かける十の三乗。単位はジュール」
「三番は」
「四十八ニュートン。張力から立てるの。立てられないなら丸ごと覚えて」
「覚える」
「そう言うと思った」
「委員長、物理は何点取る気だ」
「取る気とかじゃなくて、取るの」
「覚えた? これで落としたら、さすがに笑うから」
殴りたい手を後ろに回して、俺は笑ってみせた。顔の筋肉が言うことを聞いていたかどうかは分からない。
席に戻る途中でチャイムが鳴った。
*
榊原が入ってきた。湯呑みから湯気が上がっている。
廊下で重いものが落ちて、窓とドアがまた消えた。
「物理。時間は四十分」
答案用紙が配られる。俺は問題を見た。写真と同じ並びだ。
後ろで椅子が鳴った。
振り返ると、委員長が答案用紙を握ったまま立ち上がっていた。顔が赤い。赤くなる理由を、俺は一つしか思いつかなかった。
「先生。水野が不正をしました」
クラス中の顔がこっちを向いた。
「休憩時間に、この大問を私に聞いてきたんです。問題がそのまま同じです。講卓の答案を見たに決まってます」
頭皮が突っ張った。ペンを持つ手から力が抜けそうになる。
予想はしていた。予想していても、三十七人分の視線は重い。
ここで謝ったら終わりだ。俺が賭けたのは、さっき自分で見つけた一行だった。
「それだけで零点?」
俺は両手を広げた。
「見たなら、証拠を出せよ」
「見たに決まってるでしょ。同じなんだから」
「同じ問題を聞いたら不正なのか。じゃあ委員長も、いま俺と同じ問題を見てるけど」
「あんたと一緒にしないで」
榊原が顔を上げた。眼鏡の奥に、何の色もない。
「証拠は」
「……だから、同じ問題を」
「口頭の申告だけでは受理しない。解答を続けなさい」
委員長の口が開いて、閉じた。指が答案用紙の端を握り潰している。
「先生、これ」
「二度は言いません」
委員長は座った。座り際に、俺のほうへ低い声を落とした。
「覚えてなさいよ」
「水野、ほんとに見てないの」
「見てない」
「見てないって言うよな、普通」
前の席のやつは、それきり前を向いた。
俺は聞こえなかったふりをして、ペンを握り直した。
息が続かない。心臓は勝手に速い。
それでも、一行分の勝ちだ。証拠がなければ、この教室は動かない。
*
委員長の答えを、俺は配点の大きいほうから順に埋めていった。
四番の途中で、手が止まった。
式の形が見覚えのあるものに変わっている。両辺から同じものを引いて、残ったほうを入れ替える。そこまで考えてから、なぜ自分がそれを考えられたのか分からなくなった。
俺は物理で赤点しか取ったことがない。
もう一度見ると、式はただの記号の列に戻っていた。
「……気のせいだろ」
声に出して、先に進んだ。
チャイムが鳴る。赤い字が滲む。
【成績:七十六 順位:八】
自分の答案を二度見た。
七十六。八位。
この数字を自分の名前の横で見たのは、たぶん生まれて初めてだった。
「嘘だろ、水野が八位?」
「何かやったに決まってる」
小さい声だったが、俺の耳には届いた。届いたところで、否定する気にはならなかった。
委員長の答えは全部合っていたことになる。あの性格だ、間違えたら自分の看板に傷がつく。だから正確に答える。使えるところは、そこだけだ。
手のひらの汗をズボンで拭いて、俺は顔を上げた。
榊原は教壇で湯呑みを傾けている。
その角度を、俺は英語のあとにも見ている。底が見えたとき、この男は席を立った。十分だけ外へ出て、戻ってきたときには湯気が立っていた。
物理の前も同じだ。数学の前も、たぶん同じだった。
赤い字は榊原が書いているわけじゃない。紙が勝手に採点する。なら、あの男が教室にいなくても試験は回る。逆に、あの男が必ずやっていることが一つだけある。
茶を飲むことだ。
俺は講卓の上の湯呑みから、目を離さなかった。
採点の決まりと、あの湯呑み。この二つを調べる。




