第二章 五十二点の答案
背中が一面、冷たい。
何が起きたのか、順番に考えようとした。考える時間をチャイムがくれなかった。
「二科目め、英語。時間は二十分。出題は英文和訳。成績最下位の者は死亡します」
榊原は教壇の椅子に座ったまま、答案を集めるときの連絡と同じ調子でそれを言った。抑揚がない。答案用紙が前から回ってくる。
教室のあちこちで、息を吸う音がした。女子が二人、声を殺して泣いている。前の席のやつは両手で頭を抱えたまま動かない。
「先生、これ何なんですか。三田は。久瀬は」
後ろで男子が立ち上がった。
「解答を始めなさい」
「答えてくださいよ、先生」
「時間は二十分です。もう始まっています」
男子は座った。座る以外になかった。
俺は自分の紙を見る。
終わった、と思った。
英語は俺のいちばん下だ。先月の学年模試で、俺はこの科目だけ学年最下位だった。三十八人が普通に書けば、下に残るのは俺以外にいない。
「A……ノヴェル……小説がどうしたんだよ」
二語目で止まった。爪が太腿に食い込んでいるのが分かった。
「……二語目で詰むとかある?」
時計の針が半分まで来ていた。紙の上には何もない。
残り五分になって、俺はペンを置いた。ここまでだ、と自分に言った。最後に一局やってから死ぬのも悪くない。
袖から携帯を出そうとして、手が止まった。
――待て。
翻訳だ。
カメラを向ければ、この紙に印刷されているだけの英文なら、読めなくても和訳が出る。
顔を上げて周りを見た。全員が自分の紙に噛みついている。榊原は教壇で数学の答案束をめくっていた。
久瀬の顔が浮かんだ。
不正行為、零点。
もし同じ判定を食らえば、結局は最下位だ。
俺は二秒だけ迷って、指を動かした。どうせ白紙でも零点なんだから、賭けるほうに一票入れる。
画面に和訳が並んだ。俺は紙を拾い上げ、左手を太腿の上に置いたまま、右手で写しはじめた。
半分ほど埋まったところで、頭の上から声が降ってきた。
「何をしている」
顔を上げると、榊原が横に立っていた。
腕がどう動いたのかは、自分でもよく覚えていない。両手は机の上にあり、手のひらには何も載っていなかった。
「何も、してないです」
「手を出しなさい」
俺は両手を開いた。指の間まで見せた。
「机の中」
榊原は身を屈め、机の中を乱暴に探った。出てきたのは教科書と、乾ききったガムの包みだけだ。
「ブレザーを脱ぎなさい」
断る方法は思いつかなかった。立ち上がってファスナーを下ろし、片袖ずつ抜いて渡す。榊原は袖を裏返し、同じことを二度やった。裏地の縫い目まで指でなぞっている。
何も出なかった。
「上履きを見せなさい」
俺は片足ずつ上げて、底まで向けた。
榊原はしばらく俺を見ていた。俺は目を逸らさない。逸らしたら終わる気がした。
一秒、二秒。
五秒経って、榊原は背を向け、ブレザーを机の上に落として歩いていった。
握った拳が震えていた。シャツが背中に貼りついている。俺は椅子に落ちるように座った。
「……死ぬかと思った」
掠れて、自分の声に聞こえなかった。
*
チャイムが鳴った。
赤い字が滲み出てくる。
【成績:五十二 順位:二十五】
真ん中だ。生きている。
「うっそだろ」
声が出ていた。
表示の端に、細い文字がもう一行あった。
【記録:公開中】
前からあった気もするし、なかった気もする。俺はそれを見て、すぐ自分の点数のほうに目を戻した。
悲鳴が上がったのは、その直後だった。
小森結衣が席を立って、答案用紙を持ったまま教壇の前を走り抜ける。
「まだ終わってない。ここ、空いてるのに」
彼女はドアに手をかけ、体ごとぶつけた。ドアは鳴りもしない。
「開けて。廊下まででいいから、お願い」
榊原は教壇の椅子から動かなかった。見てはいた。
「誰か、こっちに来て。一人にしないで」
誰も立たなかった。
天井から縄が下りてきて、小森の首に回る。彼女の体が持ち上がり、上履きが片方だけ落ちた。足が二度、空を蹴る。しばらくして、音がしなくなった。
俺は机に目を落とした。落とした先にも赤い字がある。
――ルールが、一つ分かった。
俺は携帯で答えを写して、それでも零点にはならなかった。久瀬のほうは、紙を渡して零点だ。
つまり、この試験は不正そのものを見ているわけじゃない。榊原の手に渡る証拠だけを見ている。
「先生、次は何の科目ですか」
委員長が手を挙げていた。まっすぐに、授業で当てられるときと同じ角度で。
小森の上履きは、まだ床に転がっている。委員長はそっちを見ていない。
「……人が死んでんだけど」
口の中だけで言った。届いてはいない。
「物理」
榊原はそれだけ答えた。
「範囲は」
「模試の範囲です」
「分かりました」
委員長はうなずいて、鞄から問題集を出した。表紙に折り目が一つもついていない。
*
「先生、お手洗いに行きたいです」
後ろのほうで、細い声が上がった。顔が真っ赤になっている。
「……先生。お願いします」
「先生、聞こえてますよね」
「聞こえてますって」
二時間以上、誰も席を立っていない。俺のほうもとっくに限界だった。
榊原は答えなかった。講卓の下から次の束を持ち上げようとしている。
俺は立ち上がって、ベルトに手をかけた。
「何をしている」
「先生、俺も無理です。もう出ます。ここで出します」
榊原の動きが止まった。眼鏡の奥が一度だけ細くなる。教師の顔で嫌悪を出したのは、この日はじめてだった。
それから榊原は、机の上の湯呑みを見た。傾ける。底が見えている。
しばらく考えて、榊原は立ち上がった。
「十分間、休憩。そのあと続けます」
廊下で重いものが持ち上がる音がした。窓の外の光が戻ってくる。榊原は湯呑みを持って出ていった。
「行った」
「十分って言ったよな」
「言った」
ドアが開いた途端、教室が音で埋まった。泣き声、怒鳴り声、椅子の倒れる音。何人かは机に突っ伏し、何人かは走ってトイレへ向かった。
「なんなんだよあれ、なんなんだよ」
「警察は。警察呼べないのかよ」
「繋がんないって。さっき水野がやってた」
「水野、ほんとに繋がんなかったのか」
「同じことを三回言われた。同じ声で、同じ順番で」
「……それ、何」
「次は物理だろ。物理って誰が下だ」
「知らねえよ」
「相原たちじゃねえの。あいつら物理、赤点続きだし」
「聞こえてるぞ」
窓際で相原の片方が振り返った。もう片方が椅子を蹴る音がした。
「触るな、小森さんに触るなって」
「じゃあどうすんの。あそこに置いとくの」
「窓は。ここ三階だけど、カーテン繋げば」
「さっきドア叩いてた子、見てなかったのかよ」
「……見てた」
「じゃあ黙ってろ」
「黙ってどうすんだよ」
「次の科目まで、あと八分」
「……八分?」
俺は席を立ち、廊下を端まで歩いて確かめた。階段口は鉄の板みたいなもので塞がっている。窓の外は見えるのに、外へ出る道だけがない。
「出口だけないとか、雑な作りだな」
言ってみたが、聞いている人間はいなかった。
トイレは順番待ちになっている。列の誰も喋らなかった。
「大丈夫?」
「うん」
前の女子が後ろの女子にそれだけ言って、あとは黙っていた。
洗面台の前に立つ。水を出す。石けん受けの底に、白い滓が輪になって溜まっていた。指で押すと、すこし崩れる。
俺は手を洗い、蛇口を閉めて、水を切った。




