第一章 〇・五点
黒板消しの把手は、角のところだけ塗装が剥げていた。前の時間に誰かが力を入れて握ったんだろう。俺はそれを見ていた。教壇の榊原の声は、耳の横をそのまま通り過ぎていく。
「答案用紙を一枚取って、後ろへ回しなさい」
紙が回ってきた。インクの匂いがまだ残っている。名前欄の下に、読ませる気のない小さな字で注意事項が刷ってあった。
一、最下位は死亡とする。同点最下位は全員死亡とする。
二、生存枠一名の科目は、単独一位のみ生存とする。同点一位が生じた場合、生存者なし。
「先生、これ去年の使い回しですよね。去年もこれ書いてありましたよ」
誰かが笑いながら言った。榊原は答えない。湯呑みを持ち上げてひと口飲み、それから教室全体に向かって口を開いた。
「この模試から、最下位の者は死にます」
訂正も補足もない。榊原はそのまま出ていった。ドアが閉まってからしばらく、誰も何も言わない時間があった。
「はあ?」
隣で三田が机を蹴った。
「それ、俺らのどっちかを名指ししてるだけだろ。ほかにもいるだろ、呼び出す相手」
「手間が惜しいんだよ。二人まとめて呪えば一回で済む」
「呪いとか言うなよ。当たったらどうすんだ」
「当たったら三田が先だろ。お前、俺の上に来たことあるか」
「先月は俺が上。お前、英語で二点取っただろ」
言い返せなかったので、俺は携帯を出して『クラウンレイド』を開いた。画面の端の電池が赤くなっている。
「充電、貸して」
「貸すけど、昼には返せよ。俺のも半分しかないんだからさ」
三田は筆箱の底からケーブルを引っぱり出して、机の上を滑らせてきた。俺はそれを受け取り、机の横のフックに携帯をぶら下げた。
「お前、昨日もあと一回って言ってたぞ。俺は途中で寝たけど」
「寝たやつが言うな」
「一回寝たくらいで文句言うなよ」
「二回寝た」
窓の外でサッカー部が走りはじめていた。三田は俺の画面をのぞき込んで、次に呼び出されるのは俺とお前のどっちが先だと思う、と聞いてきた。
「順番なんかないだろ」
「順番がないって言いたいのか、あるって言いたいのか、どっちだよ」
「どっちでもいいけど、ケーブルは返す」
「昼な」
「昼な」
*
翌日、成績が廊下に貼り出された。
いちばん下が三田直樹。その一つ上が水野航、つまり俺だ。
差は〇・五点だった。
「はは。今回は俺が上だわ」
教室に戻って振り返ると、隣の席に鞄がなかった。椅子は机の下に入ったままで、昨日の形から動いていない。
「三田、どこ行った」
「知らない」
「今朝、見た?」
「見てない」
「委員長は? 委員長、三田見た?」
「知らないってば」
前の席のやつは顔を上げなかった。教室の後ろでは、委員長がもう次の科目の問題集を開いている。廊下に貼られた紙を見に行く人間のほとんどは、上の三行しか読まない。下の二行を読むのは、下の二行に名前がある人間だけだ。
ポケットの中で携帯が震えた。ニュースアプリの通知だった。
【今朝、汐見学園高校の裏手で男子生徒が倒れているのが見つかりました。刃物による傷が複数あり、警察は……】
写真は白黒で、それでも誰の顔かは分かった。
俺の鞄の中には、昨日借りたケーブルが入ったままだった。昼には返せと言われたやつだ。
*
「先生」
立ち上がったとき、椅子の倒れる音のほうが大きかった。自分の指先が震えているのが見えた。
「三田を、どうした」
榊原は眼鏡の奥からこっちを見て、湯呑みを机に置いた。
「授業中です。座りなさい」
「警察呼ぶぞ。いま呼ぶぞ」
「座りなさい」
俺は教室を出た。廊下の端まで走って番号を押す。三コール目で相手が出た。学校名を言い終える前に、向こうが喋りはじめた。
「捜査中です。いたずら電話は控えてください」
切れた。かけ直す。同じ声が、同じ順番で、同じことを言った。三度目も同じだ。
「……なんだよ、それ」
教室に戻ると、音が変わっていた。紙の上をペンが走る音しかしない。全員の机に答案用紙が載っている。黒板の上の時計は九時五十分を指していた。
榊原は俺を見ない。湯呑みに口をつけ、前を向いたまま言った。
「忘れないように。最下位は死にます」
席に戻って答案用紙を見た。一問も分からなかった。
さっきまでの授業を、俺は一秒も聞いていない。そのうえ記述ばかりで、選べる問題は五つしかない。当てずっぽうの余地まで削ってある。
「……記述しかないとか、何の恨みだよ」
声に出ていた。前の席が肩をすくめる。俺は口を閉じて問一をもう一度読んだ。読んで増えるのは読んだ回数だけだった。
ペン先が紙の上で止まったまま、時計の数字だけが減っていく。残り五分で、答案は選択の五問以外まっさらだった。
前の席の女子の肩が上下している。左のやつは同じ行を三回書き直していた。みんな書いている。書いている人間の出す音は、書けない人間の耳にはやすりみたいに届く。
逃げようか、と考えた。三田は校舎の裏で刺されていた。人目のない場所だ。つまり人目のあるところではどうにもならない相手なんじゃないか。俺はそう思うことにして、ペンを置いた。
根拠は薄い。薄いのは分かっていたが、それ以外に握れるものがなかった。
提出まで一分を切ったところで、後ろから女子の声が上がった。
「先生」
鷹宮紗季が紙切れを持って立っていた。委員長は迷いなく教壇まで歩いていく。
「先生、この紙、見てください。答えを教えろって。これでも見逃すんですか」
「委員長、それ、先生に渡すなよ。頼むから」
久瀬が後ろの席で立ちかけ、そのまま止まった。榊原は紙を受け取り、目を落とした。
「久瀬亮太。不正行為。当該科目、零点とします」
「待ってくれ、まだ何も写してない」
「受け取った時点で成立します」
「全部零点ですか。最後の問題だけじゃなくて?」
榊原は答えなかった。久瀬はもう一度何か言いかけて、口を閉じた。
チャイムが鳴る。
俺の答案の右上に、書いた覚えのない赤い文字が滲み出てきた。
【成績:二 順位:三十八】
選択五問のうち、当たったのは一問だけだ。それが俺の全部だった。三十九人いて、下は一人しかいない。
振り返った。久瀬の顔が土気色になっていた。こめかみに筋が浮いている。
湿った音がした。久瀬の頭が天井のほうへ上がっていき、残りは椅子ごと傾いて床に落ちた。前の席の足元まで、赤いものが広がっていく。
「う、そ……」
誰かが言った。それきり誰も動かなかった。
委員長は席に戻っている。床に広がっていくものが上履きの先に届いても、足を引かない。答案用紙から顔を上げなかった。
俺は立とうとした。膝から下に力が入らない。
廊下で重いものが落ちる音がして、窓とドアが外から塞がった。明かりが一本の線になって、消える。
教壇から声がした。
「二科目め、英語」
榊原の目は、こっちを向いていた。俺の手の下に、英語の答案用紙が回ってくる。




