第四章 写真と違う顔
「おい、お前いくつだ」
「三十二。お前は」
「俺も三十二」
「……は」
後ろの席で、紙を叩きつける音が二つ続いた。
「両方、最下位だ。お前の紙もそうだろ」
「同点って書いてある。同点最下位は全員死亡、って」
相原の兄弟だった。二人とも机の上に答案を広げて、同じ赤い字を見ている。普段は体格で他人を退かせる側の二人が、いまは椅子の縁を握って立ち上がっていた。
「待ってたらやられる。椅子、持て」
言い終わる前に、片方が椅子を振り上げていた。
教壇まで五歩もない。
椅子が飛んだ。
榊原の手が動いたのは、机の上の湯呑みのほうだった。それを取って半歩ずれる。椅子は講卓の角に当たり、背もたれが割れて木片が散った。
二人が教壇に乗り上げ、榊原の肩と首を押さえつけた。湯呑みが手から落ちる。転がって、中身が教壇の上に流れ出した。湯気が板を這って消えていく。杯は割れなかった。
「押さえろ、足だ、足を押さえろ!」
「先生、やめて。やめてください」
誰も立たなかった。
もう一脚の椅子が振り下ろされた。
鈍い音がして、木が裂ける。
教室から息を吸う音が上がった。俺も吸った。
一秒。
榊原は、四本の手に押さえられたまま、首を起こした。
「押さえてる。なんで立てるんだよ」
「離すな、まだ押せる!」
「当たっただろ。頭に当たったのに、傷もない」
榊原が立ち上がった。眉が吊り上がり、眼鏡が床に落ちた。押さえつけていた二人の足が、板から浮く。
「お前たち、教師に手を上げたな」
逃げようとした二人の襟を、後ろから伸びた腕が掴んだ。
榊原の両手が、兄弟の頭を左右から挟んだ。指先が額にめり込んでいく。
乾いた音が二つ鳴った。枝を折るときの音に近い。
二人はほとんど同時に床へ落ちた。
「……なあ、いま、何した」
「見えなかった」
「見えなかったって言え。見たって言うな」
榊原はポケットからティッシュを出し、指の間を一本ずつ拭った。眼鏡を拾ってかけ直し、教壇の上の茶溜まりを見る。
そこから先の動きが、少しだけ速くなった。
*
「十分後、最後の科目。化学です」
榊原は湯呑みを拾い上げ、底を確かめてから言った。
「この科目は生存枠が一名です。単独一位のみ生存。同点一位が生じた場合、生存者なし」
誰かの口から、「は」と息が漏れた。それだけだった。
榊原は割れた講卓の木片を跨いで、教室を出ていく。廊下の板が上がる音より先に、足音のほうが遠ざかっていった。
ドアが閉まって、三秒。
教室が破裂した。
「一人だけ? 一人だけって言った?」
「聞いたよ。一人しか生きられないって」
「ふざけんな。ふざけんなよ」
男子が二人、床の兄弟のところへ行って、動かない脚を蹴った。一度ずつだった。
「お前らのせいだ。お前らが殴ったから、あいつが怒って」
「やめろって」
「やめろじゃねえよ。俺らまで巻き込みやがって」
「違う」
言ってから、しまったと思った。顔が全部こっちを向いた。
「注意事項に、最初から書いてあった。生存枠一名の科目は単独一位のみ生存、って。前の日の紙にも同じ二行があった」
「……は?」
「あいつが怒って増やした決まりじゃない。最初から用意されてたんだよ」
「じゃあ何、どのみち一人しか残らなかったってことかよ」
「そうだよ」
「それ、もっと早く言えって」
「読んでなかったのはお互い様だろ」
男子は口を開けて、それから床の兄弟を見下ろし、蹴った足をゆっくり引いた。
教室の後ろで、笑い声が上がった。
「あはは。だから言ったのに」
委員長だった。問題集を閉じ、机に頬杖をついてクラス全体を見渡している。
「落ちこぼれは大人しく座って待ってれば? どうせ一位は私だし」
音が消えた。
床の兄弟を蹴っていた男子が、ゆっくり首を回した。
「いま、なんて言った」
「聞こえたでしょ」
「鷹宮」
職務で呼ぶのをやめた声だった。
「鷹宮、お前いま、なんて言った」
二人が立ち上がった。三人になり、五人になった。委員長は立って、机を回り込んだ。顔は白かったが、退がらなかった。
「やってみれば」
「うるさい」
悲鳴に近い声が、別の方向から上がった。
窓際の小柄な女子が、化学の教科書を顔の前に立てて座っていた。目からは涙が落ちているのに、口の端が上がっている。
「うるさいって……お願いだから。まだ覚えてないの。まだ、全然覚えてないの」
誰も何も言わなかった。
「化学、みんな何点取れんの」
「知らねえよ、そんなの」
「じゃあ一位って誰だよ」
「……言わせんなよ」
「じゃあ俺ら、何すればいいんだ」
「覚えるしかないだろ」
「四十分で?」
「四十分で」
そのうち一人が席へ戻り、教科書を開いた。二人目が続く。読む声と泣く声が混ざって、教室は音で埋まった。
「一位になればいいんだろ。一位になれば死なないんだろ」
俺は椅子を引いて立った。誰も俺を見なかった。
*
廊下は暗かった。窓は塞がれたままなのに、天井の蛍光灯だけが点いている。
榊原の足音が消えたほうへ、俺は歩いた。
突き当たりの手前に、木の札が下がった引き戸があった。
【試験期間中につき、生徒立入禁止】
札は新しくない。角が丸くなっていて、紐のところが黒く汚れている。ずっと前から下がっていたものだ。
俺は札を読んで、それから戸に手をかけた。
中の空気は、教室より一段冷たかった。机が向かい合わせに並び、書類の山が同じ高さで沈黙している。流しの脇には、誰のものとも知れない湯呑みが三つ伏せてあった。奥のほうから水の音がした。給湯コーナーの仕切りの向こうで、ポットの湯を注ぐ音が続いている。
姿は見えない。向こうからも、こっちは見えない。
手前から二つ目の机に、赤ペンと採点済みの束が載っていた。教師用の湯呑みが置かれていた輪の跡が、木の面に薄く残っている。事務椅子の座面の真ん中が、浅く凹んでいた。
足音を立てないように上履きを擦って、俺はその机の前に立った。水の音はまだ続いている。
引き出しを引いた。
顔があった。
小さい顔が、紙の左上から並んでこっちを見ている。個人票だ。クラス全員分が重ねてある。
名前、生年月日、住所、保護者。そこまでは学校の書類の形をしている。いちばん下の欄だけが違った。印刷された見出しが、生徒の書類に載る言葉じゃない。
俺は束を膝の上に下ろし、指を速く動かした。久瀬亮太。小森結衣。相原陸。相原岳。三田直樹。
残り二枚のところで、手が止まった。
【水野航】
名前は合っている。クラスも、生年月日も合っている。
左上の写真だけが、俺の知らない顔だった。
目が細くて、顎が張っていて、髪が短い。どこにでもいる男子の顔だ。俺の顔じゃない。
紙を持ったまま、後ろを向いた。
職員室の壁には鏡が掛かっている。身だしなみを確認するための、縦に細い鏡だ。
そこに映っているのは、写真の男じゃなかった。
俺は一歩近づいて、もう一歩近づく。紙を鏡のそばまで持ち上げ、二つを並べた。
指を頬に当てる。鏡の中の指が、同じところに当たる。紙の中の男は、頬に指を当てていない。
息が浅くなった。紙のほうが間違っているのか、鏡のほうが間違っているのか。どちらかがこの学校の記録で、どちらかが俺だ。
名前は俺のものだ。顔は、他人の顔だ。




