8話 最終日
夕方の繁華街は、金曜日特有のざわめきに満ちていた。
週末を待ちわびる人混みの中で、店の看板が点滅し、往来の笑い声が断続的に跳ね返る。
だが橘の気分は、その喧騒と完全に噛み合っていなかった。
――まずい……。
頭の中を占領しているのは焦りだけ。
期限は明日まで。今日が最終日だ。もう一人、最低でもあと一人を見つけなければ、スタートラインにすら立てない。
そんな焦りが思考を鈍らせ、行動を駆り立てる。
「すみません、ちょっといいですか」
声をかける。振り向きもせず去っていく背中。次の人に、また次の人に。
何度背中を見送っただろう。断られるたび、胸の中の何かが削り取られていくのがわかる。周囲の笑い声だけが、別世界の音のように響く。
この一週間、ネットと街頭を往復し、数え切れないほど声をかけた。それでも結果は二人。
選ばれない無力感だけが胸に滞留する。
――またダメなのか……。
希望をつないでいた糸が、少しずつ細くなっていく。
膝に手をつき、橘は自分の顔を水たまりの中で確かめる。そこに映る目は、赤みを帯びず乾いている。寝不足と過労で輪郭が痩せ、覇気は抜け落ちていた。とても夢を見る者の顔ではない。
「……限界か」
思わず声が出た。言い放った途端、虚しさが広がる。
だがすぐに自己嫌悪が追いかけてくる。
「……なめんじゃねぇぞ」
橘はもう一度つぶやいた。
その言葉の先は他でもない自分だった。
腕を伸ばしてスマホを覗く。時間は容赦なく減っていく。秒針が刻むたびに、焦りが鼓動を速める。
それでも笑顔を仕立てる。
――自分には似合わない作り物の笑み。それでもこれしかない。
橘は顎を引いた。
呼吸を整え、口角を上げる。大げさではなくさりげなく。まるで何度も練習した俳優のように、その表情を作り込んだ。
そして舞台に立つ。
「お姉さん、ストップ」
いつもの決まり文句をいつもの表情で言う。
いつも通りだ。
いつもと違うのは、声をかけた相手の服装ぐらいだろうか。
その女性は、真新しいリクルートスーツを着ていた。
見るからに就活生。本来であればスカウトの対象ではない。場当たり的な行動だった。
だから、彼女が本当に足を止めた瞬間、橘の方が面食らった。
だが考えるより先に口が動く。
「就活生でしょ? 良い就職先があるんだけどどう?」
彼女の目には小さな驚きが宿っていた。
その眼差しの奥には疲れと不安が見えた。
――まるでさっきまでの俺だ。
「俺と一緒にアイドルグループを作ろう。俺には、君が必要だ」
飽きるほどに吐いたいつもの台詞
言葉を発した瞬間、彼女の表情が変わった。
驚きでも、拒絶でもない。張りつめていた糸がふっと緩み、ほんの一瞬、彼女の頬に安堵の色が差した。思い違いかもしれない。それでも、その顔は救われたように見えた。
本当に救われたのはむしろ――。




