7話 蛹の変化
莉子の勢いに急かされながら、三人は席を立ち美容院へと向かった。
莉子が先頭を歩き、葵の手を引く。
その後ろを橘が少し距離を置いてついていく。
――正反対の二人だけど、遠慮がちな葵には、莉子ぐらい強引なタイプの方が、案外ちょうどいいのかもしれないな。
二人の背中を見つめながら、橘はそんなことを考えていた。
美容院は、莉子の行きつけだという駅前の雑居ビルの一角。 大きなガラス越しに見える店内は明るく、鏡が反射する照明の光がキラキラと揺れている。
おしゃれできらびやかで、いかにも莉子らしい。そんな印象を受けた。
扉を前に、葵は立ちすくんだ。
伏し目がちに小さく肩をすくめ、足が止まる。その指先がかすかに震えていた。
「行くよ葵。世界一の美人にしてもらうよ」
「え、あの、はい」
莉子は笑顔のまま手を取り、葵の動揺などお構いなしに中へと引き込む。それはきっと、彼女なりの優しさなのだろう。
それから少しして、莉子だけが店から出てきた。
「待ってる間どうする? デートでもするか?」
橘の冗談に、莉子は唇の端を上げる。
「私との同伴は高いけど大丈夫?」
「出世払いで頼む。弊社のアイドルは必ず売れるから、それまで待ってくれ」
軽口をたたき合いながら、二人は小さく笑った。
******
葵を見届けてから、莉子は近くの喫煙所に橘を連れていった。店先の植え込みに囲まれた、小さな灰皿スペース。莉子は電子煙草を取り出すと、迷いなく電源をつける。
「タバコ吸うんだな」
煙草に火をつけながら、橘は素朴な思いを口にする。
「うん。たまにね」
――そういう割には随分と慣れた手つきだったけどな。
橘はそんな感想を抱いたが、言葉にはしなかった。アイドルのイメージ戦略としてはマイナスだ。だが、それを指摘できるほど、自分も清廉潔白ではない。何よりも、今はゆっくりとした時間を味わいたかった。
橘の吐く紫煙がゆるやかに上がる。
「俺さ、ちょっと意外だったよ」
橘がポツリと言った。
橘の素朴な感想に、莉子は眉間に皺を寄せた。
「なにが?」
「葵への態度。冷たくしたらどうしようかと心配してた」
「はあ? 十代の女の子相手にそんなことするわけないじゃん。人のことなんだと思ってるの?」
「ごめんごめん。でも良かった。莉子が歩み寄ろうとしてくれるタイプで安心した。似た境遇って言ってたけど、そういう部分で――」
「ああ、あれ。嘘だから」
「え?」
「普通の一般家庭で生まれたし、別に苦労とかしてない。あの場の空気を読んで、それっぽいこと言っただけ」
莉子は何でもないことのように煙を吐いた。
「……お前、そういう嘘平気でつくのな」
「嘘っていうか、あの子が安心するならそのくらい言うでしょ」
莉子は淡々と言いながら、もう一口煙を吸った。
「ねえ、橘さん。葵は大丈夫だと思う?」
そう言って莉子は煙を吐く。
莉子は橘ではなく、その煙の行方を目で追いながら尋ねた。吐いた煙はゆらりと立ちのぼり、春の冷たい風に溶けていく。
「どういう意味で?」
「全部。あの子、きっと良い子だよ。でも、それだけでやっていけるほど甘くない世界だよね。多分傷つくことの方が多いと思う。それでも、あの子に夢を見せる? 責任とれるの?」
一瞬、言葉が詰まった。
正面から見つめてくる莉子の目に冗談の色はなく、覚悟を問うものだった。
逃げ道を探したくなるほどまっすぐな視線。
橘はひと呼吸置いてから、未熟な思いの丈を言葉に乗せ始める。
「責任は……とれない」
「そっか」
「俺にできることは全部やる。葵だけじゃない。ついて来てくれた莉子のことも、後悔させないようにはする。それしかできない」
「橘さんって言ってることに根拠がないし、大きいことばっか言うし、ろくでもない大人だよね」
「言い過ぎだろ」
「でも、責任とるとか言わなかったね。それだけはちょっと意外だった」
「そんなことで評価すんなよ」
「だって、言いそうじゃん。『俺が全部責任取る』とか。言ってたら辞めてた」
「おいおい……」
「だから、まあ。今のところは辞めないであげる」
橘からすれば物騒なことを、平気な顔で言ったあと、莉子は無邪気に笑う。
「怖い試し方しないでくれよ。莉子の目から見て、葵はどう思う?」
「さあ? そもそもアイドルとかよくわかんないし、葵がどうなるかもわかんない。向いてはないんじゃない」
莉子は媚びることも気をつかうこともなく、装飾のない感想を言う。淡白な感想だったが、言葉は続く。
「でも、ああいう子が報われる世界であって欲しいとは思う」
莉子はそれだけ言って、吸い終えた電子タバコを灰皿に捨てた。橘も同様に、吸い殻になっていた煙草を灰皿に投げ入れる。
「それは同感だ」
煙草を吸い終えた二人の間に、短い沈黙が落ちる。
道路を走る車のエンジン音と、繁華街を歩く人の声が遠くに響いていた。
「葵緊張してそうだし、私はそろそろ店戻るね。化粧もしなきゃだし。橘さんはどうする?」
莉子は、いじっていたスマホをポケットにしまいながら言った。
「俺は外で時間潰してる。仕上がってから見るのが楽しみだ」
「楽しみにしてて。多分だけど、あの子化けるよ」
莉子は軽く手を振り、雑居ビルの中へと戻っていった。
後ろ姿は軽やかで、どこか期待を預けていくような気配を残した。
見送ったあと、足が自然と動き出し、橘は当てもなく街を歩きはじめた。
風が少し冷たくなっていた。
春の匂いが、どこか胸に沁みる。
――疲れたな。
率直な感想はそれだった。
莉子がメンバーになってくれたのは心強い。
だが、矛先が自分に向くたび、気が休まらない。ボロを出さないように。安く見積もられないように。気を張って、背筋を伸ばして、笑ってみせる。
橘はショーウィンドウに映る姿を見た。
スーツの襟元は少しよれて、靴の艶も消えている。
学生の頃から起業を夢見ていた。
情報商材も、Webマーケティングも、アフィリエイトもやった。そのたびに『今度こそ』と思った。その『今度こそ』が、いくつあっただろう。
寝る間を惜しんで働いた。自分にできることは何でもやった。
それでも結果は出なかった。
努力を重ねるほど、底なし沼に沈んでいくようだった。
――知ってるさ。“頑張った”、“努力した”なんてなにも誇れることじゃない。結果が出なきゃ意味がない。むしろ虚しいだけだ。
失敗を繰り返す橘には、街の灯りがくすんで見えた。街中を歩く人の笑顔が眩しかった。嫉妬なのか羨望なのか、自分でもわからなくなっていた。
そんな時――あの日、偶然、加賀の不倫を見た。
チャンスが欲しかった。ただそれだけだった。もうとれる手段も、成功を掴むアイデアもなかった。道を踏み外していると知りながら、そこに手を伸ばした。
胸の奥が鈍く軋んだ。
それでも、加賀との話がまとまった時、ほっとしていた。
橘は立ち止まり、空を見上げた。
雲が街の光を反射して、どこか濁った色をしている。
――もう後がない。やり直しなんてきかない。
でも、だからこそ、今度こそ掴むしかない。
頭の中がもやに包まれていく。
考えすぎて、視界がぼやける。
泥水の中でたゆたっているような感覚――。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
現実に引き戻されるように橘はスマホを取り出し、画面を見つめる。そこには短いメッセージ。
「終わったよ。美容院に来て」
莉子からだった。
橘は深く息を吐き、顔を上げた。
――後悔も悩みも今は置いておこう。葵がどうなったのか、それが楽しみだ。
彼は歩を進めた。夜の光が看板を照らし、人の波が途切れなく流れている。夜の風が頬を撫で、さっきより少しだけ冷たく感じた。
******
美容院の前に着くと、ほどなくして二人が見えた。
葵は背を向けており、まだ全容は見えない。期待感に背中を押されながら、橘は足早に二人のもとに向かう。
「悪いおまたせ」
「遅い。何処行ってたの?」
駆け足で来た橘に対し、莉子は腕を組み、待ちくたびれたと言わんばかりの態度だった。不満げに唇をとがらせている。
「悪い悪い。アイドルの原石がいないかスカウトしてた。でも二人に匹敵する子は見つけられなかったわ」
「こんな時までご苦労でした。そんなことより――」
莉子の言葉に合わせて、葵の肩が小さく揺れる。
光の当たり方が変わり、まだ顔の見えない横顔に陰影が落ちた。
そして、莉子がそっとその肩を押す。
葵がゆっくりと振り向いた。
振り返った少女を見た瞬間、橘は息をのんだ。
――マジか……。
思わず、そんな言葉が漏れそうになった。
さっきまでとは明らかに印象が違う。
重たく垂れていた前髪が軽く整えられ、隠れていた額や眉が見えるようになっている。それだけで、伏し目がちな印象が少し和らいでいた。
肩にかかっていた髪も整えられ、顔の輪郭が以前よりはっきりしている。薄く施された化粧も、派手さを加えるというより、元々の顔立ちを少しだけ浮かび上がらせていた。
今まで髪や服装、俯きがちな姿勢に埋もれていたものが、少しだけ表に出ていた。
――こんな顔、してたっけ。
橘はしばらく言葉が出なかった。
化粧にもまだ慣れていないのか、本人はどこか落ち着かない様子で、何度も髪に触れている。
「どう? ね、変わったでしょ?」
莉子は得意気に言う。
それとは対照的に、当人は照れ臭そうに、視線を落としている。
「なんか、まだ鏡を見ると自分じゃないみたいで……でも、ちょっと前向きになれた気がします。莉子さんのおかげです。ありがとうこざいます」
見た目は変わった。
けれど声を聞けばすぐに葵だとわかる。
その声は恥ずかしそうに小さく震えていたが、確かな希望が混じっているように聞こえた。
「――可愛くなったな」
絞り出した言葉はシンプルな一言。
それ以上の言葉は出てこなかった。
まだ華やかさには欠ける。それでも、この先何かを身につければ、もっと変わるかもしれない。そんな期待を初めて抱いた。
「あはは……ありがとうございます。嬉しいです」
葵が笑う。
その笑顔はぎこちなく、でも真っ直ぐで、どこか眩しかった。
「よし、じゃあ記念に三人で写真撮ろ!」
莉子の明るい声が響く。橘は促されながらスマホを取り出した。
街灯の光が三人の間を照らし、風に髪が揺れる。
「ちょっと葵、顔かたい。髪切った日の女子は最強なんだから、笑って」
莉子が軽く肩を叩くと、葵はおずおずと微笑んだ。
静かなシャッター音。
画面には、ぎこちない笑顔の葵と、その両隣で笑う莉子と橘が映っている
まだ何者でもない。グループと呼ぶにはあまりに頼りない三人だ。それでも、橘はその写真から目を離せなかった。
さっきまで胸を覆っていた焦りも、疲労も、いつの間にか薄れている。
――まだ一人足りない。 金もない。 何も決まっていない。
それでも――
「絶対、売ってやる」
今度は誰に聞かせるでもなく、橘は小さく呟いた。
さっきまで重かった足取りが、ほんの少しだけ軽くなっていた。




