9話 騙されたと思って
橘の言葉に、リクルートスーツの女性は足を止めた。
胸の奥には、少しの安堵と強い切迫感が同時に湧く。
声をかけたのは衝動だった。
明確な目的なんてない。
ここで初めて橘は女性の顔をまじまじと見つめる。
黒いショートボブに猫のような目、細身で姿勢が良い。
派手ではないが容姿は悪くない。二人とも違うタイプで、グループのバランスがとれそうだと期待できる。
たまたま声をかけた相手の容姿を、自分に都合よく評価する橘。
――十分だ。これなら使える。
この子を逃すわけにはいかない。
そう思った瞬間、手のひらに汗が滲むが、平静を心がける。
一呼吸置き、いつも通りの笑みを準備する。
「もしかして警戒してる? 安心して。言動ほど怪しい人間じゃないから。テレビの占い結果で一喜一憂するぐらい素直な人間なんだよ。嘘ついたことないし。人からはよく橘って呼ばれてる」
軽口を叩いて、彼女の反応をうかがう。
眉がわずかに寄る。
それでも逃げようとはしない。立ち止まっている。それだけで十分だった。
「急に声をかけて驚かせたよね。ごめん。たぶん就活生、だよね? 忙しいのに足を止めてくれてありがとう。さっきの話、冗談じゃなくて本気なんだ。アイドルの候補生を探してて」
乾いた喉が上手く口を回してくれない。
それでも努めて穏やかに語りかけた。
彼女がこちらを見上げた。
「えっと、お兄さんは芸能関係の人ですか?」
やっと返ってきた言葉。
そこには警戒心と好奇心が入り混じっていた。
その一言に胸が跳ねる。
久しぶりに、自分の声が誰かに届いた気がした。
逸る気持ちを抑えるのに必死だった。
「違うよ。ただの個人事業主。メンバーもまだ二人しかいない。でも本気なんだ。成功させる自信がある。……まあ今のところ自信“しか”ないけど」
橘が苦笑する。
それに釣られて、少しだけ彼女の表情がやわらいだ。
「名前、聞いてもいい?」
「奈――藤森です」
「藤森さんか。よし、覚えた。馬鹿みたいに聞こえるかもしれないけど、俺は本気なんだ」
藤森の視線がわずかに揺れる。
そして、小さく息を吐いて問う。
「どうしてそこまで頑張ってるんですか?」
その声はどこか投げやりで、乾いた悔しさが滲んでいた。
橘は反射的に答えた。
「夢だから。って言えばかっこいかな? けどまあ本気なのは本当」
「夢、ですか」
“夢”という言葉に、彼女の顔が曇る。
「藤森さんの夢は?」
「……わかりません」
その答えが落ちた瞬間、空気が静まり返った。
街の雑踏の音だけが、二人の間を流れていく。
彼女は疲れて見えた。
夢見る就活生のはずなのに、小綺麗なスーツに身を包んでいるのに、その姿は希望とはかけ離れて見えた。
「どうして私なんですか?」
その質問に、橘は息をのんだ。
理由なんてない。声をかけたのは偶然。期限までに結果を出す、それだけのためだった。
ただ、その思いを馬鹿正直に言うわけにはいかない。このチャンスを逃せばもうあとはないかもしれない。
目が死んでいるわけじゃない。
ただ、何かを諦めようとしている目だった。
それはつけ入る隙に見えた。
「正直さ、誰でも良かった。元々期限を決められてたんだけど、それが今日までなんだ。だから焦って数をこなしてた。それで足を止めてくれたのが藤森さんだったってだけ」
橘は一度、言葉を探した。
「でも、すげぇ救われたんだよ。誰にも見向きされなかったからさ。足を止めてくれたってだけなのに、なんというか、まだ俺の話を聞いてくれる人がいるんだって思った」
「……普通そういうの、もっと上手く言うんじゃないですか?」
「さっきも言ったじゃん。嘘ついたことないって」
「絶対嘘」
「はは。まあまあ。その目を見て思った。なんか、もの足りないんだろうなって。俺、そういうの嫌いじゃないんだよね」
「……え?」
「諦めた顔してるけど、諦めきれてない。だから俺はこうして誘いたくなったんだと思う」
「……」
「アイドルって、そういう人間の方が向いてるんじゃないかな。何か足りないから、それを埋めるために必死になれるんじゃないかな。まあ根拠はないけど」
「……私、そんなふうに見えますか?」
「見えるよ」
間髪入れない橘の返答に言葉を失う藤森。
橘は続ける。
「立ち止まって、俺の話を聞いて、今もここにいる。それだけで、俺には十分なんだよ」
藤森が黙る。
「……」
「だから、もう一回聞く。藤森さん」
橘は笑った。
今度の笑顔には、さっきまでの作り物とは少し違うものが混じっていた。
「俺と一緒に、アイドルやってみない?」
「……めちゃくちゃですよ」
「知ってる」
「変わってます」
「知ってる」
「めちゃくちゃです。就活生をスカウトしますか普通。意味わかんないです」
「凡人には見えないものが見えるんだよ俺」
「……面白い人ですね。でもごめんなさい。私は就活しないといけないんで、協力はできません」
「両方やればいいじゃん」
「はい?」
「就活しながらアイドル活動すればいいじゃん。志望する会社から内定が出ればそっちを優先してもらっていいよ」
橘の言葉に、藤森の表情が怪訝なものになる。
「いい加減過ぎませんか? 本気じゃなかったんですか? やっぱり私のこと馬鹿にしてます?」
「俺は本気だよ。本気で成功するつもり。ただ、就活を捨てろなんて言えるほど俺は偉くない。だから両方やればいい。無理になったら、その時考えればいい」
「……」
「俺は本気でやる。藤森さんが一緒に来てくれるなら君にも本気でやってもらう。でも強制はしない。就活をしてもらってもいい。将来なにを選んでもらったっていい。ただ、少なくとも、今のまま何となく就職して、何となく十年過ごすよりは面白いことができる自信はある」
橘は強い口調ではっきりと宣言する。
自分を疑わない橘の言葉は、妙な自信に満ちていた。
「根拠は……ないんですよね」
「ない」
「……ふふっ。本当に、本当に変な人ですね」
「知ってる」
藤森は手元のスマートフォンを見つめる。 そこには、さっき届いたばかりの不採用通知が残っている。
藤森は難しい顔をしながら押し黙るが、橘はそれを静かに待った。
そして意を決したかのような表情で、藤森が重い口を開く。
「……詐欺じゃないですよね?」
「詐欺じゃない。けど騙されたと思ってついて来て欲しい」
「……やるって言ったら笑いますか?」
「笑わないよ」
橘は即答した。
それを受けて藤森は困ったように笑った。
「……じゃあ、騙されてみます」
「決まりだな」
橘が差し出した手を握り返す藤森。
その表情に、まだ夢を掴んだ者の輝きはない。
ただ、ほんの少しだけ張りつめていたものが緩んでいるように見えた。
その瞬間、胸の奥から熱が込み上げてくる。
――ついに、三人揃った。やっとスタートラインに立った。ここからだ。
根拠なんてない。そんなものは最初から必要なかった。
橘は込み上げる笑いを必死に堪えながら、藤森の手を強く握った。




