『眠れない夜』
第九話 眠れない夜
その日も孤児院に泊まることになった。
先生が言ったからだ。
「もう一日くらい、ゆっくりしていってください」
優しい声だった。
断る理由はなかった。
レオもミアも嬉しそうだった。
ノアは本を読んでいた。
賛成なのか反対なのか分からない。
アルトだけが返事をしなかった。
しなかったが。
結局そのまま残った。
⸻
夕食は賑やかだった。
野菜のスープ。
少し硬いパン。
干し肉。
豪華ではない。
だが温かかった。
子供たちの笑い声が響いている。
皿のぶつかる音。
椅子を引く音。
誰かがスープをこぼして怒られる声。
それから笑い声。
匂いが混ざっている。
焼いたパン。
香草。
スープ。
人が集まる場所の匂いだった。
アルトは黙って食べていた。
向かいではミアが子供たちに囲まれている。
レオも笑っていた。
ノアは本を読みながら食べている。
行儀が悪い。
先生に注意されていた。
少しだけ面白かった。
⸻
夜。
子供たちは早く眠る。
孤児院の明かりも消える。
静かになる。
昼間の賑やかさが嘘みたいだった。
アルトは目を閉じる。
眠ろうとする。
だが眠れない。
隣のベッドからはレオの寝息が聞こえる。
規則正しい。
少し離れた場所ではミアも眠っている。
ノアは分からない。
本を読みながら寝たのかもしれない。
窓の外で風が鳴る。
木が揺れる。
葉が擦れる。
それだけだった。
何も起きていない。
平和だった。
だから。
余計に眠れなかった。
アルトは起き上がる。
床板が小さく鳴る。
誰も起きない。
外へ出る。
夜風は冷たかった。
昼間の熱は消えている。
井戸の石へ触れる。
冷たい。
掌の熱が奪われていく。
遠くで虫が鳴いている。
村の灯りはほとんど消えていた。
平和な夜だった。
⸻
悲鳴が聞こえたのはその時だった。
短い声だった。
子供の声。
アルトの身体が動く。
考えるより先だった。
井戸から離れる。
孤児院へ向かう。
扉を開く。
階段を上る。
気付いた時にはそこにいた。
小さな部屋だった。
一人の男の子が泣いている。
汗をかいている。
先生が抱きしめていた。
「大丈夫」
優しい声だった。
「夢だから」
男の子は泣いている。
肩を震わせている。
怖かったのだろう。
先生は背中を撫でる。
ゆっくり。
何度も。
「大丈夫」
もう一度言う。
男の子は少しずつ落ち着いていく。
やがて泣き疲れたように目を閉じた。
先生はアルトに気付く。
少し驚く。
「起こしてしまいましたか」
アルトは首を振る。
先生は微笑む。
「時々あるんです」
小さな声だった。
「親を亡くした子ですから」
アルトは男の子を見る。
眠っている。
まだ少し涙が残っている。
先生は言う。
「怖い夢を見たんでしょうね」
静かな声だった。
当たり前のように。
自然なことのように。
⸻
部屋を出る。
廊下は暗い。
窓から月明かりが差し込んでいる。
その時。
後ろから声がした。
「おじさん」
ミアだった。
いつの間に起きていたのか。
髪が跳ねている。
目を擦っている。
「起きてたのか」
「起きた」
ミアはアルトの隣へ来る。
欠伸をする。
小さな欠伸だった。
しばらく黙る。
それから。
「おじさんも怖い夢みる?」
アルトは答えなかった。
廊下の向こうを見る。
暗い。
静かだ。
ミアも待つ。
急がない。
やがてアルトは言う。
「覚えてない」
それは本当だった。
夢を見ているのか。
見ていないのか。
分からない。
ミアは少し考える。
それから頷く。
「そっか」
それだけだった。
⸻
外へ出る。
また井戸の近くへ行く。
夜風が吹く。
冷たい。
空には星が出ていた。
アルトは井戸の縁へ腰掛ける。
石は冷たい。
遠くで犬が鳴く。
虫が鳴く。
村は眠っている。
アルトは目を閉じる。
そして。
ふと。
声が聞こえた気がした。
遠い声だった。
子供の声。
震えている。
泣きそうな声。
『こわい』
誰の声か分からない。
知らない声だった。
だが。
どこかで聞いたことがある気がした。
『こわいよ』
小さな声だった。
すぐに消える。
風にさらわれる。
アルトは目を開く。
井戸がある。
星がある。
夜がある。
それだけだった。
遠くで扉の開く音がする。
先生だろうか。
見回りかもしれない。
村は静かだった。
平和だった。
アルトは空を見る。
そして。
なぜだか分からないまま。
しばらくその場を動かなかった。




