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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『森の花』

第十話 森の花


出発するはずの朝だった。


孤児院の食堂には焼きたてのパンの匂いが満ちていた。


小麦の甘い香り。


薪の燃える匂い。


温かな湯気。


窓から差し込む朝日が、長机の上に柔らかな光を落としている。


昨日と同じ朝だった。


昨日と同じはずだった。


廊下を走る足音が聞こえるまでは。


慌てた声。


扉が開く音。


誰かが誰かの名前を呼ぶ声。


食堂の空気が変わる。


焼きたてのパンの香りの中へ、不安が混じっていく。


アルトはゆっくり顔を上げた。


先生が立っていた。


顔色が悪い。


唇が少し震えている。


「エマがいないんです」


アルトに花を渡した少女の名前、その一言で。


食堂の音が消えた。



庭には村人たちが集まっていた。


朝露に濡れた草を踏む音。


誰かが森へ向かう準備をしている。


縄。


松明。


短剣。


金属の擦れる音が乾いた朝の空気に響いていた。


先生は何度も周囲を見回している。


探しても。


探しても。


エマは見つからない。


「いつからだ」


アルトが聞く。


先生は疲れた顔で答えた。


「朝起きた時には……」


その声は掠れていた。


昨夜から探していたのだろう。


目の下に薄い隈が見える。


「何か言っていたか」


先生は少しだけ迷う。


そして。


困ったように笑った。


「花です」


風が吹いた。


洗濯物が揺れる。


遠くで鳥が鳴く。


「昨日の花です」


アルトは黙る。


先生は続けた。


「あの子、嬉しかったんだと思います」


小さな声だった。


「アルトさんが花を受け取ってくれたのが」


アルトの胸の奥で何かが引っ掛かる。


先生は気付かずに続ける。


「森の奥にもっと綺麗な花が咲いているって」


笑う。


泣きそうな顔で。


「あれを見せたいんだって言っていました」


風が吹く。


どこかで木の葉が擦れる音がした。


誰も何も言わない。


責める者はいない。


だからこそ。


胸の奥が少し重かった。



門の前でレオは森を見ていた。


何度も。


何度も。


黒い森だった。


昼になれば明るく見える場所も、今はどこか冷たく見える。


風が吹くたびに枝が揺れる。


ざわり。


ざわり。


まるで森が息をしているみたいだった。


「行きたいの?」


ノアが言う。


レオは森を見たまま答える。


「分からない」


正直な言葉だった。


ノアは頷く。


そして聞く。


「力ないのに?」


レオの肩が僅かに動く。


「剣も弱い」


「魔法も使えない」


「大人たちが探してる」


風が吹く。


朝の冷気が頬を撫でる。


「なんで行くの?」


責める声ではなかった。


ただ知りたかっただけ。


だからレオは逃げられない。


答えられない。


自分でも分からないからだ。


何故こんなに落ち着かないのか。


何故森が気になるのか。


何故足が前へ出そうになるのか。


その時だった。


焦げた匂いがした。


実際にはしない。


記憶の中の匂いだった。


煙。


焼けた木。


熱風。


喉が焼けるような熱さ。


『レオ!』


父の声。


『ミアを連れて行け!』


泣いているミア。


母の顔。


燃える家。


剣を握る父。


自分は動けない。


怖かった。


足が震えた。


何もできなかった。


何も。


『行け!!』


そこで記憶は途切れる。


レオは拳を握った。


爪が掌に食い込む。


痛みが走る。


だが、それでも足りなかった。


「あの日も」


掠れた声だった。


「何もできなかったから」


風だけが吹く。


誰も言葉を挟まない。


ノアも。


ミアも。


アルトも。


「後悔したくないから?」


ノアが聞く。


レオは首を振った。


違う。


そんな立派な理由じゃない。


もっと単純だった。


もっと子供だった。


「分からない」


そう言う。


そして。


森を見る。


「でも」


少しだけ息を吸う。


冷たい空気が肺に入る。


「怖いと思うから」


レオは言った。


「一人は嫌だと思うから」


その言葉だけは迷わなかった。



アルトは黙って聞いていた。


一人は嫌だと思うから。


胸の奥が少しだけ痛む。


昔。


似たことを考えた気がした。


思い出せない。


だが。


感覚だけは残っている。


誰かを置いていきたくなかった。


誰かを助けたかった。


世界のためじゃない。


使命のためでもない。


もっと単純な。


もっと小さな願い。


乾いた音が響く。


カン。


木剣と木剣がぶつかる音。


夕暮れの匂い。


汗の匂い。


土の匂い。


掌が痛い。


何度も打ち込んだから。


『もう一回!』


少年が叫ぶ。


悔しくて。


泣きそうで。


それでも立っている。


『今日は終わりだ』


父が笑う。


『嫌だ!』


即答だった。


負けたまま終わりたくなかった。


『もう一回!』


そこで記憶は途切れる。


アルトは目を開いた。


レオがいる。


森がある。


そして。


自分がいる。


昔の自分は迷わなかった。


今の自分は立ち止まる。


考える。


迷う。


動けなくなる。


レオは逆だった。


怖い。


力もない。


それでも前を見ている。


「行くぞ」


気付けば口にしていた。


レオが驚いた顔をする。


アルトは森を見る。


「探すんだろ」


それだけだった。


だが。


足はもう森へ向いていた。



森の中はひんやりとしていた。


湿った土の匂いがする。


苔の匂い。


若い葉の青い匂い。


足元で小枝が折れる。


ぱきり。


小さな音が響く。


レオは先頭を歩いていた。


必死に地面を見ている。


折れた枝。


踏まれた草。


小さな靴跡。


「こっちです」


迷いのない声だった。


アルトは少しだけ驚く。


数日前なら。


レオはこんな風に前を歩かなかった。


怖いはずだ。


今も怖いはずだ。


それでも進んでいる。



泣き声が聞こえた。


風に混じる。


小さな声。


レオが走る。


アルトも後を追う。


木々の間を抜ける。


そして。


エマがいた。


木の根元に座り込んでいる。


泥だらけだった。


膝は擦りむけている。


頬には涙の跡が残っている。


唇も震えている。


怖かったのだろう。


ずっと。


一人で。


それでも。


両手だけはしっかり閉じられていた。


まるで宝物を守るように。


「エマ!」


レオが呼ぶ。


エマは顔を上げる。


そして。


泣きながら笑った。


「見つけた」


小さな声だった。


震えていた。


両手を開く。


そこには一輪の花があった。


白い花だった。


昨日の花より少し大きい。


朝露の香りを纏ったような花だった。


森の匂いがする。


湿った土の匂い。


風の匂い。


そして花の香り。


「こっちの方が」


エマが言う。


涙を拭いながら。


「綺麗だから」


アルトは言葉を失う。


エマは泣いていた。


怖かったはずだ。


寂しかったはずだ。


それでも。


花だけは離さなかった。


自分に見せるためだけに。


「ごめんなさい」


エマが言う。


「でも」


花を抱きしめる。


「見せたかったの」


風が吹いた。


花が揺れる。


アルトは花を見る。


エマを見る。


そして。


本当に久しぶりに。


心の奥から。


少しだけ笑った。


「馬鹿だな」


優しい声だった。


エマが泣きながら笑う。


レオも笑う。


ミアも笑う。


その輪の外にいたはずのアルトは。


いつの間にか。


その輪の中に立っていた。


エマが差し出した花は。


森の中で見つけた花ではなく。


人と人を繋ぐための花だったのかもしれない。


そんなことを。


アルトは少しだけ思った。

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