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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『帰る場所』

第十一話 帰る場所


孤児院へ戻った時には、空は茜色に染まっていた。


夕暮れの光は柔らかい。


森の影は長く伸びている。


草の匂いがした。


湿った土の匂いもした。


エマの小さな手は、まだアルトの袖を掴んでいた。


離したらまた迷ってしまうとでも思っているのかもしれない。


その力は弱い。


けれど。


不思議と温かかった。


門が見える。


村が見える。


そして。


孤児院の前に集まった人影が見えた。


「エマ!」


誰かが叫ぶ。


先生だった。


次の瞬間には走り出していた。


スカートの裾が乱れるのも構わず。


ただ真っ直ぐ。


エマへ向かって。


エマの目が大きくなる。


そして。


堪えていたものが決壊した。


「せんせい……」


掠れた声だった。


先生はエマを抱きしめる。


強く。


強く。


まるで二度と離さないように。


エマも泣き出した。


嗚咽が漏れる。


肩が震える。


森では我慢していたのだろう。


花を抱えていた小さな腕が。


今は先生の背中へ回っていた。


夕風が吹く。


先生の髪が揺れる。


その光景を見ながら。


アルトは胸の奥に奇妙な感覚を覚えていた。


懐かしいような。


苦しいような。


よく分からない感覚だった。



ミアはエマのところへ駆けて行った。


勢いよく。


本当に勢いよく。


そして。


ぽかりと頭を叩いた。


「ばか」


エマが驚く。


もう一度。


ぽかり。


「ばか」


涙声だった。


三回目は少し弱かった。


「ばかばか」


今度は叩かなかった。


代わりに抱きついた。


小さな腕だった。


エマも泣く。


ミアも泣く。


子供たちも泣く。


泣きながら笑っている。


誰かが鼻をすすり。


誰かが笑い。


誰かがまた泣く。


そんな音が夕暮れの空へ溶けていった。


レオは少し離れた場所からそれを見ていた。


口元が緩んでいる。


安堵しているのが分かった。


だが。


その表情はどこか寂しそうでもあった。


アルトは気付く。


レオはあの輪の中に入りたいのではない。


違う。


あの輪が壊れなかったことに安心しているのだ。


それは。


きっと。


自分にはもう戻れないものだから。



夕食はいつもより賑やかだった。


スープの匂い。


焼きたてのパン。


子供たちの笑い声。


木の椅子が軋む音。


誰かがスプーンを落とす音。


全てが混ざり合う。


エマは人気者だった。


皆が話しかける。


皆が心配する。


皆が怒る。


皆が笑う。


エマはその度に困ったように笑っていた。


アルトはその様子を眺めていた。


スープは温かかった。


少し塩が強い。


だが嫌いではなかった。


ふと。


向かいに座るノアが言った。


「ねえ」


アルトは顔を上げる。


ノアはパンを千切っていた。


「なんだ」


ノアはしばらく考える。


そして。


「帰る場所、帰れる場所は良いものだね」


静かな声だった。


食堂の賑わいが遠くなる。


スープの湯気だけが揺れる。


アルトは答えない。


答えられなかった。


宿屋は出た。


王都には戻りたくない。


仲間たちはいない。


勇者の居場所などどこにもなかった。


帰る場所。


その言葉だけが胸の中へ落ちる。


ノアは返事を待たない。


パンを食べる。


それだけだった。


だが。


その問いだけが残った。



夜。


皆が眠った後。


アルトは一人で外へ出た。


空には星が広がっている。


夜風は少し冷たい。


昼間の熱を奪っていく。


井戸の縁へ腰掛ける。


石はひんやりしていた。


遠くで虫が鳴いている。


孤児院の窓から漏れる灯りはもうない。


静かな夜だった。


アルトは空を見る。


そして。


不意に思い出す。


夕暮れだった。


赤い空。


土の匂い。


汗の匂い。


『アルトー!』


声が聞こえる。


母だった。


明るい声。


『ご飯よー!』


遠くで父が笑っている。


木剣を肩に担いでいる。


『今日はここまでだな』


悔しかった。


まだ勝てなかったから。


もっとやりたかった。


『もう一回!』


そう言った気がする。


父は笑う。


母も笑う。


その笑い声が夕暮れに溶けていく。


そこで記憶は消えた。


アルトは目を閉じる。


思い出せたのはそれだけだった。


家の場所も。


村の名前も。


思い出せない。


けれど。


笑い声だけは残っていた。


胸の奥に。


ずっと。



翌朝。


空は晴れていた。


風が気持ちいい。


草の先には朝露が光っている。


今度こそ出発の日だった。


孤児院の前には子供たちが集まっている。


先生もいる。


エマもいた。


元気そうだった。


少しだけ安心する。


ミアは子供たちと別れを惜しんでいる。


レオも笑っていた。


ノアは本を読んでいる。


いつも通りだった。


エマが近付いてくる。


昨日の花を持っていた。


大事そうに。


両手で。


「アルト」


アルトはしゃがむ。


エマは少し考える。


それから言った。


「今度」


風が吹く。


白い花が揺れる。


「今度はお花の名前教えてね」


アルトは花を見る。


白い花。


昨日と同じ花。


名前は分からない。


今も分からない。


少し前の自分なら。


曖昧に笑って終わっただろう。


あるいは。


何も答えなかったかもしれない。


だが。


気付くと。


言葉が出ていた。


「分かった」


エマが笑う。


アルトは続ける。


「今度までに覚えておく」


その瞬間。


自分でも少し驚いた。


今度。


その言葉を。


いつから使わなくなったのだろう。


未来を前提にした言葉。


また会うことを前提にした言葉。


エマは嬉しそうに笑った。


「約束だよ」


アルトは小さく頷く。


村の門が開く。


風が吹く。


旅が始まる。


今度こそ。


本当に。


そしてアルトは気付かない。


その小さな約束が。


勇者としてではなく。


一人の人間として交わした。


旅の最初の約束だったことに。

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