『花の名前』
第八話 花の名前
朝はパンの匂いで始まった。
焼きたての小麦の香りだった。
少し焦げた匂い。
薪の匂い。
温かい湯気の匂い。
孤児院の廊下を子供たちが走る音がする。
ぱたぱたと軽い足音。
笑い声。
皿の触れ合う音。
朝はいつも騒がしい。
アルトはしばらく布団の上でその音を聞いていた。
窓の外で鳥が鳴く。
どこか遠くで木槌の音がする。
規則正しい音だった。
レオだろう。
昨日の夜に直しきれなかった柵を、朝から直しているに違いない。
らしいな、とアルトは思った。
⸻
庭へ出る。
朝露を含んだ草が靴を濡らす。
冷たい。
空気は澄んでいた。
雨上がりの土の匂いがする。
井戸の近くではミアが子供たちに囲まれていた。
いつの間に仲良くなったのか分からない。
ミアは輪の真ん中にいる。
まるで前からそこにいたみたいに。
「ミアのお兄ちゃん?」
男の子が聞く。
ミアは首を振る。
「ちがう」
「じゃあお父さん?」
「もっとちがう」
子供たちが笑う。
ミアも少し笑う。
「じゃあ誰?」
ミアは少し考える。
遠くでレオの木槌が鳴る。
コン。
コン。
一定の音だった。
ミアはアルトを見つける。
そして手を振る。
「おじさん」
子供たちも振り向く。
アルトは少しだけ立ち止まった。
「誰?」
「木剣なおせる」
ミアが言う。
「へえ」
「パンくれる」
「いい人だ」
子供たちが頷く。
「顔こわい」
「こわい」
「たしかに」
アルトはため息を吐く。
子供たちは笑う。
警戒がない。
遠慮もない。
ただ思ったことを言っている。
その時だった。
一人の男の子がアルトの腰を見る。
聖剣だった。
朝日を受けてわずかに光っている。
男の子が目を丸くする。
「あれ」
誰かが言う。
「もしかして」
子供たちの視線が集まる。
そして。
「勇者様?」
風が吹く。
草が揺れる。
どこかで鳥が鳴く。
さっきまで聞こえていた笑い声が少し遠くなった気がした。
アルトは男の子を見る。
男の子は目を輝かせていた。
悪意はない。
ただ知っている名前と繋がっただけだった。
ミアが首を傾げる。
「そうなの?」
アルトを見る。
「聞いてない」
「別に言ってないからな」
「なんで?」
「言う必要あるか」
「ふーん」
ミアは納得したのかしていないのか分からない顔をする。
子供たちはまだ聖剣を見ている。
男の子が聞く。
「本当に勇者様?」
アルトは少し考える。
答えは知っている。
けれど。
その答えは昔ほど簡単ではなかった。
遠くで木槌の音が響く。
コン。
コン。
レオは変わらず柵を直している。
ミアは変わらずミアだった。
ノアは木陰で本を読んでいる。
ページをめくる音が風に混じる。
さらり。
さらり。
アルトは男の子を見る。
「アルトでいい」
それだけ言った。
男の子は少し不思議そうな顔をした。
それから頷いた。
「アルト!」
その呼び方は少し照れくさそうだった。
子供たちは笑った。
ミアも笑った。
風が吹く。
その風に乗って。
花の匂いがした。
⸻
昼前。
井戸の近くは少し涼しかった。
石に触れる。
冷たい。
掌に湿り気が残る。
遠くでは子供たちの声がする。
ミアの声も混じっている。
何を話しているのかまでは聞こえない。
ただ楽しそうだった。
「おじさん」
振り向く。
小さな女の子だった。
両手に白い花を持っている。
朝露で濡れていた。
「これ」
アルトは受け取る。
茎はひんやりしていた。
指先に小さな水滴が残る。
花の匂いがする。
若い草の匂い。
土の匂い。
朝の匂い。
風が吹く。
その風の中に。
声が聞こえた気がした。
『これ知ってる?』
夕暮れだった。
草原だった。
風が吹いていた。
草が波みたいに揺れている。
リシアが花を持っている。
『知らない』
『また?』
笑い声。
鈴みたいな声だった。
『アルトは本当に何も知らないね』
『別に困らない』
『困るよ』
『なんで』
リシアは花を見る。
夕日に照らされた横顔だった。
『名前があるから』
風が吹く。
草が揺れる。
リシアの髪が揺れる。
そこで記憶は途切れた。
アルトは目を開く。
白い花が手の中にある。
女の子が見上げている。
「どうしたの?」
「いや」
アルトは首を振る。
「何でもない」
女の子は頷く。
そして子供たちの方へ走っていく。
ぱたぱたと軽い足音。
その後ろ姿を見送る。
ノアがいつの間にか近くにいた。
珍しく本を閉じている。
「へえ」
と言う。
アルトは見る。
「何だ」
ノアは少し考える。
それから首を傾げた。
「別に」
本を開く。
紙の擦れる音がする。
さらり。
さらり。
風が吹く。
アルトは花を井戸の縁に置いた。
白い花が揺れる。
遠くでミアが笑う。
レオの木槌が鳴る。
鳥が鳴く。
ページをめくる音がする。
世界は静かに動いていた。
アルトはしばらく花を見ていた。
名前は最後まで思い出せなかった。
井戸から離れる。
数歩歩く。
そして一度だけ振り返った。
白い花はまだ揺れていた。




