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『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


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『勇者様』

第七話 勇者様


牙狼が森の奥へ消えてからもしばらく。


誰も動かなかった。


風だけが吹いていた。


湿った葉の匂い。


獣の血の匂い。


抜いたばかりの聖剣から漂う微かな鉄の匂い。


それらが混ざり合い、森の空気は妙に重かった。


アルトは剣を見ていた。


手の中の聖剣を。


三ヶ月ぶりに抜いた剣だった。


昔は身体の一部みたいなものだった。


呼吸をするように抜き。


呼吸をするように振るった。


今は違う。


重かった。


信じられないくらい。


肩で息をする。


胸が苦しい。


戦ったからではない。


剣を抜いたからだった。


「勇者様……」


レオが呟いた。


小さな声だった。


憧れと。


尊敬と。


感動が混ざった声だった。


アルトの身体が固まる。


風が止まった気がした。


レオは気付かない。


何気なく言っただけだった。


それがわかったから余計に苦しかった。


アルトは剣を鞘へ戻す。


金属音が鳴る。


乾いた音だった。


「やめろ」


思ったより強い声が出た。


レオが驚く。


ミアも顔を上げる。


ノアだけが黙って見ていた。


「アルトさん?」


レオは戸惑っていた。


当然だった。


アルトは自分でも後悔していた。


怒ったわけじゃない。


レオが悪いわけでもない。


それでも。


その呼び方だけは駄目だった。


「……悪い」


アルトは言う。


「その呼び方はやめてくれ」


レオは頷く。


それ以上聞かなかった。


聞けなかったのかもしれない。


ミアが言う。


「また暗くなった」


アルトは返事をしない。


「おじさんの顔、雨の日みたい」


「放っておけ」


「放ってる」


ミアは即答した。


ノアが吹き出す。


レオも少し笑った。


アルトだけが笑えなかった。


ノアはそんなアルトを見ていた。


観察するように。


本を読むように。


「勇者って呼ばれるの嫌い?」


アルトは答えない。


「嫌いそう」


「……」


「違う?」


アルトは森を見る。


木々の間を。


沈黙が落ちる。


ノアは待った。


急がない。


人の言葉を引きずり出す時の沈黙を知っている人間だった。


「勇者じゃなくなったから?」


ノアが聞く。


アルトは首を振らない。


頷きもしない。


「じゃあ」


ノアは続ける。


「勇者のままだから?」


アルトの呼吸が止まる。


レオには意味がわからなかった。


ミアもわからない。


だが。


アルトだけはわかった。


痛いほど。


わかった。


勇者じゃなくなったから苦しいんじゃない。


勇者のままだから苦しいのだ。


世界は救われた。


魔王は倒した。


役目は終わった。


なのに。


誰も終わらせてくれなかった。


王国も。


人々も。


そして何より。


自分自身が。


ノアはそれ以上何も言わなかった。


森を歩き始める。


「村、近いよ」


それだけだった。



東の村へ着いたのは夕方だった。


空は茜色に染まっていた。


焼けた柵。


壊れた荷車。


倒れた見張り台。


牙狼たちが暴れた跡が残っている。


だが。


思っていたより酷くはなかった。


村人たちが必死に守ったのだろう。


応急処置がされている。


怪我人もいる。


泣いている子供もいる。


それでも。


村はまだ生きていた。


レオはほっと息を吐く。


ミアは孤児院を見つける。


「子供いる」


本当にいた。


小さな子供たちが建物の中からこちらを見ている。


不安そうな目だった。


レオは胸を撫で下ろす。


間に合った。


少なくとも。


少しは。


村人が近付いてくる。


年配の男だった。


顔には疲労が浮かんでいる。


アルトを見る。


腰の聖剣を見る。


そして。


目を見開く。


アルトは嫌な予感がした。


何度も経験した。


あの目だった。


「まさか……」


男が呟く。


アルトは目を逸らしたくなる。


「勇者様……」


来た。


やはり来た。


胃の奥が重くなる。


呼吸が浅くなる。


レオは何も言わない。


ノアも。


ミアだけが空を見ている。


男は頭を下げた。


深く。


本当に深く。


「来てくださったんですね」


歓声ではなかった。


熱狂でもなかった。


ただ。


安心した声だった。


疲れ切った人間の声だった。


アルトは返事が出来なかった。


助けてください。


そう言われる方が楽だった。


勇者として振る舞えばいい。


期待される方が楽だった。


でも。


ありがとう。


その言葉は違う。


重かった。


男は続ける。


「子供たちが無事なのは運が良かっただけです」


震える声だった。


「本当に……ありがとうございました」


アルトは目を伏せる。


自分は何もしていない。


もっと早く来られた。


もっと早く動けた。


そんな考えばかり浮かぶ。


それなのに。


感謝される。


それが苦しかった。


ミアが服を引っ張る。


「おじさん」


「なんだ」


「また雨の日」


アルトは少しだけ笑った。


本当に少しだけ。


「そうかもな」



夜。


孤児院に泊まることになった。


子供たちは疲れ果てて眠っている。


小さな寝息が聞こえる。


風が窓を揺らしていた。


アルトは外に出る。


一人だった。


古い井戸のそばに座る。


聖剣を膝の上へ置く。


月は雲に隠れていた。


剣の柄を見つめる。


手が少し震えている。


戦った反動だった。


心の奥に沈めていたものが。


少しずつ浮かび上がってくる。


仲間。


旅。


魔王城。


失ったもの。


忘れたいもの。


全部だった。


足音が聞こえた。


ノアだった。


何も言わず隣へ座る。


しばらく二人とも喋らない。


虫の声だけが聞こえる。


やがて。


ノアが言った。


「リシアなら何て言ったかな」


アルトの身体が止まる。


風も止まった気がした。


その名前を聞くのは。


久しぶりだった。


本当に。


久しぶりだった。


ノアは夜空を見ている。


アルトを見ない。


だから余計に逃げられなかった。


リシア。


花の名前を知っていた人。


鳥の名前を知っていた人。


星の名前を知っていた人。


そして。


アルトが思い出したくない人。


胸の奥で。


長い間閉じていた扉が。


静かに軋む音がした。


夜は深く。


静かだった。

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