『聖剣の重さ』
第六話 聖剣の重さ
風が止んだ。
森が静かになる。
葉の揺れる音も。
鳥の声も。
何も聞こえない。
牙狼は四匹だった。
木々の間に低く身を伏せている。
灰色の毛並み。
黄色い目。
飢えた獣の目だった。
魔王軍にいた頃より明らかに痩せている。
統率を失った魔物たちは弱くなった。
だが。
弱くなったからこそ厄介だった。
飢えている。
追い詰められている。
そして何より。
生きることに必死だった。
レオの喉が鳴る。
木剣を握る手に汗が滲んでいた。
怖かった。
本物だった。
訓練用の木人でもない。
物語の魔物でもない。
目の前にいる。
生きている。
自分を殺せる存在だった。
牙狼が一歩前へ出る。
低く唸る。
レオの足が少しだけ下がる。
その瞬間。
アルトが前へ出た。
無意識だった。
レオを庇うように。
半歩だけ。
それだけだった。
しかし牙狼たちは反応した。
獣は知っている。
群れの中で一番危険なものを。
四匹の視線が一斉にアルトへ向く。
アルトの身体が固まった。
聖剣へ手を伸ばす。
そこで止まる。
呼吸が浅くなる。
胸が苦しい。
森が消える。
牙狼も消える。
代わりに。
別の景色が現れる。
燃える村。
血の匂い。
仲間の悲鳴。
魔王城。
失ったもの。
救えなかったもの。
全部だった。
聖剣は腰にある。
抜けばいい。
昔ならそうしていた。
考えるまでもなく。
呼吸をするように。
だが。
今は違う。
指が動かない。
剣が重い。
信じられないほど。
重かった。
「アルトさん」
レオの声だった。
小さい声だった。
助けを求める声ではない。
呼んだだけだった。
それでも。
胸の奥で何かが揺れた。
牙狼が地面を蹴る。
速かった。
レオへ向かう。
レオは動けなかった。
木剣を握ったまま。
身体が固まっていた。
当然だった。
十歳の子供だ。
本物の死を前にして。
動ける方がおかしい。
その瞬間だった。
アルトの身体が動いた。
考えるより先だった。
聖剣が抜かれる。
銀色の光。
甲高い音。
牙狼の爪が弾かれる。
獣が吹き飛ぶ。
地面を転がる。
森が静まり返った。
アルト自身も息を呑んだ。
今。
自分が何をしたのか。
理解するまで少し時間がかかった。
聖剣が手の中にあった。
三ヶ月ぶりだった。
抜いたのは。
本当に。
三ヶ月ぶりだった。
腕が震えている。
怖かった。
まだ怖かった。
何も変わっていなかった。
勇者になど戻っていない。
だが。
それでも。
抜けた。
牙狼が立ち上がる。
唸る。
残りの三匹も動く。
今度は四匹同時だった。
ノアが呟く。
「なるほど」
本を閉じる。
その目は真剣だった。
「そういうことか」
レオには意味がわからなかった。
ミアだけが聞く。
「なにが?」
ノアは小さく笑った。
「この人、強いんじゃない」
牙狼が飛び出す。
アルトも動く。
だが以前ほど速くない。
完璧でもない。
一歩遅れる。
二歩目で体勢を崩す。
昔ならあり得なかった。
それでも。
前へ出る。
牙狼の牙を受ける。
剣で逸らす。
肩が痛む。
腕が痺れる。
汗が流れる。
苦しい。
怖い。
それでも。
下がらない。
ノアは静かに見ていた。
そして呟く。
「強いのに戦ってるんじゃない」
風が吹く。
黒髪が揺れる。
「怖いまま戦ってるんだ」
レオはアルトを見る。
その背中を見る。
勇者には見えなかった。
伝説にも。
英雄にも。
見えなかった。
ただ。
震えながら立っている人間だった。
昨日。
町の門で言っていた。
『俺も怖かった』
あれは本当だったのだ。
今ならわかる。
アルトは今も怖いのだ。
それでも。
前へ出ている。
牙狼が最後の一匹になる。
アルトは肩で息をしていた。
昔なら一瞬だった。
今は違う。
息が苦しい。
身体が重い。
それでも。
牙狼はゆっくり後退した。
群れの敗北を悟ったのだろう。
やがて森の奥へ消えていく。
静寂が戻る。
誰も喋らない。
風だけが吹いている。
レオが最初に口を開いた。
「すごい……」
アルトは首を振った。
「全然だ」
本心だった。
昔ならもっと上手く戦えた。
もっと早く終わった。
もっと。
もっと。
その時だった。
ミアがアルトの服を引っ張る。
「おじさん」
「なんだ」
「立ってる」
アルトは意味がわからなかった。
ミアは続ける。
「前は座ってた」
沈黙。
レオも。
ノアも。
何も言わない。
ミアだけが平然としている。
「今日は立ってる」
それだけだった。
それだけなのに。
アルトは返事が出来なかった。
風が吹く。
森の匂いがした。
遠くで雷が鳴る。
東の村はもう近い。
そして。
アルトは気付いていなかった。
自分が剣を抜いたことよりも。
自分が一歩前へ出たことの方が。
ずっと大きな出来事だったことに。




