『木の上の少女』
第五話 木の上の少女
雨は昼前に止んだ。
森にはまだ雨の匂いが残っている。
濡れた土。
苔。
朽ちた葉。
世界が少しだけ深く呼吸しているような匂いだった。
レオは街道を歩いていた。
木剣を背負っている。
靴は泥だらけだった。
何度も転んだからだ。
隣ではミアがパンを食べている。
宿屋の主人が持たせてくれたパンだった。
結局断れなかった。
「おいしい」
ミアが言った。
「そうか」
レオは前を向いたまま答える。
「レオも食べる?」
「あとで」
「さっきも言った」
「あとで」
ミアはしばらく考えた。
そして言った。
「こわい?」
レオは少しだけ黙った。
森を見る。
暗かった。
昼なのに夕方みたいだった。
「怖い」
正直に言った。
昔なら言えなかった。
兄だから。
男だから。
ミアを守るから。
そう思っていた。
でも。
怖いものは怖い。
勇者も怖かった。
アルトはそう言った。
だから自分も言っていいのだと思った。
「でも行く」
レオは言う。
ミアは頷く。
「うん」
それだけだった。
それで十分だった。
森へ入る。
空気が変わる。
湿った静けさ。
鳥の声が少ない。
虫の音も少ない。
何かがいる時の静けさだった。
レオは立ち止まる。
地面を見る。
大きな足跡があった。
獣。
かなり大きい。
しかも新しい。
手のひらに汗が滲む。
その時だった。
頭上から声がした。
「そこ踏まない方がいいよ」
レオは飛び上がった。
反射だった。
木剣を構える。
ミアは上を見る。
「いた」
木の上だった。
太い枝の上に少女が座っていた。
本を読んでいる。
黒髪。
旅装束。
足をぶらぶらさせている。
森の中なのに。
自分の部屋みたいにくつろいでいた。
「誰だ!」
レオが言う。
少女は本から目を離さない。
「ノア」
「名前じゃなくて!」
「名前だよ」
ページをめくる。
「君は?」
「レオ」
「へえ」
興味があるのかないのかわからない返事だった。
レオは少し腹が立つ。
「何してるんだ」
「読書」
「木の上で?」
「うん」
「なんで」
「安全だから」
レオは意味がわからなかった。
ミアだけが頷く。
「それはそう」
少女が初めて笑った。
「君好き」
ミアはじっと見上げる。
数秒。
それから言った。
「きれい」
「ありがとう」
ノアは笑う。
「でも」
ミアが続ける。
ノアが待つ。
「目がさみしい」
森が静かになった。
風が木々を揺らす。
ノアは少しだけ瞬きをした。
そして笑った。
「よく言われる」
そう言った。
でも。
その笑顔は少しだけ寂しかった。
レオにもわかった。
この人も何かを失っている。
そんな顔だった。
その時だった。
森の奥から足音が聞こえた。
誰かが走ってくる。
レオは振り向く。
そして。
思わず息を吐いた。
アルトだった。
雨に濡れた黒髪。
無精ひげ。
少し猫背の背中。
勇者らしくない。
英雄らしくもない。
ただ疲れた大人だった。
それでも。
アルトだった。
レオは少し笑う。
「アルトさん」
アルトは立ち止まった。
息を整えている。
いや。
違った。
何か言おうとしている。
でも言えないらしい。
そんな顔だった。
レオは気付かなかった。
アルトがここまで来る間。
ずっと自分を責め続けていたことを。
もっと早く来られた。
あの時すぐ動けばよかった。
レオを止めるべきだった。
一緒に出るべきだった。
そんな考えばかりが頭を巡っていたことを。
レオは知らない。
だから。
ただ言った。
「来てくれたんですね」
アルトは答えなかった。
答えられなかった。
その言葉が。
少し痛かった。
責められる方が楽だった。
怒られる方が楽だった。
でも。
レオは笑っていた。
安心したように。
少しだけ。
アルトは目を逸らした。
自分にはその顔を向けられる資格がない気がした。
その時だった。
ミアが近付いてきた。
「おそかったね」
アルトが固まる。
「……ああ」
「おそかった」
「……悪かった」
自然に出た言葉だった。
本心だった。
ミアは首を傾げる。
「なんで?」
アルトは言葉に詰まる。
「なんでって……」
ミアは不思議そうな顔をした。
そして言う。
「来たじゃん」
沈黙。
風が吹く。
葉が揺れる。
アルトは返事が出来なかった。
ミアの世界には。
遅れたから失格という考えがない。
来た。
だからいい。
それだけだった。
ノアが吹き出した。
「はは」
アルトが睨む。
「何だ」
「負けたね」
「何に」
「七歳に」
アルトは黙る。
反論できなかった。
ミアがアルトを見る。
「おじさん」
「なんだ」
「顔こわい」
「放っておけ」
「来たのに」
「だからだ」
「へんなの」
ノアがまた笑う。
レオも少し笑う。
森の空気が少しだけ柔らかくなる。
ノアはアルトを見た。
じっと。
観察するように。
「この人さ」
レオを見る。
「うん?」
「自分のこと嫌いだよね」
アルトが顔をしかめる。
「おい」
「違う?」
答えられなかった。
ノアは笑う。
「やっぱり」
その時だった。
ミアが言った。
「ミアは好き」
全員が止まった。
アルトも。
ノアも。
レオも。
「パンくれるし」
ミアが指を折る。
「木剣なおしたし」
もう一本折る。
「一緒にいてくれるし」
そして。
「好き」
それだけだった。
アルトは何も言えなかった。
勇者として褒められたことはあった。
英雄として感謝されたこともあった。
でも。
アルトとして。
こんなふうに言われたことは。
たぶんなかった。
風が吹く。
森が揺れる。
その時だった。
ノアの顔から笑みが消えた。
「静かだね」
全員が森を見る。
空気が変わっていた。
湿った匂いの奥。
血の匂い。
獣の匂い。
低い唸り声。
遠く。
だが近い。
レオの手が木剣を握る。
アルトの肩が強張る。
ノアは本を閉じた。
そして小さく呟く。
「間に合わなかったか」
森の奥。
木々の間に光る目があった。
一つ。
二つ。
三つ。
そして四つ。
牙狼だった。
飢えた獣たちが。
静かにこちらを見ていた。
誰も動かない。
風だけが吹いていた。




