表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『勇者が鬱になりまして』  作者: マコ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/23

『転ぶ者たち』

第四話 転ぶ者たち


朝から雨が降っていた。


激しい雨ではない。


空から静かに落ちてくる雨だった。


王都の石畳を濡らし、屋根を濡らし、人々の足音を少しだけ柔らかくする。


アルトは窓際に座っていた。


窓を半分だけ開けている。


湿った風が部屋へ流れ込む。


雨の匂いがした。


土の匂い。


石の匂い。


遠くの森の匂い。


そんなものを意識するようになったのは、いつからだっただろう。


昔は気にも留めなかった。


空を見れば天気がわかる人がいた。


花を見れば季節がわかる人がいた。


鳥の声を聞けば名前を言い当てる人がいた。


アルトはいつも聞き流していた。


世界を救うのに必要ないと思っていたからだ。


今になって思う。


必要なかったのは剣の方だったのかもしれない。


階下が騒がしかった。


珍しい。


宿屋の主人は朝から騒ぐ人間ではない。


アルトはしばらく無視していた。


だが声は続いた。


男たちの声。


焦った声。


不安な声。


やがて階段を駆け上がる音がした。


扉が叩かれる。


二回。


少し遠慮がちな叩き方だった。


レオだった。


「開いてる」


扉が開く。


レオが立っていた。


顔色が悪い。


何かを決意した人間の顔だった。


十歳の子供には似合わない顔だった。


「東の村が襲われました」


アルトは何も言わなかった。


「魔物です」


雨の音が聞こえる。


ぽつぽつと。


静かに。


「騎士団は?」


「夕方です」


遠い。


それだけで十分だった。


間に合わない。


「孤児院があります」


レオは続けた。


「子供が二十人います」


アルトは窓の外を見た。


「ミアくらいの子もいます」


胸の奥が少しだけ痛んだ。


それでも身体は動かなかった。


レオはアルトを見ていた。


期待している目だった。


勇者を見る目だった。


昔から苦手な目だった。


期待されるたび。


自分が少しずつ消えていく気がした。


「アルトさん」


レオが言った。


「行かないんですか」


長い沈黙が落ちた。


アルトは答えられなかった。


行かなければならない。


そんなことはわかっている。


わかっているのに。


動けない。


剣を握ることが怖かった。


戦うことが怖かった。


また勇者になることが怖かった。


レオは待っていた。


しかし答えは返ってこない。


やがて。


小さく頷いた。


「わかりました」


静かな声だった。


責めてはいない。


怒ってもいない。


ただ。


何かを決めた声だった。


レオは部屋を出ていく。


扉が閉まる。


アルトは動かなかった。


雨だけが降っていた。


どれくらい時間が経っただろう。


気付くと窓の外にレオがいた。


木剣を背負っている。


ミアもいる。


小さな鞄を抱えている。


宿屋の主人が入口に立っていた。


レオに何かを言っている。


声は聞こえない。


レオは首を振る。


一度。


二度。


三度。


頑固だった。


ミアはその隣で空を見ている。


どこか遠くを。


宿屋の主人はしばらく二人を見ていた。


それから紙袋を差し出した。


レオが首を振る。


受け取らない。


宿屋の主人は何も言わない。


ただ入口の椅子に置いた。


レオは歩き出す。


東門へ向かって。


十歩。


二十歩。


三十歩。


そして立ち止まる。


振り返る。


戻る。


椅子の上の紙袋を取る。


宿屋の主人は何も言わない。


レオも何も言わない。


それで終わりだった。


雨は静かに降っている。


レオとミアが歩く。


途中でレオが転ぶ。


石につまずいたらしい。


ミアが笑う。


レオが怒る。


ミアはもっと笑う。


レオは立ち上がる。


また歩く。


少しして。


また転ぶ。


今度は泥だった。


ミアが言う。


「また」


レオは顔を赤くする。


それでも立ち上がる。


また歩く。


アルトはその姿を見ていた。


ずっと。


十歳の子供だった。


怖いはずだった。


逃げたいはずだった。


泣きたいはずだった。


それでも歩いている。


その理由を。


アルトは知っていた。


昨日だった。


町の門の前。


レオは言った。


「怖いです」


初めて聞いた弱音だった。


そしてアルトは答えた。


「俺も怖かった」


本当のことだった。


魔王も怖かった。


ドラゴンも怖かった。


死ぬことも怖かった。


仲間を失うことはもっと怖かった。


レオはそれを聞いていた。


だから今歩いている。


怖いまま。


震えたまま。


それでも。


前へ。


アルトは目を閉じた。


胸の奥が痛んだ。


自分は何をした?


木剣を直しただけだ。


少し話しただけだ。


何も救っていない。


それなのに。


あの子は前へ進んでいる。


自分よりずっと。


窓から離れる。


無意識だった。


机の前へ向かう。


聖剣がある。


三ヶ月。


触っていない。


手を伸ばす。


止まる。


震えている。


思わず笑った。


魔王の前では震えなかった。


死の前でも震えなかった。


なのに。


剣一本が怖い。


怖いのは剣じゃない。


剣を握った先にいる自分だった。


勇者。


英雄。


救世主。


そんなものに戻るのが怖かった。


その時だった。


階下から声がした。


宿屋の主人だった。


「冷めるぞ」


アルトは顔を上げる。


「何が」


少しして返事が来る。


「スープだ」


それだけだった。


それだけなのに。


なぜか少しだけ笑いそうになった。


アルトは聖剣を見る。


窓の外を見る。


もうレオたちの姿は見えない。


見えなくなっていた。


雨だけが降っている。


静かな雨だった。


アルトはゆっくりと聖剣の柄を握る。


冷たかった。


冬の川の水みたいに。


静かな金属音が鳴る。


ただそれだけだった。


それなのに。


長い間止まっていた歯車が。


ほんの少しだけ動いた気がした。


勇者は戻らない。


まだ戻れない。


それでよかった。


今動いたのは勇者ではない。


ただのアルトだった。


アルトは剣を腰に差す。


そして宿を出た。


世界のためではない。


王国のためでもない。


ただ。


転びながら歩いていく兄妹を。


一人にしたくなかった。


それだけだった。


雨は静かに降り続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ