『町の門』
第三話 町の門
王都の朝は静かだった。
窓の外では白い鳥が飛んでいる。
アルトはその鳥を眺めていた。
名前は知らない。
昔、一緒に旅をしていた仲間なら知っていただろうと思った。
鳥の名前を覚えるのが好きな人だった。
花の名前も。
星の名前も。
雲の名前も。
アルトはいつも聞き流していた。
世界を救うのに必要ないと思っていたからだ。
今になって思う。
必要なかったのは剣の方だったのかもしれない。
階下から足音が聞こえた。
レオとミアだった。
最近は毎朝来る。
理由はわからない。
いや。
本当は少しわかっていた。
たぶん寂しいのだ。
レオも。
ミアも。
そして自分も。
「おはようございます」
レオが言う。
「おはよう」
アルトが返す。
ミアはパンを見ていた。
主人が何も言わずに小さなパンを置く。
「おはようは?」
レオが言う。
「おはよう」
ミアが答える。
「誰に?」
「パン」
主人が笑った。
アルトも少しだけ口元を緩める。
ミアは見逃さない。
「今笑った」
「笑ってない」
「笑った」
「気のせいだ」
「うそ」
レオがため息をつく。
いつもの朝だった。
少なくとも。
途中までは。
レオは窓の外を見た。
遠くに町の門が見える。
そして言った。
「今日」
少しだけ声が小さかった。
「外へ行こうと思います」
アルトは黙った。
レオは続ける。
「父さんと母さんが最後に通った道なんです」
風が吹く。
窓辺のカーテンが揺れる。
「だから」
レオは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「今まで行けませんでした」
ミアが即座に言う。
「こわいから」
レオは否定しなかった。
「そうだよ」
静かな声だった。
「怖い」
アルトは少し驚いた。
レオがそんな言葉を口にするのを初めて聞いた。
レオはずっと大人ぶっていた。
兄だから。
男だから。
ミアを守るから。
だから弱音を吐かない。
泣かない。
怖いとも言わない。
そういう子供だった。
そのレオが。
初めて認めた。
「怖いんです」
窓の外を見る。
門を。
「父さんたちがいなくなった場所だから」
沈黙。
ミアはパンを食べている。
主人は黙って皿を拭いている。
アルトだけがレオを見ていた。
怖い。
その言葉を。
自分はいつから言わなくなったのだろう。
勇者になった頃か。
もっと前か。
覚えていない。
「勇者様は」
レオが聞いた。
「怖くなかったんですか」
アルトは答えなかった。
答えようとして。
言葉が出てこなかった。
怖かった。
当たり前だった。
魔王城へ向かう時も。
仲間が傷ついた時も。
死にそうになった時も。
ずっと怖かった。
でも。
誰にも言わなかった。
言えなかった。
勇者だったから。
期待されていたから。
気付けば。
怖いと言う方法そのものを忘れていた。
「怖かった」
アルトは言った。
レオが顔を上げる。
「毎回」
風が吹く。
静かな朝だった。
「魔王も?」
「怖かった」
「ドラゴンも?」
「怖かった」
「死にそうな時も?」
アルトは少し笑った。
「それは特に」
レオが黙る。
しばらくして。
少しだけ笑った。
「勇者様でも怖いんですね」
アルトは首を振る。
「勇者だから怖かった」
レオは意味がわからない顔をした。
アルトも説明できなかった。
ただ。
本当だった。
期待があるほど怖い。
守るものがあるほど怖い。
失うものがあるほど怖い。
勇者は強いから怖くないんじゃない。
怖いまま進むしかなかっただけだ。
三人は宿を出た。
王都の通りを歩く。
魚屋。
鍛冶屋。
パン屋。
生活の匂いがする。
ミアは途中で何度も立ち止まった。
犬を見る。
蟻を見る。
草を見る。
レオは何度も呼び戻す。
「ミア」
「見てる」
「歩け」
「なんで」
「遅いから」
「急いでるの?」
レオは答えられない。
アルトは少しだけ笑う。
ミアは時々。
相手が持っていない答えを聞く。
門が近づく。
レオの歩幅が小さくなる。
アルトは何も言わない。
その時だった。
ミアが立ち止まる。
道端に白い花が咲いていた。
小さな花だった。
誰も見向きもしない花。
ミアはしゃがみ込む。
じっと見ている。
「これ」
と言った。
「父さん好きだった」
レオが止まる。
風が吹く。
白い花が揺れる。
「覚えてるのか」
「ちょっとだけ」
ミアが言う。
「帰ってくるとき持ってた」
レオは花を見る。
長い時間。
そして。
少しずつ思い出していく。
旅から帰る父。
草の匂い。
母の呆れた顔。
最後には笑う母。
忘れていた。
ずっと。
忘れたと思っていた。
でも違った。
痛いから閉じていただけだった。
ミアが言う。
「母さん笑ってた」
「そうだな」
レオの声が震える。
「笑ってた」
アルトは二人を見ていた。
羨ましいと思った。
痛むほど温かい記憶があることを。
自分には少なかった。
父の顔も母の顔も覚えている。
でも。
思い出せるのは訓練ばかりだった。
勇者になれ。
強くなれ。
泣くな。
そんな記憶ばかりだった。
アルトは白い花を見る。
名前は知らない。
昔の仲間なら知っていただろう。
花が好きな人だった。
「聞いてる?」
とよく言った。
アルトはいつも聞いていなかった。
どういう顔だったか。
少し思い出せない。
それなのに。
声だけは残っている。
不思議だった。
門の前で。
レオは立ち止まる。
長い沈黙。
風が吹く。
やがて。
レオは言った。
「怖いです」
今度は逃げなかった。
隠さなかった。
アルトは頷く。
「そうだな」
「でも」
レオは木剣を握る。
「行きます」
アルトは頷く。
「そうか」
「はい」
そして。
レオは一歩踏み出した。
大きな一歩ではない。
勇者みたいな一歩でもない。
ただの子供の一歩だった。
でも。
アルトには。
魔王城へ向かったどんな一歩よりも強く見えた。




