『残された者たち』
第二話 残された者たち
朝の六時十二分。
アルトは目を覚ました。
天井には木目がある。
昨日と同じだった。
一昨日とも同じだった。
変わらないものは、時々人を安心させる。
しかし変わらなすぎるものは、人を少しずつ傷つける。
アルトはそのことを、この三ヶ月で知った。
部屋の隅には聖剣がある。
机の上には木剣がある。
夜のうちに何かが変わることはなかった。
気分も。
人生も。
世界も。
ただ木剣だけが、昨日とは違う場所にあった。
アルトはしばらく布団の中からそれを見ていた。
傷だらけの木剣。
柄の文字。
妹を守るための剣。
その隣で、聖剣は相変わらず綺麗だった。
綺麗であることが、今朝は少しだけ恥ずかしいことのように見えた。
窓の外で鳥が鳴いている。
名前は知らない。
昨日も鳴いていた鳥かもしれない。
違う鳥かもしれない。
世界を救った勇者は、そういう区別がつかない。
アルトは布団から出た。
床板が小さく軋んだ。
洗面台へ向かう。
水をすくう。
冷たい。
指先が痺れる。
顔を洗う。
鏡がある。
見ないようにするつもりだった。
しかし今日は、見てしまった。
鏡の中には、くたびれた男がいた。
黒髪は襟足まで伸びている。
ところどころ跳ねていた。
顎には無精ひげ。
目の下には薄い隈。
灰色がかった青い目は、光を受けるとまだ綺麗なのかもしれない。
だが今は、曇った硝子玉のようだった。
背が高いことも、顔立ちが整っていることも、今の彼にはほとんど意味を持たなかった。
王都の肖像画の男とは別人だった。
あれは勇者だった。
これは、その後に残った何かだった。
アルトは鏡から目を逸らした。
顔を拭く。
木剣を見る。
扉を見る。
また木剣を見る。
扉へ歩く。
途中で止まる。
戻る。
椅子に座る。
しばらく座る。
立ち上がる。
また扉へ歩く。
扉の前で手を止める。
呼吸が浅くなっていた。
自分でもわかる。
ただ扉を開けるだけだ。
誰も殺しに来ない。
魔物もいない。
罠もない。
仲間を守る必要もない。
だからこそ、怖かった。
危険がある時、人は危険を理由に動ける。
危険がない時、人は自分のために動かなければならない。
アルトはそれが苦手だった。
手を伸ばす。
扉の取っ手に触れる。
冷たかった。
木ではなく金属だった。
ゆっくり回す。
扉が開く。
廊下には誰もいなかった。
朝の光が細く差し込んでいる。
埃が浮いていた。
こんなに埃が見えるほど、朝の光は白かったのかとアルトは思った。
廊下へ出る。
それだけで心臓が少し速くなる。
階段が見える。
一階へ続く階段。
十三段。
数えたことはなかった。
今は数えてしまう。
一段目。
二段目。
三段目。
たった十三段。
魔王城の階段よりずっと短い。
しかし魔王城の階段には目的があった。
上には魔王がいた。
倒さなければならない敵がいた。
この階段の下には、朝食と宿の主人と、たぶん昨日の子供たちがいる。
それだけだった。
だから遠かった。
アルトは手すりを握った。
木の感触がした。
多くの人が触ってきた手すりだった。
表面が少し丸くなっている。
誰かが毎日使ってきたものは、鋭さを失う。
人間もそうなのかもしれない。
一段降りる。
止まる。
二段目。
止まる。
三段目。
膝に力が入る。
四段目。
階下からパンの匂いがする。
五段目。
皿の音。
六段目。
主人の低い鼻歌。
七段目。
外を通る荷車。
八段目。
息を吐く。
九段目。
十段目。
十一段目。
十二段目。
十三段目。
降りた。
それだけだった。
宿屋の一階では、主人がパンを焼いていた。
小麦の匂い。
少し焦げた匂い。
バターが溶ける匂い。
三ヶ月ぶりだった。
こんなふうに朝の匂いをちゃんと感じたのは。
主人は振り返った。
一瞬だけ目を見開いた。
しかし何も言わなかった。
ただ少し目を細めた。
それだけだった。
「おはようございます」
主人が言った。
アルトは少し迷った。
「おはようございます」
自分の声が思ったより普通だったので、驚いた。
声というものは、しばらく使わなくても意外と残っている。
主人は窓際の席を軽く拭いた。
「どうぞ」
アルトはそこに座った。
窓の外が見える席だった。
昨日までは見たくなかった窓だった。
今日は、見たいわけではない。
ただ見えてしまう。
主人がパンとスープを置く。
「冷める前にどうぞ」
アルトは頷いた。
スープは熱かった。
少し塩が強い。
舌を少し火傷した。
痛みがあった。
小さな痛みだった。
しかし痛みがあるということは、まだ身体がここにあるということだった。
アルトはゆっくり食べた。
パンは外側が硬く、中は柔らかかった。
噛むたびに小麦の匂いが広がる。
昔、旅の途中で食べた黒パンを思い出した。
硬く、酸っぱく、砂が混じっていた。
それでもあの時は美味かった。
疲れていたからだ。
空腹だったからだ。
生きていたからだ。
今のパンはずっと美味い。
でも、あの時ほど美味くはなかった。
食事を終えかけた頃、宿の扉が開いた。
冷たい風が入ってくる。
アルトは反射的に顔を上げた。
レオだった。
その後ろにミアがいる。
ミアの髪は今日も盛大に跳ねていた。
昨日よりもひどい。
レオは宿の中を見た。
そして固まった。
アルトも固まった。
時間が止まったようだった。
扉の近くで風が動いている。
床に落ちた小さな埃が揺れている。
主人だけが平然としていた。
ミアが最初に口を開いた。
「あ」
アルトを見る。
レオを見る。
またアルトを見る。
「いた」
それは発見だった。
勇者に会った感動ではなく、探し物を見つけた時の声だった。
レオは何も言わない。
顔色が少し悪い。
逃げたいのだろう。
アルトも同じだった。
「座ったらどうだい」
主人が言った。
ミアはすぐに座った。
レオは立ったままだった。
「木剣」
アルトが言った。
レオが顔を上げる。
「預かってる」
レオは少し驚いた顔をした。
捨てられたと思っていたのかもしれない。
「すみません」
「いや」
それで会話は終わった。
二人とも言葉を扱うのが下手だった。
ミアは違った。
「あれ、ミアのパン?」
主人がパンを置いた。
「まだ何も言ってない」
レオが言う。
「おなかが言った」
ミアは自分の腹を見る。
「言った」
主人は笑った。
レオは顔を赤くした。
「大丈夫です」
「だいじょうぶじゃない」
ミアが言う。
「昨日も夜、半分のパン食べたでしょ」
「ミア」
「レオは食べなかった」
「ミア」
「あと泣いてた」
「ミア」
アルトはスープの表面を見ていた。
湯気が薄くなっている。
レオは座った。
木剣がないので、手の置き場に困っているようだった。
膝の上で指を握ったり開いたりしている。
その手には傷がある。
爪の間の土は今日も少し残っていた。
「昨日」
レオが言った。
「すみませんでした」
アルトは顔を上げる。
「なにがだ」
レオは拳を握る。
「聞こえてたかもしれないので」
風が吹く。
窓の外で鳥が鳴いた。
アルトは少し考えた。
嘘をつこうと思えばつけた。
聞こえなかったと言えばいい。
その方が楽だった。
しかし昨日の木剣が机の上にある以上、楽な言葉は選べなかった。
「聞こえてた」
レオは俯いた。
耳が赤くなっている。
「そうですか」
「そうだ」
「すみません」
「謝ることじゃない」
レオは顔を上げる。
アルトは窓の外を見た。
言葉を探す。
探しても、あまり見つからない。
「本当のことだった」
レオは黙った。
ミアはパンを食べている。
主人はカップを磨いている。
「父さんは死んだ」
レオが言った。
「母さんも死んだ」
昨日より静かな声だった。
けれど、静かな分だけ重かった。
「だから嫌だった」
レオは続ける。
「勇者様ありがとうって言われるたびに」
拳を握る。
「じゃあ父さんはって思った」
アルトは頷いた。
「そうだな」
レオが顔を上げる。
「俺には返せない」
アルトは言った。
「何も」
宿の中の空気が少しだけ変わった。
レオは何か言おうとして、言えなかった。
ミアはパン屑を拾おうとしている。
小さな指で。
何度も失敗している。
「俺も」
アルトは言った。
レオが見る。
「会いたくなかった」
「僕にですか」
「違う」
アルトは首を横に振った。
「勇者だった自分に」
レオは意味がわからないという顔をした。
当然だった。
十歳の子供にわかる話ではない。
しかしアルトにも、うまく説明できる話ではなかった。
「勇者様は」
レオは言った。
「勇者様じゃないんですか」
アルトは少し考えた。
その問いは、簡単なようで難しかった。
名前と肩書きは違う。
人は肩書きで呼ばれ続けると、いつか自分の名前を忘れる。
アルトは三ヶ月の間、自分の名前よりも勇者という言葉を多く聞いた。
「わからない」
とアルトは言った。
レオは驚いたようだった。
勇者がわからないと言うとは思っていなかったのだろう。
ミアはパンを飲み込んで言った。
「ふたりとも」
レオとアルトが見る。
「会いたかったんだね」
世界が少し静かになった。
誰もすぐには否定しなかった。
できなかった。
レオは勇者に会いたかった。
嫌いだったのに。
アルトは勇者だった自分に会いたかった。
会いたくなかったのに。
ミアはそれを、パンを食べながら言った。
子供は時々、深いことを何も考えずに言う。
だから怖い。
レオは小さく言った。
「僕は」
そこで止まる。
「わからないです」
アルトは頷いた。
「俺もだ」
二人はしばらく黙っていた。
沈黙は不思議と苦しくなかった。
ミアがパンを食べる音。
主人がカップを磨く音。
外を通る荷車の音。
それらが隙間を埋めていた。
レオが席を立つ。
「木剣」
アルトは言った。
「持って帰るか」
レオは少し迷った。
そして首を横に振った。
「今日はいいです」
「なぜ」
「まだ」
レオは言葉を探す。
「勇者様に持っていてほしいです」
アルトは何も言わなかった。
その言葉は少し重かった。
「困る」
と言いたかった。
でも言わなかった。
ミアが言う。
「木剣、おじさんの友達になった?」
レオが慌てる。
「物に友達とかないだろ」
「あるよ」
ミアは真面目な顔で言った。
「ミアのくつも友達」
「昨日なくしただろ」
「だから悲しかった」
レオは黙った。
アルトは少しだけ笑いそうになった。
笑ったのかもしれない。
自分ではよくわからなかった。
兄妹が宿を出ていく。
扉が閉まる。
風が少し残る。
アルトは窓の外を見る。
二人の小さな背中が通りの向こうへ消えていく。
レオは少し背伸びをして歩いている。
ミアは途中で何かを見つけ、しゃがみ込んだ。
レオが戻って手を引く。
また歩く。
アルトは窓枠に手を置いた。
木が少し冷たかった。
それから気づく。
窓は開いていた。
昨日、自分が開けたわけではない。
主人が朝に開けたのだろう。
でも今は、閉めようとは思わなかった。
風が入ってくる。
春の匂いがした。
三ヶ月前にも同じ匂いだったはずだ。
それなのに今日の方が、少し近かった。




